【The main unit the approaching enemy.③(迫りくる敵の本隊)】
その日の夜、向こう側の山に取り付いていた敵たちは、ようやく山を降り切って麓のあちこちにキャンプの火が灯り、暗闇に覆われたこの世界に彩を放つ。
「牛肉の匂いね」
「バーベキューでも、しているんだろう」
「牛肉は、やっぱり美味しいよねぇ~」
「そうか」
「あら、そっけないわね。ナトちゃんは、いつでも食べる事が出来るから、そう思うのよ。私なんてDGSEで中東・北アフリカ担当でしょう。一旦任務でパリを離れると牛肉が食べにくくなるからストレス溜まるのよぉ」
「イスラム教徒は戒律の関係で、殆ど牛肉を食べないからな」
「でしょー」
あまり好んで肉を食べない俺にとって、牛肉の存在価値と言うものはよく分からない。
同じ肉なら、牛肉よりも鶏肉の方がまだマシだと思うし、タンパク質を摂取する目的なら卵や大豆それにプラスアルファを考えるならDHAを含んだ魚の方がいい。
動物が生きていくためには、生きていた何かの栄養を摂取する必要がある。
草食動物は草を食べ、肉食動物は草食動物を食べる。
俺たち人間は、その両方を食べる能力を持つ雑食動物。
出来るなら、他の動物たちを余り苦しめずに生きて行きたい。
「ナトちゃんてさー、どうしていつも遠慮ばかりしているの?」
「遠慮なんてしていないよ」
「嘘。ハンスに抱いてもらいたければ休日に私なんかと遊ばずに、コッソリどこかのホテルで密会すればいいじゃない。トーニちゃんが可愛ければ、黙って食べちゃえばいいじゃない」
「俺は、そんな事、思った事も無い」
エマにしては話が馬鹿馬鹿し過ぎて、思わず笑いそうになる。
「でもね。ナトちゃんが食べなくても、結局誰かが食べちゃうんだよ。それを我慢するなんて意味ないと思わない?」
今度は食べ物の話に戻ったのか。
「それは、人それぞれだから気にしない。ただ俺は動物や植物が好きだから、少しでも誠意を持っていたいと思っているだけで、完全な菜食主義者でもないし、自分の思想を人に押し付けたりもしない。俺にできることは必要以上に食べないことと、食べ残さないことだけだ」
「私だったら、押し付けちゃうな……我儘だから」
「エマは我儘なんかじゃない。こんな友達思いで優しい女性なんか、そう居るものじゃない」
そっとエマの肩を抱くと、潤んだ瞳と目が合った。
「ひょっとして、泣いていたのか」
「うんにゃ、欠伸をしていた。だって私、ナトちゃんと違って睡眠時間チャンと取らなきゃ生きて行けない派なんだもの」
エマはそう言うと唇を近づけて来た。
目を瞑って、それを受け入れようとする俺。
しかしエマの唇はナカナカ届かない。
“何故?”
薄目を開けると、目を横に向けて何かに気を取られているエマの顔。
“何だ?”
エマの向いている方に目を向けようとした俺の肩を、忙しなくエマが叩く。
「見て、見て!ライブだよあれ!」
見るとキャンプの灯の中で、一際目立って明るい場所に人が集まっているのが見えた。
微かに音も聞こえる。
“ロックだ”
「キャー!戦場でロックの生コンサートだって、やるじゃない。まるでベトナムね!」
ベトナムの宿営地で、どんなことが行われていたのかは詳しくは知らないが、ベトナム戦争を描いた有名な映画の中でコンサートのシーンがあったのは知っている。
「士気を上げるために彼らは何でもやるんだね」
「羨ましいか?」
「そんな事はないけど、でもやっぱり少し羨ましいかも」
「向こう側についてもいいぞ。今なら未だ間に合う」
「嫌よ。奴らは屹度マリファナも持ちこんでいるわ。結局奴らにとって戦闘員なんて、只都合のいい駒。敵を倒すために恐怖心を取り去り、士気が上がればそれでいいの」
振り返ったエマが笑っていたが、その眼だけは笑ってはいなかった。
しばらくコンサートを眺めてからエマは寝に行き、俺はその後で見張りの交代に行った。
「レイラ、交代だ」
「ああ、ナトちゃん有り難う。でも少し早いわ」
「色々あって疲れただろう。だから……」
「なに?……お義父さんのこと?」
「ああ、まあ」
「好きよ。昔から」
「昔って?」
「ザリバンに入って直ぐの時からよ。実はね、お義父さんは私がザリバンに入った時、私の履歴を見て抜けるように忠告してくれたの」
「抜けるように?」
「脱走の手配までしてくれたの」
「脱走の手配まで、どうして?」
「さあ、詳しい事は分からないけれど“恨みは決して人を幸福に導かない”って言ってくれたわ」
俺たちの事だ。
「レイラは、それでどうしたの?」
「もちろん脱走なんてしなかったわ。当時の私はナトちゃんも知っている通り、復讐する事だけが生きがいだったから。私を幹部に推薦してくれたのもお義父さんなのよ。シリアで入隊した私に逃げ出す気が無いと分かると、お義父さんは私をイラクに呼び寄せて様々な革新的な仕事をさせて成果を上げさせてくれたわ。それで、本部に移った後は直ぐに私を呼び寄せてくれて、アサムの下で着々と実績を積むようにしてくれた。だから入隊後10年も経たないで幹部にまでなれたのよ」
レイラは、その話を終えると洞窟の奥に行った。
知らなかった。
ヤザに、そんなところがあったなんて。
まあもっとも、そのくらいの優しさがないと、あの綺麗なハイファを嫁に向かえることは無かっただろう。
夜空に瞬く数えきれない星々が、俺を囃し立てるように瞬いていた。