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今日の街角も雨の匂い:6 水! ともかく水がほしい黄昏の帰り道

雨に濡れるということがどういうことなのか

睡美名さんはまだ分かっていない

生活上の不便さだけを眺めて

「いやだ

 雨が降りだしちゃった」

と言う横顔を見ていると

彼女との距離をとても遠く感じてしまう

声なんて届かないから

僕は彼女に語りかける全ての言葉を放棄してしまう

睡美名さん

雨に濡れるという意識があなたのなかで目覚めたら

今はまだ無意識に流している血の痛みを知ることになるでしょう

そうなってしまったら

あなたは僕から逃げだしたくなって

思いつく限りの罵りをぶつけてくるのかな

逃げることには慣れているけれど

逃げられることにはどうだろう

いやでももしかすると

ひどい傷のせいで醜くなった睡美名さんを見て

僕のほうが逃げてしまうかもしれない

睡美名さん

傘を差しても少しだけ濡れてしまうその見えない傷口

痛くないの?

見ていると目を背けたくなるくらい

僕は睡美名さんのことをかわいそうだと思う

僕に抱かれるたび

その傷口が広がっていくっていうのに

どうして好き好んで僕の胸に飛び込んでくるのか

でもね

僕は内心

そんな睡美名さんのことをかわいいと思っているし

半分くらいは

今のまま変わってほしくないとも思っている


 ◇


人が人に依存する時っていうのは

だいたい無意識のうちに始まって

意識的に続けていくことになる

僕は今になって

自分が睡美名さんに依存しているということに気が付いた

でも

それがずっと続かないということにも気付いている

僕が香奈理子との毎日を通して変わっていったように

睡美名さんもまた

僕との日常を通して変わってしまうだろう

つまり

この社会で明らかな生き辛さを抱えてしまう

その時傷の痛みは快感だろうか?

それともやっぱり知らない方が幸せだろうか

でも睡美名さんは僕に依存しているわけではない

僕のことが好きだと思っている自分に依存している

その嘘がもし真実に転化されるとしたら

僕は彼女と結婚してもいい

だけれど彼女が自分の傷を治そうと決心したとすれば

きっと今の僕は捨てられる

それくらいには

自分がまだクズのままだって知っている


 ◇


黄昏って素敵

町全体が夕焼けのなかに浸かってくると

自分っていうのはいつだって黄昏みたいなものだなと思えてくる

生まれることより死ぬことのほうが始まりのような気がする

香奈理子も同意してくれるだろうか

でも彼女には朝焼け前の青い景色が似合っている

今度雨が降ったら香奈理子と散歩に行こう

と思っているのになかなか都合が合わない

会うのは晴れている日ばかりで

せめて沈んでいく太陽を追いかけるように

二人でとぼとぼ歩いてみる

「睡美名さんのこと

 うまくいってるの?」

香奈理子が生活のなかの具体的なことを訊くのは珍しい

「うまくいけば結婚しようと思ってるけど

 たぶん僕は捨てられる」

「その日はきっと雨が降るから」

香奈理子は目を伏せて

少しだけ嬉しそうに笑う

夕陽の光が彼女の顔と服に染み込んでいって

まるで紅茶みたいだ

ああ

夕方の景色も似合うんだな

だからきっと

僕ら二人はお似合いなはず


 ◇


消毒用アルコールが傷にしみるのは知っている

でもそれで悪いばい菌を駆逐できる

僕は睡美名さんに何と言えばいいだろう

彼女の世界に本当の痛みを呼び起こすような魔法の言葉を

僕はずっと探している

井戸のイメージばかり浮かんできて

そこから水が出てこない

もっと深くまで掘らないといけないのかな

溢れるくらい出てきたらどうしよう

僕は睡美名さんと心中するつもりなんてまったくない

ただ彼女はとても乾いていると思うし

僕だって水が飲みたい

コーヒーなんて言ってる場合じゃなかった

今日も仕事場で会って

そのまま同じ机で時間を過ごす

彼女は本当に幸せそうだ

僕はでも

いろんなものが突き刺さって傷だらけの睡美名さんを見ることに

ちょっと疲れてきた

だけど彼女の傷口に塩を塗って

幸せな笑顔から悲鳴が出るのを聞きたいわけでもない

僕も変わった

だろうか

いや自分がそこそこ優しいやつだってことは知っている

でもその優しさをどこでどう使っていいのかよく分からない

だから僕は

最後まで「あなたのため」だと言い切りたい

無心に井戸を掘っているのが何のためかなんて

きっとあなたは訊いてこないし

僕もその理由を忘れることくらいできる

睡美名さん

僕はひとつの覚悟として

ずっとあなたの笑顔を見ている


 ◇


夕陽がずっとずっと沈んでいって

町はほとんど暗くなっているから

僕はひとりで帰りたかった

だってこんな光景のなかを睡美名さんと一緒には歩けない

だけれどあなたはわがままを言って僕の腕を取る

かわいいものだ

睡美名さんのこの選択が僕のなかの井戸を刺激する

彼女だって大人だから

人並みに傷付いて人並みに苦しんで人並みに心を黒くするはず

だけどそれは

彼女が自分の本当の傷に気が付いていない場合

だとしたら

僕はどちらの睡美名さんを見たいだろう

苦しむのなら徹底的にのたうち回ってほしい

だから僕は言ってやるのだ

「あの日僕には星がよっつ見えました

 睡美名さんはいくつ見ましたか?」

僕らは黄昏の帰り道で立ち止まる

睡美名さんはきょとんとして

そして

ちょっとだけ震えはじめる

「とっても綺麗だったじゃない

 いくつかなんて覚えてないくらい」

彼女の視線は挙動不審

僕の顔はどんな表情に見えているだろう

はあ

はあはあ

はあはあはあ

睡美名さんは冷汗までかいて肩で息をしている

ちゃんと呼吸の仕方は知ってるみたい

「で

 星はいくつ見えたんですか」

ああ

人間が絶望していく様ってジェットコースターより恐い

そう

彼女に星なんて見えていなかったはず

見えていたなら

いまだにその破片を体に突き刺したまま歩いたりしない

だけれどそれはこれまでの話

睡美名さんは自分でもよく分からない何かに抵抗しながら

風景の全てが少しずつ変化していくという状態に怯えている

自分が酷い痛みを抱えているということにも気付いて

とりあえずまあ

世界の全てが信じられなくなる

というより

何を信じていいのか分からなくなる

歪んでいく睡美名さんの顔を見ながら

意外に僕は平気なんだなと思った

「僕たち結婚しますか」

と無神経に訊いてみる

もちろん返事がくるわけもなく

睡美名さんは僕の目の前でガラスのような血を吐いて

その奥に詰まっていた純粋な血を見せてくれた

それをとても大切なものだと感じる彼女の本能は

溢れ続ける自身の血を必死にかき集めようとするのだった

香奈理子が

いつも悲しそうな目をすること

それがちょっとだけ分かった気がする


 ◇


少しだけ宙ぶらりん

僕は常に依存している

たぶん久霧里さんの時も

それから香奈理子にも

だから睡美名さんが会ってくれなくなると

急に寂しくなってくる

だけど僕は寂しさを望んでもいる

そんな時にこそ

自分のことや日本のことが分かるような気がするのだ


 ◇


いろんな表情が僕の目の前にあって

それが誰のものかということまで理解するのは難しい

僕との関係性が表情で決まるわけではないとしても

誰がどんな表情をしているのかは分かっていたい

そうじゃないと

人間が抱える傷の意味がなくなってしまう

太陽が沈んだら

雨が降ってきた

このなかを睡美名さんはどうやって帰っていくだろう

やっぱり僕は

残酷なことをしてしまったかもしれない

そう思いながら香奈理子を散歩に誘うと

すぐに彼女は出てきてくれた

もっと嬉しそうな顔をしているかと思ったら

そうでもない

香奈理子は香奈理子

賢そうな目と悲しそうな表情

彼女は病気になることもなく

ここまで気分を沈めることができる

「睡美名さんは今

 激痛を抱えながらこの雨のなかを歩いているよ」

「そう」

香奈理子はそれ以上何も言わず

歩きだすこともなかった

怒っているのかと思ったけれど

たぶん

そうでもない

僕は香奈理子の表情を

本当に正確に把握して理解できていただろうか

時間とともに浮かれていたのはきっと自分だけ

彼女は変わっていない

その表情は今も変わらず僕を見つめてくれている

そうだ

そんな単純なことを

僕は今まで忘れていた

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