令嬢は酒場でミルクを頼んで嘲笑される
アミーシャは迷子になっていた。
「ど、どうしましょう……」
アミーシャは代々豪商でならすローメン家の一人娘。そんな彼女の密かな楽しみは、屋敷を抜け出し近くの町で軽食やショッピングを楽しむこと。
大通りだけを散策していればよかったのだが、好奇心から路地裏に入り込んでしまったのが仇となった。
あれよあれよという間に迷路のような裏町に迷い込み、自分がどこを歩いているのかも分からなくなってしまった。
喉が渇いた。足も痛い。どこかで休みたい。
そんなアミーシャの目に飛び込んできたのは――
酒場『スカム』
世間から打ち捨てられたような薄汚れた酒場だった。
中からは複数の男の笑い声が聞こえてくる。怖くはあった。とはいえ疲労も限界だったアミーシャは意を決して飛び込んだ。
**********
アミーシャが酒場に入るや否や、20人近い客の視線が一斉に向けられる。
「初めまして皆さん。ごきげんよう。私、アミーシャと申します」
丁寧に挨拶までしてしまう。
ふわりとした栗色の髪にシルクのドレスをまとったアミーシャの姿は、場末の酒場にはあまりにも不釣り合いだった。ポカーンとする客たち。
テーブル席は埋まっているので、カウンター席に座るアミーシャ。
「……お嬢ちゃん、注文は?」
右目に眼帯をつけたマスターが、ぶっきらぼうに言う。
「ミルクを……お願いします」
アミーシャが上目遣いでこう答える。
――ギャハハハハハッ!
荒くれ者たちが笑い出した。下卑た笑い声が輪唱のように連鎖する。
「お嬢ちゃん、ここをどこだと思ってんだい!?」
スキンヘッドの大男が大笑いする。
「ぷぷっ、キミどこのお嬢さん? 世間知らずにも程があるよ」
まだ少年らしさを残した若者も嘲笑する。
ハハハハ……! ハハハハハ……!
マスターはため息をついて、もう一度「注文は?」と言った。
注文を変えろ、というニュアンスだ。
なのにアミーシャは――
「お酒は……飲めないんです。なのでミルクをお願いします」
空気が変わる。
さっきまでは笑っていた客たちも、アミーシャを「しきたりを分かってない余所者」を見るような目で睨む。
そんな一触即発の空気を、打破する一言。
「気に入った」
酒場の隅に陣取っていた、若い男の声だった。
「ロルフさん……!」
客の一人にロルフと呼ばれたその男は、髪は黒く短髪で、長身だった。
精悍な顔つきではあったが、目つきは鋭く、何らかの修羅場をくぐり抜けてきたような凄みを醸し出していた。
誰も文句を言わないあたり、荒くれ者たちに一目置かれた存在であることは確かだ。
ロルフは席を立つと、カウンターに歩み寄り、カウンター席に移る。
「出してやれよマスター。確かミルクぐらいあったろ?」
「分かったよ……」
まもなくミルクが出てくる。
「あの……ありがとうございました」
「別に……。放っておこうとも思ったが、ミルクって注文を押し通そうとするとこがなんか気に入ってな。さ、飲ってくれ」
「は、はい」
アミーシャがミルクを飲む。
喉が渇いてたので、一息に飲んでしまった。
「どうだ?」
「おいしいですっ!」
この一言にロルフは一瞬ポカンとすると、
「こんな雰囲気だ。てっきり味がしないとか言い出すと思ったのに、大したタマだ」
「ありがとうございますっ!」
あまりに素直な返事に、ロルフはかえって調子を崩される。
「どう見てもいい生まれのお嬢さんだが、なんでこんな酒場に?」
「町をお散歩してるうち、迷い込んでしまって……」
「迷うかね普通」
「町のごく一部しか知らなかったもので……」
「まあいいさ。だったら疲れてるだろ。しばらくここで休んでいけ。帰りは送ってやるよ」
「よろしくお願いします!」
俺が送り狼だったらどうするんだ、などと思いつつロルフは苦笑する。
「あの……マスターさん」
「なんだい」
「おかわり……よろしいでしょうか?」
マスターは笑うと、
「お嬢ちゃん見てたら意地悪くミルク出さなかった自分が恥ずかしくなってきた。好きなだけ飲んでくれ」
二杯目も快く出した。
ゴクゴクと元気よくミルクを飲むアミーシャ。その横で静かに酒を飲むロルフ。
その様子を見て、客の誰かが言った。
「なんだかあの二人……不思議と絵になってるな」
**********
アミーシャが名残惜しそうに言う。
「では私、そろそろ……」
「分かった。送っていこう」
代金を払い、二人は席を立つ。
「襲うんじゃねーぞロルフ!」などと冷やかす者もいたが、ロルフはそいつを睨みつけた。
迷路のような裏町をロルフとアミーシャは並んで歩く。
「ロルフ様はあの酒場の常連なのですか?」
「まあな」
「逞しい体をしてらっしゃいますけど、何かやっておられたんですか?」
ロルフは一瞬口ごもる。
「……普段は町の荷物運びなんかをやってる」
「ロルフ様なら、私など簡単に持ち上げてしまうでしょうね」
言ってから、突拍子もないことを口にしたことに気づき、赤面する。
「なんなら持ち上げてやろうか?」
「え?」
「なーんてな」
笑うロルフ。アミーシャも笑うが、心の中では少し残念がっていた。
**********
町を出て、少し歩いたところにある丘。その上にアミーシャの屋敷はある。小城ともいってよい規模の豪邸だ。
「あそこが私の家です」
「……驚いたな。まさかローメン家のご令嬢だったとは」
ローメン家は古くから商売人として財を成し、今では雑貨販売、交易、さらには都市開発にまで携わるという名門中の名門。ロルフは正体を知って驚くが、当のアミーシャはきょとんとしている。
「俺はここまでだ。それじゃあな」
「はい、本当にありがとうございました」
「また気が向いたら……酒場に来てくれ」
「はいっ!」
町に戻っていくロルフの背中を、アミーシャはいつまでも見つめていた。
自宅に戻ったアミーシャ。
ネグリジェ姿でベッドに入る。
枕を抱えながら、今日のことを振り返る。
酒場でミルクを頼み、笑われ睨まれ……もしロルフがいなかったらと思うと今になってゾッとする。
窮地を救ってくれたロルフのことを想うと、胸の高鳴りが止まらない。
「ロルフ様……」
アミーシャはなかなか寝付けなかった。
**********
翌朝、アミーシャはいつも通り起床する。
父と母は商売に忙しく、彼女の世話をするのはもっぱら使用人のベティだ。
「おはようございます、お嬢様」
「おはようベティ」
「お食事の準備が出来ております。さあどうぞ」
大きなテーブルにクロワッサンとスープ――そしてミルクが並んでいる。
「ミルク……」
「お嬢様?」
コップに入ったミルクにロルフの顔が浮かんでくる。怖さはあるものの、内に優しさを秘めたロルフの笑顔が浮かんでくる。
会いたい。
また会いたい。
アミーシャの想いは一晩経っても膨れ上がるばかりだった。
**********
酒場『スカム』で、男たちは飲んでいた。その中にはロルフもいる。
客の一人が言う。
「ロルフさん、あの後あのお嬢ちゃんとはどうなったんで?」
「どうもなってるわけないだろ」
「なんだつまんねえ」
「あの子はローメン家の娘だったんだ。俺らとは住む世界が違う。もう会うこともないだろうよ」
酒場の扉が開いた。
ロルフが目をやるとそこには――
「皆さま、ごきげんよう」
アミーシャがいた。昨日とは違う空色のドレスを身に着けている。
驚くロルフ。
「アミーシャ……どうして」
「気が向いたので……来てしまいました」
自分の発言を思い出し、フフっと笑うロルフ。
「気が向いたならしょうがない。ゆっくり寛いでってくれ」
「はいっ!」
マスターが顔を綻ばせ、アミーシャに話しかける。
「注文は?」
「ミルクをお願いします!」
その途端に沸き上がる笑い声。しかし、その意味合いは昨日とは正反対のものとなっていた。荒くれ者たちが、深窓の令嬢を迎え入れた。
「俺はゴードンってんだ。昨日はすまなかったな、よろしく!」
謝るスキンヘッドの大男――ゴードン。
「俺はユベル。昨日はからかっちゃって……ごめん」
あどけない少年顔の若者――ユベル。
次々に酒場の常連がアミーシャに自己紹介していく。アミーシャは持ち前の素直さと優しさでそれら全てに笑顔で応じた。
「すまないな。みんな、お前のようなお嬢さんは珍しいらしくて」
「いえいえ、お知り合いが増えて嬉しいです」
「それにしても、よくここまで来れたな。かなり複雑な道なのに」
「昨日ロルフ様に案内してもらったおかげですよ。これでも記憶力はいいんです!」
そこは豪商の血を引く娘といったところか。
これをきっかけに、アミーシャは『スカム』に足繁く通うようになり、ロルフと親密になっていく……。
**********
酒は飲まないものの、アミーシャは酒場の常連となっていった。
そのうち、ロルフが不在でも出入りするようになった。
「マスター、ミルクを」
「あいよ」
上品にミルクを飲むアミーシャに、スキンヘッドのゴードンが話しかける。
「相変わらずミルクか、お嬢ちゃん」
「はい! ゴードン様もたまにはいかがです?」
「いや……やめとくわ。俺、ミルク飲むと腹壊すから……」
「大きいわりに繊細な体だなぁ」
と少年顔のユベルが笑う。ゴードンはうるせえよと頭をはたく。
「よろしければお聞きしたいのですけど」
「ん?」
「ロルフ様もずっと昔から酒場に……?」
「あいつは実はそこまで古株じゃなくてよ。まだ半年ぐらいの付き合いだ」
「そうだね。だけど喧嘩は強いし、あの妙に落ち着いた雰囲気だしで、あっという間にここらのアウトローのリーダーみたいになっちゃった。本人はそのつもりないだろうけど」
「ロルフ様、喧嘩をなさるのですか」
「ロルフから吹っ掛けてくることはねえがよ。誰かに挑まれた時は連戦連勝だよ。この俺様も一発でのされちまった」
「まあ……」
降りかかる火の粉は払うとばかりに悪漢どもをなぎ倒すロルフを空想し、しばし自分の世界に浸るアミーシャだった。
戸が開く。
「アミーシャ、来てたのか」
「ロルフ様っ!」
アミーシャの顔がぱぁっと明るくなる。先ほどまでも笑顔だったが、やはり笑顔の“質”が違う。
これを見て、ゴードンとユベルは苦笑する。
「敵わねえな」
「お似合いだよあの二人」
**********
それは突然のことだった。
父ガロンと母ミーナが並び立つ。
珍しく父母がそろってアミーシャを呼び出したと思ったら――
「お前に縁談を持ってきた」
「え……?」
母が続ける。
「お相手は新進気鋭の実業家、エリック様よ。彼の商才と我がローメン家が結び付けば、更なる飛躍につながることは間違いないもの」
突如もたらされた政略結婚。アミーシャは心の中に暗雲が立ち込めるのを感じていた。
「お父様、お母様、待って下さい!」
「言っておくが断ることは許さんぞ。私たちがお前がちょくちょく勝手な外出をしてることを知らないとでも思ってるのか。これまで好きにさせてきた以上、しっかり親の言うことを聞いてもらうからな」
議論するつもりはないという強い口調だった。
「今度、茶会でエリック殿と会ってもらう。非の打ちどころのない好青年だからお前も気に入るはずだ。くれぐれも粗相をするなよ」
縁談、婚約、結婚。自分にはまだ遠い話だと思っていた。それが唐突に鼻先に突きつけられた。
この話が進めば、もはやロルフに会うことは叶うまい。いかにアミーシャが世間知らずといっても、それが許されないことであることぐらいは心得ていた。
「ああっ……」
ベッドの中でうずくまってしまう。
「お嬢様……」
使用人のベティはただ見守るしかなかった。
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エリックとの茶会は、ローメン家邸宅で開かれた。
「初めまして、アミーシャお嬢様」
「初めまして……」
青年実業家・エリックの第一印象は一言でいうとハンサムだった。いかにも模範的な端正な顔立ち。通った鼻筋は、そのまま本人の自信の表れのようであった。
後ろには数人の部下、さらには屈強なボディガードが控えている。スーツを着用しているが、その上からでも肉が盛り上がっているのが分かる。アミーシャが興味を持ったのを察したのか、
「あれはボルツと言いましてね。今はなき傭兵隊『黒き狼』の副隊長を務めたほどの男なのですよ。こういう重要な場にはいつも立ち会わせてまして」
アミーシャの両親は感服する。アミーシャも『黒き狼』のことは聞いたことがある。問題を起こして解散してしまった凄腕の傭兵集団、程度の知識だが。
エリックは「自分はそれほどの男も使役できる」というところを誇示したいのだろう。
茶会が始まる。
「いきなり堅苦しいのもなんですから、楽しくお喋りでもしましょうか」
「はい……」
エリックはトークも上手く、話題も豊富で、参加した者全員を楽しませた。
だが、アミーシャのエリックに対する印象はさほどよくなかった。エリックの社交性が、なんだか作り物のように感じられてしまったのだ。
なによりロルフのことを想うと……。
とはいえこれは縁談の場。アミーシャの意志とは関係なく、話はとんとん拍子に進んでいく。
茶会が終わる頃にはすでに全ては決まっていた。
「ではアミーシャさん、婚礼の日を楽しみにしていますよ」
「はい……」
二人は婚約した。もはやアミーシャにはどうしていいのか分からなかった。




