第35話 天城民間徐霊事務所は今日も閉店、
降りしきる雨の中、一人の女性は傘を差して天城民間徐霊事務所を訪れていた。だが入り口には休業中という看板が下げられており、中からも気配はしない。
「今日も戸締まりか」
仕方なく彼女は徐霊事務所から去っていく。
その背中は湿った空気のせいか、誰が見ても重く感じるだろう。それほどまでに彼女の足取りは重たく、雨という背景の中に美しく溶け込んでいた。
すれ違いに事務所へ才花と黒猟犬が戻ってきた。ゆかるんだ地面を見て、才花は思った。
「ねえ黒猟犬、誰か事務所に来ていたみたいだぞ。泥でも踏んだのか、足跡が残ってるし」
事務所までの道には泥の足跡が続いていた。明らかに誰かが来ていたかのような痕跡があった。
だが事務所の中へ入った跡はなく、手紙入れにも手紙は届いてはいなかった。
「黒猟犬。これから私たちはどうなるんだろうな。河童の愁にはもとの居場所であった河童川に帰したし」
「尺一に頼りたい気持ちはあったが、あの人はあの人でまだ危険の中に飛び込もうとしているしな。聖のいない天城民間徐霊事務所って、少し寂しいな」
「ああ。まあまずは身を潜めないとな。まだ妖かし連盟は私たちを探しているだろうし」
才花はため息を吐き、深々と落ち込んでいた。
「黒猟犬。私たちの日常は少しの出来事で大きく変わってしまうのだな。本当に、生きづらい世界だよ」
「ああ。それが世界というものだ。故に我々に平穏が訪れることはない。それ故、我々は常に苦痛を強いられる。それ故、我々はこんな人生を送る羽目になっているわけだ」
黒猟犬は長年経験してきたのか、静かにそう呟いた。
「才花。天城民間徐霊事務所はしばらく閉業だ」
「そうですね。あの頃が、恋しいですけど……」
才花は悲しげに徐霊事務所を見つめると、徐霊事務所での出来事を次々と思い出していた。
いつもクールな黒猟犬でさえも、思い詰めた表情で徐霊事務所を見つめる。
「またいつか戻ってこれると良いな。天城民間徐霊事務所に」
そう思いを馳せ、才花と黒猟犬は天城民間徐霊事務所へ背中を向けた。
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妖かし連盟本部。
本部には幾つか部屋が存在し、その中には功績を上げた妖かし語り専用に個室を用意されることもある。
木更津亜図人、彼にも個室は与えられていた。
今彼は妖かし連盟本部にて主催されている昇級パーティーにて祝われていた。
「木更津亜図人。そなたを準幹部へ任命する」
表彰台にて、妖かし連盟副会長ーー深上歩は会場へ響き渡るほどに言った。
木更津は会場の隅で壁に寄りかかり、それを聞いていた。
周囲にいた妖かし語りたちからは「何であんな奴が準幹部に選ばれるんだ」などという愚痴が吐かれていた。だかそれに耳を傾けることはなく、ただ静かに思い詰めたような顔で壁に寄りかかる。
「続いて、氷上。そなたを準幹部へ任命する」
それを聞き、氷上はまんざらでもない表情で深上副会長へ視線を送る。
(深上歩。彼も裏で何かしている可能性がある。妖かし連盟が知らぬまに裏の者に支配されている可能性も十分にある。それとなぜ俺を準幹部へしたか。考えても分からんな)
木更津は悩み、考えていた。
天城聖華、彼女という存在がいかにイレギュラーであったか。
名のない妖かし語り、しかし彼女には力があった。故に、白鳥南雲は油断した。よって彼は彼女によって討たれた。
だが次はそうはいかないだろう。
外部の者が妖かし連盟へ入ることはできなくなる、つまりは妖かし連盟は裏の者たちにより独裁され、ただの操り人形と化す。そうなれば、いよいよ世界は終わるだろう。
妖かし連盟が支配される、それはつまりーーそういうことだ。
「木更津さん」
一人の青年が木更津のもとへ駆け寄ってきた。
彼は先日木更津が警備をしている最中に木更津のもとへ質問をしに来た圦峠であった。
「何の用だ?」
「準幹部昇進おめでとうございます。ただそれだけはお伝えしとこうと思いまして」
「そうか。ありがとな」
先日のように怖くはない木更津を見てホッとする。
「木更津さん。この前は申し訳ありません。自分のことばかりで頭がいっぱいで」
「気にするな。俺も似たようなものだ」
「そうですか。やはり木更津さんも悩んでおられたのですね」
「まあな。いろいろあったし、悩みはするさ。それよりも、明日任務が早いんだろ。なら早く寝た方が良いぞ」
「では私はこれにて、失礼させていただきます」
「ああ」
圦峠は明日の任務へ備え、会場から去って家へと帰宅する。
木更津も居心地が悪く感じ始めたのか、壁に預けていた背を離し、会場から去ろうと足を進める。
そんな彼の前に、不気味な格好をした女性が現れた。目を黒い布で覆い、特徴的な衣装を深に纏っている。
「何者だ?」
「私は無邪気祓現。祓い魔語り」
「祓い魔語り?妖かし語りではないのか。で、君は俺に何の用だ?」
「ここで話すのは盗み聞きされるかもしれませんし、外で話をしましょう。丁度あなたも外へ出ようとしていたみたいですし」
まるで見通されている、そう感じさせる彼女の雰囲気。
目を覆い隠しているはずであるが、まるで前が見えているように歩いている。これは何かの術なのだろうか、それとも内側からは透けているのだろうか。
そんな疑問を抱えつつ、木更津は無邪気祓と名乗る女性とともに本部の外へ出た。
「で、聞かれちゃいけない話なのか?」
「そうでもない。ただ人混みが嫌いでね」
彼女はそう言っている間に、木更津は周囲を見回して人がいないことを確認していた。
それに気づき、無邪気祓はやや笑みを浮かべる。
「では本題へ入ろう。七海才花、という名の妖かし語りを知らないか?」
「七海才花?確か、天城の仲間だったか。今も尚逃亡中で、捕まえられていない、だったか」
「ああ。その通りだ。彼女は今も尚逃亡中で姿をくらましてしまっている。だけど君なら何か知っているんじゃないかと思って」
「知りませんよ。それに会ったことすらありません。ですがなぜあなたは彼女のような者を探しているのですか?」
「それは秘密。ただ一つ言うのなら、職務放棄、をしてしまっただけさ」
「職務放棄?」
木更津は首を傾げる。
「知らないのならこの話は忘れてくれ。じゃあまた」
無邪気祓は静かにその場から立ち去り、本部の中へと戻っていった。
木更津はしばらく本部の外で空に浮かぶ満月を眺め、何度もため息をこぼしていた。
今直面している現実に、やや憤りを感じながら。




