【About breaking up①(別れについて)】
カチャッ。
霧の立ち込めた新月の夜の森のように静まり返った廊下を、静かにゆっくりと閉めたはずのドアの金属音が棘のように切り裂く。
歩くたびにカツカツと音を立てる靴の音が時計の針を刻むように規則正しく、止めたいはずの時間を自らが止めようとしていないようで心に刺さる。
階段を降りて角を曲がると、そこにはレイラが待っていた。
「大丈夫?」
「ええ」
「ナトちゃん、だいぶ辛そうだったわね」
「あの子にとって、一番辛い事だもの」
「一番辛い?」
「そう、沢山の人たちに囲まれないで育った彼女にとって、出会いは特別なもの。それにも増して別れとなれば、なおさら」
「本当に、いいの? 今なら、まだ……」
「いいの。屹度あの子も分ってくれる」
そう言うと、エマは大きく一歩一歩を確かめるような強い足取りで通路を抜け、眩しく白い外に出て行った。
「大丈夫か」
エマたちと面会した部屋で、動くことも出来ずに項垂れていると、いつの間にかハンスが入って来ていて肩に手を当ててくれた。
“人の温もり”
いけないこと。
ハンスが困ることを知らながら、肩に乗せられたハンスの手をそっと抱いて頬に当てた。
怒られるかと思っていたら、ハンスは何も言わないで手を貸し続けてくれた。
「なにがあったのか」
しばらく、そうしていて心が落ち着いてきた頃にハンスが呟くように聞いた。
顔をあげてまだ斜め後ろに立ったままでいる、優しい顔を見上げた。
「いや、無理に言わなくていい。呟いてみただけだ」
「いいよ……実は、エマとレイラがDGSEを辞めるの……」
ハンスは俺の言葉には何も返事を返さずに、ただ後ろから優しく包み込むように抱いてくれた。
暖かい温もりに、身も心も溶けそうになる。
耳に微かにハンスの吐息を感じてゾクゾクしてくる。
心臓から手が出るくらい、ハンスの首を鷲掴みにして引き寄せて、唇を合わせたかった。
あのグランウンドの夜のように、情熱的なキスを受けて嫌な事や哀しい事、いや一時でも全ての心を溶かしてみたかった。
しかし、そんなことをすれば俺はもう部隊には戻れなくなる。
規律がどうとか言う事ではない。
今ハンスの唇に触れたら心の底から、女になってしまう。
戦場に出てもハンスの安否ばかりが気になってしまい、自分の事もまともに出来ずにチームに迷惑を掛けてしまうだろう。
戦場で迷惑を掛けてしまうと言う事は、即刻人の死に繋がる。
だからハンスの温もりを自ら振り解くために席を立った。
「もう触るな。なんともない」
「そうか、それは良かった」
折角優しくしてくれたのに、それを跳ね返すような俺の態度と言葉が気に障ったのか、ハンスが返した言葉も妙に尖っていたので聞き返した。
「何が良かったのか」と。
「任務に就くことが、出来無くなって貰ったら困るからな」
「フッ、こんな事くらい何でも無い。女の扱いが旨いのか下手なのか、君を揶揄ってみただけの事」
「それは奇遇だな。実は俺もそうだった。なにせ最近仕事漬けで女を抱いていないから、お前の様な阿婆擦れでも揶揄ってどんな反応をするかニルスと賭けをしてみただけだ」
「……お相子、だな」
言ってから勢いよくドアを開けると、そこにはハンスの言うようにニルス少尉が居て、目が合った。
「残念だったな、今度揶揄う時は、もっと尻の軽い女を探すといい」
ドアの前に立つニルスの体をすり抜けるように廊下に出ると、そのまま大股でドカドカとワザと大きな足音を立てて歩いた。
怒っている訳ではない。
込みあがって来る嗚咽で乱れてしまった呼吸を隠すため。
通路を足早に歩いていると交差する右側の通路から、急にアイスを持った2人の若い隊員がまるで子供の様に燥ぎながら急に現れた。
いつもなら先に気が付くし、いつもなら当たらないように上手くすり抜ける。
だけど今日は、まるでボーリングの玉のように2つのピンに命中してしまった。
倒れそうになった隊員をもう1人の隊員が慌てて支え、その手からアイスが離れて倒れそうになった隊員のズボンの上に落ちた。
「危ねぇな! 廊下はもっとゆっくり歩く様にしろ!」
アイスを落とした隊員が、振り向きざまに俺に注意する。
注意されて当然。
悪いのは、この俺。
廊下をまるで競歩の様なスピードで歩くのもそうだし、ハンスの優しさを跳ね返してしまった事もそう。
そして、そのあとの捨て台詞も。
ハンスは俺を揶揄って、賭けの道具にするような男ではない。
だからドアを開けたときにハンスの言う通りニルスが居たとしても、それはハンスの話した通りではないことは分かっていたし、おそらく俺たちの会話を聞いてしまったニルスの目が“そうではない”と教えてくれた。
それなのに俺は……。
「悪ぃ、アイス零しちまった」
「あ~あ、ズボンがベトベトだぜ」
「いや、これは俺のアイスじゃねえ。この乳白色の汁は……オメー、今の女性隊員にぶつかった拍子に抜きやがったな」
「アホか、そんなに早くは抜けねえし、なんで女が戦闘服着ているんだ?」
「ひょっとして、今ぶつかった女っていうのはLéMATのナトー1等軍曹か?」
「おいおい、エライ人に、ぶつかったもんだな。オメー明日、殺されるぞ」
「なんでだ?」
「廊下でぶつかった上に、射精までしたとあっちゃあ、殺されても仕方ねえ」
「だから、これはお前のアイスだろ。クリーニング代寄こせ!」
通り過ぎた後ろの方で、そんな他愛もない会話が聞こえていた。
俺たちも、あの2人のように素直に言い合えたら、どんなにか素敵な事だろう。