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大雪がくる歳に雌猫ニャーはわたしたちの前に現れた

 5年前いっとき我が家に滞留していた雌猫ニャーを書き留めたい思いをかたちにしました。

古家を建て直したとき、もしやと思い、いつも寒さ凌ぎで籠っていたあたりの瓦礫をどけてみましたが、小さな骨一つ見つかりませんでした。

 あのときに踏ん切りがついたつもりでいましたが、これを書いてようやく踏ん切りがついた気がします。

 もう5年は経つだろうか。3年ぶりの大雪でこの辺り一帯が宅配配送禁止区域の陸の孤島と化した歳だ。

 ニャーは初夏の暖くなり始めた頃にはじめて我が家にやってきた。土曜日のお(ひる)前だったと思う。その頃のわたしは、土曜は早起きして遠方の魚市場まで出かけ玄人(くろうと)に交じりながら「これだっ」と思った魚を買って夕餉の酒の肴を考え庭先の水道で鱗を落としていた、はずだ。それは、鱗の固い真鯛と格闘しているときだった、と記憶している。


 ニャーの声が包丁を持っているすぐの右脇から聞こえた。50センチと離れていない。なんならその輪っかになってる腕のくぼみにスルッと入って包丁の入ってない真鯛を丸ごといただいてもいいんだぜと、はじめっから直接の欲求をぶつけてくる。小さな女の子のような、或いは依存症患者のような近しさだ。

 だから、さかなの尻尾の先を少し多めに切って、ほらっと渡すのを躊躇する手立てはなかった。昨日も今日もずっとむかしからこんな風に慣れ親しんだように距離を縮めてニャーはやってきた。


 そんなんだから、次の日どころかそのあとの日課にしてる午後の長い散歩を終えると、縁側風のたたきを貼った中庭の一番目立つ場所でニャーは待っていた。

 いちばんの余所行きの正面(づら)の立ち姿をわたしに向けてくる。ニャーっと、わたしだけを呼んで、声を立てる。それなのに、最初にそのポーズをみつけたのは妻だった。

「あら、綺麗な真っ白の雌猫。でもすっごくやせっぽち。飼い猫じゃないね、野良だね、こりゃ」

 少し多めの真鯛の尻尾を餌付けした経緯(いきさつ)はまだ何も話していない。が、雌猫とすぐに言い当てた方にドキリとする。なぜドキリとしたかに気づかれないように、繋がっている雌猫と隠し事と気づかれないように、いきさつを話した。手短にするつもりが余計声を上ずらせていく。

 

 ふーん。

 妻は、特にそれに感想を述べることもなく上の空(うわのそら)でだまってニャーを見つめる。ニャーも妻から目を離さない。窓ガラスを挟んでいるとはいえ、はじめての敵か味方かも分からない女同志の視線には慣れているようだった。ニャーにゃーと合の手を入れるように泣いてくる。


「煮干しか何かそんなのあげたら。あげないうちずっと泣いてるよ、そのニャー」

 もうニャーは呼び名に聞こえた。これからもやって来ることを踏んでそういったのか、わたしが伝える緊張感を、 ー 何もそんなものを土曜の(ひる)からぶつけてこないでよー と、切り上げたかったのか。

 ニャーもわたしもどやされもせず、その日を終えた。 ー少し多めにやっておけば今日はもうこないよな。そう云いつけながら、窓を開け袋から煮干しを二つかみとってたたきに並べた。

 

「ニャーの皿、これでいいよね」

 翌朝、妻は食器棚の奥にしまっていたセラミック製の古い白い小皿を出してきた。むかし、わたしが|独身の頃に使っていたような見覚えのあるものだが、20年以上目にしたことがない。 

 むかし、妻と付き合う前のわたしが独り身のときに使っていたもの。そうしたものをわたしに隠して、所有し、いつか平然とわたしの前に置く。妻のいつもの習慣だ。

 そうした皿を、妻は脇の雨が降っても濡れない(へり)の辺りにそっと置く。

 置いた手がゆっくりと柔らかだった。猫が嫌いと思っていたのはわたしの勝手な思い込みでだった。

「まるごとの魚買ってきたときは、内臓とか尻尾とか、にゃーにあげるのはそれが一番だけど、いつもってわけにもいかないから・・・・・キャットフード、買ってこなきゃかな。いつまでいつくんだかわからないから、一番安くて小さいサイズでいいよね」

 なんだか、イジワルしてたのを忘れた小さな女の子が浮足立っているように見えた。


 


 ニャーはその日から毎日やってきた。妻の報告では一日2回。ニャーのような生活スタイルだと、うちのような食事処をいくつかキープしているはずだが、殊勝にもうちが用意したものは必ず口をつけるという。

 なにかにかまけて2回目の訪問を忘れたときも、中庭のたたきを覗き込むと、ちゃーんと前足を少し畳んでおねだりポーズして待っている。そのニャーの目とぶつかる。窓を開け横に置いたキャットフードをザーと流し込んでいく山盛りテンコ盛りをつくる。お腹いっぱいでも半分はたいらげてくれるという。

 「残してゴメンさなさい、だってわたしやせっぽちだしおばあさんだからそんなには食べられないのって言い訳までするのよ」妻は真顔でそう言う。

 それを済ますと、やっといつもの場所で昼寝にはいる。

 

                 眠ったふり、眠ったふり、眠ったふり

 

 そんなとき、きっと妻のあたまのなかは、蛇口を開けた女同士の共感のシャワーで水びたしになっているはずだ。


 今日から明日への日が変わる深夜、仕事やら何やらで疲れたわたしのあたまにそんな話が注ぎ込まれる。今夜は先に寝ていると安心してもう1杯と見込んでいたスコッチは、すでに氷は溶けきり、作った時よりも水かさを増している。

 グラスを見つめるわたし、その脇で自分だけ暗闇に潜む妻。ポートレートであれば、静謐で平穏な夜の仕舞い方にみえるだろうか。妻の目には愛しいものの存在が収まっている。それこそがこの家には一番必要なものだ。


 水浸しのグラスを見つめる目の先は妻が毎日見ているニャーが昼寝する日当たりのいい場所へと移った。平穏が続いているだろう我が家の日常へと移した。自分の身体に合わせてかたちのついた草むらはニャーのいないときもその存在が浮かび上がるくらい馴染んできている、きっと。


 こんなやせっぽの雌猫のどこにそんな魅力があるのか。ニャーは時折手下を引き連れて我が家にやってくる。皿に載った食事を綺麗に平らげたら、日差しの変わり目を読んで一番温かな草むらに身を置く。声を出さない大きなあくびを一つして眠りに入る。

 その一部始終を、手下の牡猫は言いつけられた距離を保ちながら、じっと見守る。

 どのオス猫も、よそ様の家にいくんだから行儀よく粗相のないようにと此処に来る前に相当に躾けられた顔をして、時折わたしの顔を一瞥する。みんな乳母日傘(おんばひがさ)の家猫だから、口も毛並みも綺麗だし、言いつけもよく守る。そして眠りに入ったニャーにお日様が当たり、湿った光沢を弾き始めた乳白色をうっとりと眺めている。瘦せて肉の少ない背中やあばらの凹凸がが陰影をつくり、理想の造形美に形造(かたちづく)られていく。にゃーの周りには小さな天使がいて、それぞれがパートを奏でて呉れていそうなキラキラが見えてきそう。こいつらが絵筆を取ったり弓弦を弾いたり出来たらどんなに素晴らしいことか。


 黒鉄色のトーマスは、高級皮革のドクターバックのような四角い顔と身体をスクエアーな立方体を目指すように、ピーンと背中を立て番をする。 

 真ん丸ばかり寄せ集めたような白黒ラパーマのキサブローは、本当は筋肉質の瘦せ型なのに、フワフワ柔らかな丸まった長毛のおかげで、お喋りなおばさんを連想する。

 手下の中では一番チビの三毛猫ターシャは特等席を許される、ニャーのあくびの吐息が吹きかかる真ん前で同じ格好をし始めた。三毛猫だからほかの手下と同様に本当にオスなんだろうか。わからない。

 そんな中、予め名のしれた山崎さん(っち)のロシアンブルーのたまは、ご主人様とわたしが顔見知なのをしって素性が暴かれているからなのか、皮を()かずに本性もみせない。オレが、こんな瘦せてぶさいくなやせっぽちに興味あるわけないじゃーんの顔を無理やり見せるのだ。オレは汚れたメスなんかより綺麗なオスに興味があると、やせがまんまでみせたりする。


 我が家には珍しく男の気配で賑わしくなると、男に生まれた因果なんて口にして、オス猫の背中に当ててみたくなる。(かたき)相手でも涙ひとつあれば繋がれる女とは違い、男は何かしらの作法がいる。安っぽくても呪文でもなんでもいいから、ある一定の厚さをもったものが必要なのだ。

「羨ましいよな、にゃーはモテモテで」と、こころからモテモテの雌猫ニャーを見て楽しがってみせる。そうした、いい年をしていろんな迷惑をかけてきた男の子供じみた顔が妻にはどうしても受け入れがたいものだった。

 もちろんわたしは気づかない。気づいても先を巡らせることはしない。ある意味、私の方が病んでいた。



 妻の態度が変わった。

 仕事やら何やらで帰りが遅くなり、家の中の顔色に頓着しないよう務める日々が続いた。だから、日曜の朝になって妻の態度が変わったのに、わたしは「やっと気づいたのだ」とするのが正しいのかもしれない。

 中庭を廻る長廊下伝いの脇に、子供たちが使っていた虫取り網が立てかけてあった。独り身の小皿のときと同様にこんなものまで捨てずにしまっておいたのかと感心した。が、そのあとすぐに嫌なものが見え隠れするのに気づいていた。すでに何度か最近使った形跡がある。何をどうしてと考えればいきつくだろうが、それをやるのは億劫だった。だから、妻が現れて直にしでかすまでは、そのあと杞憂で終わることもあたまの隅には残したかった。今朝の空をみれば今日一日が小春日和に覆われるのは確かなことだと言い訳めいている自分がいた。

 にゃーは既に来ている。わたしの中では、ニャーはひらがなのにゃーになっている。カタカナだと間に一本線を引いている他人めいた感じがして、妻には内緒でひらがなの方に呼び変えしたのだ。

 それも多分、妻の堪に障ったのだろう。

 にゃーは毛づくろいを始めている。前足後ろ足まで器用に口のところまで持っていき、舐めたり()いたり引っ搔いたり。皿は片付けられ、我が家は食事処ではなくなったらしい。猫なで声で食事をねだることは、もうしなくなった。以前にもこんな展開があったようだが、記憶が不確かだ。

 妻がやってきた。日曜の遅い朝食の相談でないことは、廊下に渡ったときに変わった強くキツイ足音でわかる。

 何も言わず虫取り網を掴むと、戸を開けるなり低く短く「シッ」っと唸る。にゃーの方では、すでにこんな扱いを受けているのに慣れたらしく、大人しくいつもの食事場所を譲り、岩陰の隙間に移った。日が高くなればもうすぐそこは、半分丸坊主になった柿の木が拵えた日当たり場所に変わる。

 やってきたときは初夏で、風通しのいい日影が特等席だったのに、いまは日当たりこそが特等席に変わった。つい3週間前まで、わたしがそこに寝どろむにゃーを目を細めて見ていたのは、まだ覚えていてくれるだろうか。

「まだ、あんなところでのさバってル。ほーんとフテブテしいメス猫」

 トゲトゲしい妻の声に、わたしはどうしてやることも出来なかった。目を向けてやることさえ出来なかった。だから、ただ、はだしのまま胡坐(あぐら)をかいた自分の足を見つめた。短く太いものの束にしか見えない男の不格好な足の指。

 ー さきちゃんの足の小指、ちゃーんと関節が3本はいってる・・・・・・珍しんだよ。日本人って小指の関節が2本しかない人の方が多いんだから、いいもんもってるなって大事にしなきゃ・・・・・こうゆうことなんだろうな、いまでも、まだ、続いているのって。

 こんなときに、いや、こんなときだからこそ、暗い部屋の中で過ごした湿った声が出てくる。喋った自分の素の声でなく、さきちゃんがきっと聞いててくれたわたしの声の方を。

 おんなたちの修羅場を見せても、ひとり小部屋に籠って別の女との逢瀬にふけるシコシコ男にあきれたのか、顔を上げるとにゃーも妻もどこかへ消えていた。わたしはこれからの心配よりもふたりが去っていった開放感に安心した。いつもこうなのだ。だから、妻は悪い方にばかりに回っていく。それは十分に分かっていることだった。


 


 雪が溶けた。降り積もった塊に慣れた目には、これらが溶けるなど永遠に来ない気がした雪が溶けた。今年の春を見つけるため、久しぶりにわたしは街へ出た。春は気ぜわしい。すぐにこちらが思っている穏やかなものではなく、生き物の本質を(はらわた)ごと見せるようなグロテスクさに満ち溢れてくる。

 だから、小春日和の小さな丸い温かみの中だけに現れるものを探しに出かける。

  幼い女の子がお母さんを追いかけながらするシャボン玉

  路地の二階から零れてきた湿って遅れるエレキギターのフレーズ 

  雪が溶けて現れた万年青(おもと)鉢の隙間の影の小さな蛇の抜け殻

 探し物は、何を探しているのか分からなくても探していれば必ず向こうからやってくる。

 

 この春は、3軒目のバーで見つかった。

 相変わらず、お客のいない店だ。ジャズ喫茶の体をなしているせいか、常にレコードは流しているもののマスターは音を消したナイターを見入っている。わたしは野球には関心はないので、その手の話はしたことがないが、いつもスワローズが出ているのできっとそこのファンなのだろう。

 ドアを開けると、階段を登る足音にマスターはよりも先に気づいた小吉(こきち)姐さんが出迎える。

 猫の鳴き声を聞き、マスターは頃合でテレビを消し、お客を出迎える顔をつくる。きっと小吉姐さんの声でウエルカムな客かそうでないかを腹に収めているのだ。もちろんわたしはウエルカムな客だと信じているが。

 

「小吉なんて、なんだか柳橋の芸者みたいだなぁ」

「お客さん、いったい幾つなんです。なんだか年寄りぶってる明治の隠居みたいですね」

 お天気とこの街界隈のはなしを二つ三つしたあとで猫を話の真ん中にしたら、わたしは初見で常連客になれた気がした。飼い猫には代々小吉を付けるのだという。いまの小吉は5代目。施設暮らしの母親が最初に飼い始めたのが初代で、いまの小吉と先代までの寿命を足すと猫五匹の命は丁度40年なのだという。

「この子は17歳のおばあちゃんだけど、3つで死んだのが2匹いましたからね」

 この店は小吉の住処(すみか)になっていて、休みの日でもマスターはお昼過ぎにやってくる。「だから、この店の本当の主人は小吉で、オレはこの店たった一人の従業員なんですよ」

 「たった一人の従業員」って言ったときのマスター、気持ちよさそうだったな。きっと、このはなし、そのフレーズのためにするんだろうな。


「それにしても、今年の雪はすごかったね」

 どちらから向けるでなくとも、立派なおじさんになってからやった久々の除雪作業は、いまだに肩が上がらない腕がじびれる背中が痛いと、幾らでも数珠つなぎに繋がって、キャッチボールは続いていく。

「小吉は、出かけたあとでも帰る家があるからいいけど。この街の猫たちはどうしてたんだろう」

「多分、あらかた死んじゃったんじゃありませんか。あんなに雪が降り続けばどんなに夜の街が恋しいお客さんだって出てこないですからね。1週間くらい休んじゃった店も多かったし、貰うもんで命つないでるこの辺りのノラなんて寒さに参っちゃって、松林にいっぱい死骸が転がってたってほかのお客さん、言ってたなぁ」

 エっと、わたしは話すマスターの顔をみた。マスターは平然と縦に割ったコッペパンにマスタードを塗っている。この店で火を使ってちゃんと手をかけたものはホットドックだけだから、お喋りを挟んでもマスターはお客さんのための仕事の手は休めない。だから、それを諌めることは出来ずに、わたしは二度見はしないで自分のグラスに向かう。

 わたしのざわざわした感じは小吉に伝わったらしく、ザザっとカウンターからテーブル席に移った。そして、そこにしばらく身体を置いたあとグラスに向かうわたしをしばらく眺めてから、再び足元に戻ってきた。季節は変わったのに訃報をしって慌てて線香をたてにやってきた亡き夫の友人を向かい入れる後家さんのように、寄り添ってくれたのだ。


ー ここいらの猫はね、最後はみんな松林にいくの。ここいら一帯に大きな砂浜があったむかしに砂が街まで飛んでこないように先人たちが植えたあの細長い松林。あそこまでだと街からまっすぐ行っても猫の足だと1時間はかかるでしょ。なにしろ上り坂があるからね、それを超える体力がなくならないうちに行かなくちゃ・・・・・だって、嫌だもん。亡骸になった自分をさらすのって、みじめじゃないの。もう足を利かせた()()もできないし、(とし)をとったら昔は(かたき)だった料理人たちからおこぼれを貰いにいくしかないんだから。みっともなくたって、その時まではそうやって辛抱しなくっちゃ。

 みんな、秋からしってたわ。降るまで知らずにのほほんとしているのは人間くらいよ。貰いものしかできなくなった雌猫は、馴染みの牡たちともきちんと身辺整理をして、松林に向かっていくの。最後に会えずに名残のある相手にはちゃーんとあとで伝わる方法を残しといてね。

 ほんというとね、あたしも少し心配考えちゃった。あたし、もう17よ。此処に居続ければこうして春は迎えられるけど、それだって来年のどうなってるかわかりゃしないし。それでも、あの人がまたお客さんに五代目なんて嬉しそうに話されちゃうと、情が移っちゃうし、お母さん死んじゃうまではあたしも頑張ってみようかな。



 小吉の顔は、にゃーになっていた。ニャーではなく、にゃーだった。わたしだけのにゃー。ニャーもにゃーも死んでしまったからもういない。今年の春はこうして知らされた。

 丸い温かみはなかったが、グロテスクではなかった。


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