今日の街角も雨の匂い:7 傘の忘れ方を思い出した 今度こそ僕は君から雨を受け取りたい
学校の下駄箱
ビジネスホテルの部屋
街角のコンビニ
傘は忘れるっていうよりも
わざと置いておくもの
雨でもないと役に立たないし
晴れてきたら気分も明るくなって
誰かに傘をあげたくなる
見ず知らずの誰かに遠い親切をするなんて
ネット時代でも理解されるだろうか
遠い国の貧しい子供たちに募金ができるだとか
そういうのって何だか賛同できない
「私たちにできること」って数円の募金から?
心を痛めるだけでお金を出さないやつは偽善者ってやつ?
お金を出しても偽善でしょ
僕はお金をパンに変える
行ったこともない貧困地帯の子供たちだってそう
僕は彼らの手に金貨を握らせたいわけじゃない
抱え切れないほどの財産を持ってるやつらの
数え切れないくらいの金貨の価値を奪い取って
絶望していく表情の深みを見てみたい
◇
とは言っても
地上を歩くのは面白い
くんくん匂いを嗅いでいるのは
おいしいものを探しているのではなくて
僕にとって善だと言えるものに出会うため
積み重ねる功徳に頼ろうとするのは
年金を当てにするようなものか
それじゃあセックスに夢を見てもいいんじゃないの?
その瞬間の特別な感覚にまで罪悪感を持たなくていいでしょ
ああでも
こうやって堕落していったんだろうな
そこから這い上がれるなんてよくもまあ楽観視できたもので
でもね
ただの体じゃなくて
体のなかにある触れそうな光や
それと結びついている感情
そうそう
そういうものを見つめられる第二の空間のために
セックスっていう儀式があるような気もする
僕らが今までやってきた幼稚なじゃれ合いもいいけれど
真剣な顔をして愛を語り合った恥ずかしい夜を思い出しながら
それが徹頭徹尾しっかり自分の意志だと言えるなら
いのちの重さが変わってくる
僕らにできることって
少なくない
◇
あのころの無意識のどれくらいが
僕の手足によって把握されているだろう
下駄箱の時代
香奈理子の近くにいる時の僕はいつも
自分の一生のなかのどこかで二人抱き合うことがあるだろう
と思っていた
だけれど二人が裸になっている姿は想像できず
それが僕らの関係性の限界だと思い込んでいた
つまり
僕らが履いていた青春の蒸れた匂いよりも
ポテトの油臭さのほうに現実味を感じていたということ
加えて彼女はぜんぜん嬉しそうな顔をしないから
きっと喘ぎ声も出さないんだろうなと決めつけていた
夢のなかみたい
それくらい香奈理子はあやふやで
食事も排泄もする必要がないんだろなと
ぼんやり想像していた
だって香奈理子の糞便だよ
そんなもの存在しないに決まっている
だけど彼女の唇は確かに存在していて
化粧気のない顔と形成途中の太もものなかにいて
その赤みの強い膨らみだけは
不思議と現実に繋がっていた
特に雨が降ると
しずくに濡れた唇を中心にして
香奈理子という女の子が世界に出現するのだった
◇
さて
僕は香奈理子に対していろんな妄想をしてきたし
それと同じくらいいろんな彼女を見てきた
そして彼女に対するさまざまな想像のなかで
どれが本当の香奈理子だろうと何度も考えた
たぶん
出会ってから今までの彼女との付き合いのなかで
僕は一度と言わず彼女を捉え違いしている
本物と偽物があるということ
だから体調が悪い時には香奈理子と会おうと思わない
「ああこれが香奈理子だ」
と確信を持って感じられる時以外
僕には何も見えていないと言っていい
つまり
僕は彼女に対して「永遠の愛を誓います」なんて
言えるはずもない
でもね香奈理子
この広い世界のなかに一瞬現れる君という存在に対して
僕は「真実の愛」を誓うことだったらできる
◇
ああー
雨だ
仕事場の置き傘を借りてとぼとぼ歩いて帰ろう
なんて時に
街角で香奈理子は立っている
「迎えに来てくれたんだ」
そう
傘も差さずに所々濡れている彼女は
すっと僕の隣に入ってきた
相合傘をするの
もしかしてはじめてかもしれない
そしてこれが
僕らのはじめてのデートのような気がする
雨の匂い
いいや
香奈理子の匂いだ
女子高生の時みたいな柔らかさを今でも感じるのは
彼女の心が今もまだ変わっていないということ
「どこに行こうか」
「世界か社会
もしくは私たちの家」
「だったらまずは
二人の家へ」
それってどこのこと?
でも僕らの足は止まることなく進んでいく
香奈理子とは表情で会話をすればいいから
言葉で喋ることはあまりない
そんな僕らは周りからどう見られているだろうか
無言のカップルが雨の町を歩いているってだけじゃない
僕らは光り輝きながら
今日の悲しみについて全身で表現している
それがどこの戦争のことかなんて訊かれることがあったら
僕らはもっともっと沈んだ目をするだろう
ここが
僕らの現実だ
◇
それにしても香奈理子はいい匂いで
ここにだけ世界の善があるような気がしてくる
なんてことを彼女に伝えたら
立ち止まっていろんなところを指差すのだった
世界とは何ですかなんて若い修行層が訊いていたけど
答えはなんてことないものなんだろうなと思う
例えば
落ち葉一枚でもいいし水滴一粒でもいい
でもそれらが自分のなかで大きくなっていく時
僕はどうしようもなく飲み込まれていきそうな強い感覚のなかで
息を荒げなければならない
すると隣の香奈理子は僕の胸に手を伸ばしてきて
そこにある小さな芽に光を注ぐのだった
「あなたは生きてる?
それとも死んでる?」
そう訊いてくる彼女の目にだって世界の全てが存在している
その上で
これ以上ないくらい優しそうな悲しみを見せてくれるのだ
僕は生きながら死んでいる
生きている僕と死んでいる僕がいて
そのふたつを同時に体験できた時に
香奈理子への愛が僕の全てを繋いでいく
僕は泣いた
それから傘を放りだして彼女を抱きしめ
はじめて僕は
誰かに対して「好きだ」と言った
◇
香奈理子とのセックスは
雨の降る誰もいない静かな夜の町のようだった
そこに僕らの声だけが現れて
響くこともなく
吸い込まれることもなく
雨といっしょに落ちていく
子供のころ星が好きだった僕はようやく
宇宙を知ることができた
香奈理子の腕が伸ばされて
僕の体に絡みつく
僕は
僕の香奈理子に従う
そうすることで世界のなかのあらゆる空っぽが満たされていく
とても静かに
とても壮大に……
傘はもういらない
香奈理子は
間違いなく雨だった