第一章 ~『浮気を知ったお嬢様』~
月日は婚約破棄を言い渡されるよりも前に遡る。当時のクレアは婚約者のジークを愛していた。
思慮深く、理知的で、言葉を選ばなければ腹黒い性格のクレアにとって、無邪気な子供のような性格のジークは理想に近い男性だったからだ。
クレアはジークと婚約をするために手を尽くした。公爵令嬢の権力と、その怜悧な頭脳、そして愛の力で振り向かせたのだ。
このまま時が進めば、愛する人と結ばれて、幸せな結婚生活を送れる。そう信じていたのに、クレアの愛は不意に裏切られてしまった。
「浮気をするなんて許せないわ!」
クレアは茂みに身を隠しながら、公園でデートをする二人を監視する。一人は彼女の婚約者であるジーク、そしてもう一人は男爵令嬢のアンナである。
アンナは小柄な少女で、愛嬌のある顔をしている。男受けする容姿は、その反面、クレアにとっては不快そのもの。男を誘惑する女狐の顔である。
二人は手を繋いで、仲睦まじげに花木を愛でていた。媚びるように、ジークの腕に頬を摺り寄せる彼女には殺意さえ覚える。
「殴ってやらないと気が済まないわね」
茂みから飛び出そうとするクレア。しかし彼女の腕は侍女のリゼによって掴まれてしまう。
「お嬢様、相手は第二王子のジーク様ですよ。殴ったら問題になります」
「でも浮気しているのよ」
「それでも暴力は駄目です」
リゼに止められたことで頭に血が昇っていたことを自覚する。ふぅと息を吐き出すことで、冷静さを取り戻した。
「……分かったわ。暴力は止めね」
「分かってくれましたか、お嬢様ッ」
「ええ。殴るだけでは物足りないもの。地獄を味合わせてやることにしましょう」
何も理解していないと、リゼは呆れるが、裏切られた怒りを我慢してやるほど、クレアはお人好しではない。
「ですがお嬢様、まだ浮気と結論付けるのは早いのでは?」
「どういうことかしら?」
「手を繋いでいるだけなら友人という可能性も……」
「馬鹿ね。浮気に決まっているでしょ。あの顔を見なさいよ」
ジークの口元は僅かに上向き、眼差しの奥には艶やかさがある。かつてはクレアに向けられていた顔だ。浮気だと確信するには十分すぎるほどの根拠だ。
「私の愛はこれで終わりね」
クレアにとって愛とは、愛されるからこそ捧げるものだ。浮気をされたのに、不変の愛を誓い続けるつもりはない。
百年の恋から一瞬で覚めたクレアは、婚約の破棄を決意する。しかし、決意を形にするには大きな障壁が立ちはだかっている。
「お嬢様もご存知でしょうが、婚約の破棄は簡単ではありませんよ」
「知っているわ。有責となれば、すべてを失うことになることもね」
この世界は愛の女神、フローディアによって生み出されたと信じられている。だからこそ、愛の契約を破棄する婚約の解消は大きなペナルティが設定されていた。
婚約破棄の原因となった有責側は、慰謝料として私財と身分を相手側に渡さなければいけない。
もしクレアが有責だと判断されれば、彼女は私財をすべてジークに渡し、立場も公爵令嬢から奴隷に堕ちる。婚約を破棄するにしても、ジークが有責だと認めさせる必要があるのだ。
「決定的な証拠がいるわね」
手を繋いでいただけや、女の勘では裁判に勝つことはできない。むしろ訴えたクレア側が断罪される恐れさえある。
「リゼ、やるわよ……」
「お嬢様、本気なのですね?」
「私が冗談で済ませるとでも?」
迫力ある笑みにリゼはゴクリと息を飲む。彼女は知っていたのだ。クレアの本気が如何に恐ろしいかを。そして心の中で愚かなジークを憐れむのだった。