ベルとエドガー
「最も愚かしい死ですね。」
ベルは静かに死にゆく王に告げる。
諡するとしたら「紅の王」か。エドガー・ハルタト・ゴーグは生前は血の王と呼ばれていた。
武は剛にしてかつ知に優れ、その政は冷酷を極めた。厳格なルールと血の粛清。15の時に規範の神と契約し、罪人の血を捧げ続けた。25にして大陸のほとんどを手中に収めた彼は盤石な楽園を作ろうとした。
そしてある年、神がその働きを認め神子を一人遣わした。それがベルである。
ベルはこの国に生まれ、25の時己が神の子である事を思い出した。それまではだだの娘として育ち、初潮を迎えた後は修道院で過ごしていた。
ベルが思い出したその時、多数の流星が流れ虹は煌めき、花は咲き乱れそして赤い雪が降った。
神職に就く全ての者がその存在を知り、それは最高司祭を兼任するエドガーも例外では無かった。
ベルが城に召された時、開口一番神子は言い放った。
「陛下は最も愚かな死を迎えるでしょう。」
武官はすぐさま彼女を切り捨てるよう進言した。
「我が神は、余が己が力に溺れて規範を乱す事を正そうとされているのだ。」
不思議と怒りは少しも感じなかった。
純朴な赤茶けた髪にそばかすの多い頰、大きな瞳は自分とそう変わらない年だとは思えないほど幼げだった。
神が子を遣わした。しかも女性である。幸い妃は居なかった。不思議なほど必要性感じず、忙しさを理由に婚姻は避けてきた。宿命を感じた。
ベルはいつも口を真一文字に結び涙を堪えるような厳しい顔をしていた。自分の所業を聞き及んでいるのであろう。
「余が恐ろしいか?」
「…わかりません。」
ベルを城で過ごさせた。普通の娘が好むようなプレゼントをし、朝夕の食事は共に過ごした。しかし未だ表情は固かった。
身の凍るような夜、テラスに佇ずむベルを見かけた。
「何を見ている?」
ガウンをかけてやる。そのまま温めようとして、振り払われた。
「…街を。」
街の向こうの、生まれた地を見ているように見える。
「その瞳の先に、想う男でもいるのか?」
「将来を誓い合った相手はおりました。」
何となく、そんな気はしていた。
しかし、修道院にいたのだ。その男は今は居ないのだろう。
冬の始めに出会った二人は雪解けの頃、遠駆けに出かけた。
森を抜け、平野を走り海辺に着く。水平線は眩しく、息は白い。
「未だ海の向こうより船が見えたことは無い。この先は何があると思うか?」
「陛下は海の向こうまで求めるのですか?」
「まずはこの大陸全てに善政を敷いてからだ。」
「善政、ですか。」
「街を焼き、民を虐殺した余が言うのが可笑しいか?百の街を律するために1つの街を焼き、万の民を守るために1人を血祭りにあげる。余は理不尽に虐げられる者が無い世を望むのだ。その道には無垢な女子供の死体も必要だと考えている。
余は可笑しいか?」
「狂っています。」
「そうか。」
エドガーはベルの髪に口付けた。
「…海の向こうは我が神の力が及ばぬ地でございます。諦められたが良いでしょう。」
「我が民に仇なす者がいれば容赦せぬ。」
春になり大陸での最期の戦いが決まった。出陣のため、城を離れる。ベルはやはり厳しい顔をしていた。
戦は当初ひと月もすれば落とせると思っていた。しかし、彼の地での戦いは苛烈を極め、気付くと三月も経っていた。
漸く戻ったエドガーにベルはやはり厳しい顔で抱きついた。
「足は生えておるぞ?」
黙ってしがみつく彼女を優しく包んだ。
夏の星空の下でベルは話した。
「私は生まれるずっと前からの記憶があります。」
「それは胎の中ということか?それとも前世の類か?」
「前世もその前もずっと、です。」
彼女は今自分の腕の中にいる。もはや振り払われる事は無い。
「神と契約し得る魂は一つきり、あなたのみです。そして私はいつもその魂を追いかけています。」
「それは過去に神と契約した者が俺の前世と言うことか?」
「過去も含めて、この世界以外の世界でも神と契約し得る人はあなただけです。」
「俺は知らないうちに色んな世界を征服して回っていたんだな。」
「未遂ですけどね。」
「そうか。」
軽口を叩きあえるようになり、彼女は笑うようなった。いつかの海辺に2人だけで過ごす家を建てた。季節は移ろい、秋が終わる頃彼女を抱くようになった。
閨でベルは聞いた。
「何ゆえ、世界を欲しているのですか?」
今はもう厳しい顔を見ることは少ない。それでも涙を堪えるような瞳は変わらない。
「それが分からない。」
言葉はとうに砕け、彼女の前ではただのエドガーになった。
「分からない?」
「神と契約する時に『最も大切な気持ち』を捧げた。最も大切なのに、捧げた理由も今は分からない。なんだと思う?」
「私でしょうか。」
「そうだな。」
ベルは冗談を言ったのだろうが、もし再び『最も大切な気持ち』を捧げるならきっとそれはベルへの想いに違いない。
大陸に戦争は無くなり、その規律のため小競り合いも無くなった。厳しい冬の後の春のように豊かさを得て、罪人も減っていった。
神への供物が無くなり、加護は薄れ、災いは海の外からやって来た。
漸く得た平穏を手放す訳にはいかない。
漸く得た彼女の微笑みを絶やす訳にはいかない。
神と新たなる契約を結ぶ。代償は『最も大切な気持ち』
即ちベルへの愛であった。
契約は成らなかった。
海からの激しい砲撃。咄嗟にあの家を守るよう願ってしまった。代償を示さなかった結果、神は容赦なく命を刈り取った。
「最も愚かしい死ですね。」
ベルは静かに死にゆく王に告げる。
数多の家を焼き払い、人々の想いを踏み潰した王が、たった1人の女との家のために死ぬなんて。
エドガーは一言「また会おう。」と呟いて果てた。
ベルの生まれた町は王家の避暑地であった。小さな国の継嗣であったエドガーは、とある夏に恋に落ちた。
一夏を使って恋を育み、次の夏までに愛へと変わった。しかし、愛を誓った相手は成人すれば隣国の王家の奴隷になる事が決まってしまった。
人格も尊厳も与えられぬベルを助けるために、自身がベルを忘れても、必ずベルを助けられるように神と契約した。
何度生まれ変わっても、何度も求め合い、その度に自分を守るために記憶や想いや命をかけてしまう愚かな恋人。彼を救うために彼を拒絶すべきなのにできぬ自分。
そっと父である神に祈る。
約束を守るために自分も旅立つ。
己の命を使って、この下らない世界を終わらせてから。