第280話 心に堪える
倶利伽羅平は宵の国において最も広大な平原であり、見晴るかすと地平の果てまで手つかずの大地が、どこまでも続くようにすら見える。
その雄大なスケールの平原北西部に、地形的なイレギュラーとも捉えられる高山が存在する。それは大江山と呼ばれる霊峰であるが、今は強力な妖気が山全体に充満しており、昌幸が将兵を率いて進軍している倶利伽羅平の東端から見ても、山麓から流れてくるおびただしい邪な気がハッキリと確認できた。
頭領昌幸は、八幡の砦に精兵200名と、兵たちを統率する守将として守綱だけを残し、4000名余りの将兵を率いて、今、慎重に軍を進めている。強靭な戦力を持つ将として、当然竜次も昌幸に従い、行軍しているわけだが、豪胆さと繊細さを合わせ持つ彼は、幾らかの精神的プレッシャーを受けているのか、どうも顔色が冴えない。
(源義経、まさかそういうことはないだろうが……。いやそれよりもだ、人を斬りながら進むのは身に堪える)
どうやら竜次の心を乱している原因は2つあるようだが、その内の1つは、今のところ大したことではなさそうだ。ただ、もう一方の原因については、そうもいかないと見える。非情になれない彼にとっては、やはり人斬りの負担が重いストレスとなっており、心の内で自分に言い聞かせ、自らを何とか割り切らせようと懸命だった。
守将として砦に残り、昌幸と将兵たちを戦場へ送り出すとき、竜次の直属の上司である守綱は、大切な部下の繊細な面を随分心配し、
「よいか竜次。向かってくる宵の国の兵たちを斬ることに迷いを持つな。以前にも言ったが、迷いを持てばお前が危なくなる」
と、念を押して諭した。守綱から貰ったその言葉が、今の竜次にとって持ちこたえの支持棒となっているのだが、大蜘蛛のあやかしに操られた死人のような敵兵をやむを得ず斬り倒す度に、彼の心奥は乱れかける。
背中に貼り付いた大蜘蛛だけを斬れば操りが解け、宵の国の兵は人間らしい顔に戻り、その場で気を失うのだが、そうした場合においても命が助かるかどうかは未知数だ。倶利伽羅平を進む縁の国の軍に、気を失って目覚めない敵兵を回収する余裕はなく、助かる見込みを信じて平原にそのまま置き去るしかない。何とも心に堪える戦である。
「? あれは?」
そうした行軍の4日目、忍者の特性を活かし、無用な戦いを避けるためにも先行していたあやめが、倶利伽羅平中央部の平原で、操られた宵の国の兵たちに囲まれている将と正気の兵たちを発見した。全速力であやめは本軍に戻り、昌幸と幸村へ事の次第を報告する。
「精鋭部隊を向かわせ、操られていない正気の将兵を救おう。幸村、あやめ、騎兵100名を付ける。急いで囲みを破ってきてくれ」
『はっ!』
簡潔な報告から状況を把握すると、昌幸は即座に決断し、幸村とあやめを平原中央部に急行させた。幸村と騎兵を導く形で先行し、あやめが現場に再び戻って来ると、正気の将兵たちは手傷を負いつつも、まだ何とか持ちこたえている。あやめと幸村は騎兵100名と共に、操られた兵たちをなるべく殺さないよう囲みを破り、将兵の一団の救出に成功した。
「あっ!? あなたは!?」
少年の頃に出会った記憶だが、その精悍な美丈夫の顔は幸村にとって忘れようもない。操られた兵たちの囲みから救い出した将は、なんと宵の国の君主、源義経である。




