雲の上まで歩いてみた
雲。
空を見上げると、いつもぷかぷかと漂っている雲。
毎日の生活の中、ふと見上げると浮かんでいる雲。
そんな雲を見ていると
『ひょっとして……あの雲あたり……乗れるんでない?』
なんて思ってしまうことがある。
そんな事を思いつく時は、大抵がそこに行きたい理由があったりするものだ。
なので雲の上の世界へ行ってみることにした。
さて、いざ『雲の上』に行くにしても、どうやって行こうか。
飛行機なんかで何度かは行った事はあるが『雲の上に行きたいから』という目的で飛行機に乗るのはアホくさい。
少し悩み、すぐに閃く。
そうだ。
山に登ろう。
そう。歩いて。
自分の足で雲の上まで行けばいいのだ。
これならば、きちんと『行ってきた感』がある。
よし。山だ。
山に登るぞ!
とはいえ適当に選んだ山に上っても雲の上まで行けるわけではない。
雲はおおよそ2キロ程上空にあると聞く。
つまり2キロ。2,000m以上の高度のある山に登らなくては雲の上には行けないのだ。言葉にすると、なんとも大層な事に思えてきてしまう。
だが幸いな事に、この日本という国は海も山もある自然に恵まれた国。
日本百名山と称えられる先人達のおかげで登山道の整備された山の内、半分以上が2000mを超える山なのだ。
まして百名山とまで称えられる程の山に登れば、きっと気分も雲の上の人となる事ができるだろう。
さらに今はシーズン的にも登山のハイシーズンを超えて、紅葉を見る最後の登山チャンス的なシーズンだ。
10月にもなっていない今。冬山に向かうような覚悟も準備も必要なく、最低限の装備と準備だけで登山も大丈夫ときた。
うん。
登ろう。
今しかない。
なにせ登山をすると人生観が変わると聞く。
私の周りにも登山が好き過ぎて毎年山に登っている人や、最近登山を始めた同級生が「なんで俺はもっと早く山に登らなかったのだろう……」と何度も何度も愚痴っているのを相手にしてきた。
それほどに人を魅了するような魅力が山にはつまっているに違いないのだ。そしてそれは自分で体験してこそ得られるモノであるという。
そこまでの素晴らしいと感じる経験ができるのであれば、これは行ける身体と時間的余裕があるからには一度は行ってみるべきだろう。連休があるとなれば尚の事もう行くしかない。
こうして私は先の連休に登山するべく準備を始めた。
準備は準備で楽しかった。
その代償に財布は軽くなったわけだが後悔はしていない。
大分軽くなったが。
うん。ほんと軽くなったが。形から入るタイプの私は、ほんと軽くなった。ヤバイ。
でもまぁいい。楽しかったから。靴とレインウェア上下だけで軽く7万円飛んだけど問題…な……な、な、ななな――ななまんえーん!
さて道具など、その他も十分に揃え、いざ登山の予定を立てる。
日程は一泊二日、山頂付近の宿泊施設で一泊し、山頂の日の出を見る事にした。
宿泊施設もご飯諸々つけるとお値段いちまんえーん! えーん えーん えーん(エコー)
そんなこんなで登山当日。
既に山頂付近が5度以下となる気温の為、防寒具も酒も、しっかり持った。
しっかり詰めたリュック(ザック)が重い。13キロだ。初心者にありがちな余計な物だらけだろう中身だが持てない事は無い。これで2700mを超える山。くくり姫のいる山へアタックだ!
『くくり姫』だけでどの山に登るかが分かる人は相当な山好きな人だろう。
うふふふ。くくり姫にアタックだ!
なんだろう。言葉の響きに興奮してきた。待っててくくり姫っ! 今いくよっ!
午前五時過ぎ。
登山道入り口。
……雨天。
女心と秋の空とか、山の天気は――とかいうけれど、とりあえず気象レーダーによれば3~4時間もすれば上がる予報の為、出発を遅らせる。すると現代科学の力の通り雨が弱まってきた。
近くのおじいちゃんと話しても「あぁ~、こんならもうすぐ上がるだろうよ」との事。生き字引のお墨付きを得て霧雨の中アタック開始。
いやはや、いざ始まってみると、ただ足を動かすだけ。
中々にストイックな運動だ。
だが登山は、そんな辛さを癒す程の景色があるという。
景色を眺めて、歩く事こそが醍醐味というじゃないか。なんと楽しみな事か。
なんも見えない。
うん……白いね。
そうそう。ぼかぁ、白い世界を楽しみにきたんだ。うん。
み、みえ……
みえ……
見えにゃい。
ぼかぁ……白い世界を楽しみにきたんですよ。うん。
そう。ほら、異世界物はよく『気が付いたら白い靄に囲まれた世界にいた』とかよくあるじゃない。うん。あの世界を体験にきたんだ。うん。たのしいなぁ。あはははは。
そんな事をぼんやりと考えながら、ざっくり4時間程、足元の石だけを楽しみに、白い世界を黙々と歩み続ける。
じわじわと感じる辛さ。
ガスが当たり湿る事により冷える。休んだ時に一気に冷えだす寒さが辛い。レインウェアの脱ぎ着も結構面倒臭い。だが、ここで面倒臭がってサボると自分が辛い。
酸素が薄くなってきているのか、いつもよりも上がり易い心拍数を感じながら、身体に合わせてペースを調整し、ただ只管に黙々と足を動かす。
足が痛い。辛い。
辛い。
つらたん。
たんたん。
たんたたーん。
つらたん。
辛い。
以下エンドレス。
脳内で変な呪文のループが完成した時、それが効いたのか
晴れた――
いや……晴れたというより
もう、雲の上に来ていた。
霧が晴れる。
一気に世界が開けるような、そんな感覚。
いつの間にか雲の上に行くという目的を達していた。不思議な感覚だった。
目に飛び込んでくる景色は、正しく『雄大』という言葉が相応しい山。
そうしみじみと感じ、そしてその雄大さのあまり自身のちっぽけさを噛みしめるような、そんな不思議な感覚。
そんな感覚に浸食されつつ、私は思う。
『あ。そういえば高所恐怖症だった』と。
マジ高いとこ怖い。
何で山に来たんだろ? えっ? 足元不安定! 落ちたら死ぬ! うわコワっ! コワイコワイっ!
岩場から逃げるように登山道を進む。
登山道は、これまで来た道のように石の道が続くのだと思っていた私の目に飛び込んできたのは
異世界だった。
これまで見えなかった山頂が、ようやく姿を現し、感覚的にまったく別世界だと感じる程に景色が変わったのだ。
異世界。
別世界。
ガラっと変わる景色を目の当たりにして登山が好きという人の気持ちが、なんとなく理解できた。
登山が好きな人は、きっと俗世を離れて、全てを忘れることができる別世界に来たかったのだ。
そんな感覚を味わいたくて山に登るのだと。
自然とそう感じるほどに山の景色や、写真では伝えられないが、頬に当たる風、足の疲労感、なにより登山で燃え滾る身体の熱が、全てがそう訴えかけていた。
山は素晴らしい。
振り返り、自身の道程に思いを馳せながら、ただただ素晴らしいと感じる。
自然信仰が生まれる理由がよくわかった。これは敬意を払いたくなる。
本当に素晴らしい。
なによりも生ビールが安くて素晴らしい!
そうだよね! 売り切らなきゃいけないもんね! もうすぐ山が閉まるもんね! ひゃっはー!
生ビールを片手に、行動食として大量に持ち込んだ柿の種をつまむ。
心の底から、本当に生きててよかったと実感せずにはいられなかった。
『実感』という言葉の通りに、心から実感したのは、これが初めてかもしれないと思う程に良かった。美味い。生ビール!
気圧差で酔いやすい頭のまま、ビールを片手に風景を眺める。
夕日が身に染みる。
風が冷たい。
かなり冷えてきたので、早々に寝床へ向かう。
この登山シーズンに何人もの登山客の身を包んだであろう毛布に抱かれて宿泊。
ほんのり漂ってくる酸っぱ臭い毛布に……なんとも人間を感じました。
――何度となく目を覚ましつつ午前3時半に起床。
寒さに震えつつ、山頂への登山準備を整え、午前4時アタック開始。
驚くほどに風が強い。
下2枚、上6枚を防寒の為に着ているのに、それでも寒い。
だけれどもここまで来て寒さに負けて、ベストコンディションの御来光を諦めるなんて、もったいなさ過ぎる。
足を進め4時40分を回る。
すると、ほのかに空の色が変わり始めていた。
だがまだ山頂には辿りついておらず少しペースを早める。
到着――
自分達の上に雲一つない。
本当に吸い込まれそうな空。
怖くなる程に何もない空。
平衡感覚すらなくなりそうな空と暗闇に包まれながら、ベストポジションを探し、着席。
尚、ここは山頂の為、着席した地点から数歩歩けば見事な崖である。
落ちたら100%死ぬ。
山頂。
マジコワイ。
そして滅茶苦茶寒い。
冷えた岩から伝わってくる冷気が、吹き付ける風が、どんどん体温をうばっていく。
ただ震えながら。
ただただ震えながら太陽が顔を出すのを待つ。
震えながら40分程待った。
身体は芯まで冷えている。
太陽が昇る
陽はまた昇る。
顔を出した太陽の温かさが、固まり、冷えた頬に届き始めると、それだけで徐々にほぐれてゆく。
太陽の光が届き、吸い込まれそうな暗さと、闇の黒しか存在しなかった所が色を持ちはじめ、やがて世界の全てに色がついてゆく。
太陽の力を全身で感じた気がした。
太陽ってすごい。
しみじみ思った。
いや、マジで足元こえぇなぁと――
こうして御来光と高所恐怖をじっくり堪能し、山頂から宿泊小屋へと戻って朝食を取り、そして8時、下山開始。
約5時間かけ、しっかりと自分の足で山を下り、無事帰ってきた。
雲の上から帰ってきた私は今。
3日続く筋肉痛とともに、登山を振り返って思う。
もう登る事はないなっ! と。
いや、だって、景色を見にいく苦労として、この疲労は割に合わんよ。
高い所もめっちゃ怖かったし……
最初のつり橋の時点で超怖いっつー話だ。
あぁ、怖かった。マジ怖かった。
ただ……ただ『じゃあ登らない方が良い?』と聞かれると、そこは自信を持って『登った方が良い』と答える。
その理由は、単純に人生経験として良かった。
人生経験という漠然とした回答が嫌いな人に、実用的な回答をするならば、社交スキルとして登山をしたことのある話はネタとして使えるし、それに取引先に登山をしたことをある人がいた場合、強い連帯感を持つから仲良くなりやすいからオススメできる。
これらが筋肉痛と引き換えに手に入るのならば安い物だ。
……本当に不思議なのだが
今『もう登る事はないなっ!』と、心から思っているのだが、どこかで来年。また、山を登っているような気がしないでもない。そんな気持ちもあるのだ――
山には人が計り知れない魅力があるのかもしれない。
異世界に行きたい人。まず山に登ろうぜっ!