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今日の街角も雨の匂い:4 ああ降りてきた降りてきた とっても長い階段だった

高台の見晴らしはとても良くて

僕はこの町一帯を見渡し

晴れている日にはどのように陽の光が当たり

雨の日にはどのように水が流れていくのかを観察する

だけど今は地上が落ち着く

とりあえず何か食べたい

パンだけで人間が生きていけるわけもなく

今日は少し贅沢をしてみたい

僕はお札を差し出す

これと引き換えに香ばしい肉の塊をもらう

ちょっと不思議な光景だと感じるのは今も昔も変わらない

そうやってひとつひとつ

自分の変化を気にしていないと落ち着かないのは

どこかで間違うかもしれないと不安になっているからじゃない

僕には香奈理子がいるから

そんな心配はしていない

ただ

香奈理子がいつの間にかいなくなってしまわないかと

そう思っているだけだ

もしそんな時がきたら

せめてその瞬間を意識していたい

気付かないうちに何もかも無くしていて

それにすら気付けずに時だけ過ぎているなんてことがあったら

僕はきっと自分と自分の人生を呪うだろう

さて

僕はこの肉を食べよう

ほとんど詐欺のように手に入れたものを食べるなんて

さすがに罪悪感を覚える

そんな僕が変人だと言われるのは理解できる

だけどお札なんてお金としてまがい物もいいところだ

抽象的なものが生きた食事に変わる

僕は震えてしまう

今はちょっと天国に行けそうにない

でも肉がうまい

もうひとつ買いに行こう


 ◇


僕はどうすれば幸せになれるだろう

自分が不幸だと言いたいわけじゃなくて

ただそんなことを考えてみたいというだけだ

その必要もなければ意味もない

不思議なもので

幸せっていうのは幸せな時しか想像できない

だから僕は

そんなことを考えてけっきょくのところ

「ああ自分は幸せなんだなあ」

棒読みの感情でその一瞬を過ごしたいだけだ

そうだ

どうして僕は久霧里さんに

「幸せを考えたら幸せな気持ちになるよ」

と言ってあげなかったのだろう

そうすれば

彼女は僕を好きになっただろうか

それともただ残酷なだけの男になっただろうか

できればその両方になりたかった

この欲求には何という名前を付けよう

でもこんなことを公言してしまったら

僕はきっとドS扱い

そうやって僕はみんなのなかで孤立していく

ドSだからじゃない

僕が本当はドSじゃないからだ

僕はただ

自分が本当のところどれだけクズみたいなやつなのかを

逃げずにしっかり意識したいだけ

そこには恥辱と後悔と憂鬱があって

胸から自分を引き裂いて真っ赤な花みたいになりたくなる

だから

僕は幸せだ


 ◇


どうして生まれてきたんだっけ

と考えるのはたいてい僕の場合

背徳感を肯定しようとしている時だ

さすがに罪悪感だけで生きていけるほど強くはない

だけど僕の思考や人間の決まり事を越えたところで

良いも悪いも全ての行為が決められるのなら

僕はその可能性を信じて背徳感を受け入れられる

例えば

僕は香奈理子に嘘をつくことはできないけれど

彼女に僕の不実を告白することならできる

まずひとつとして

それによって僕の彼女への愛情が薄れることなど

これっぽっちもないからだ

ふたつ目として

僕のクズさ加減の全てを彼女に知ってもらう必要があるからだ

最後に

そうすることでしか

僕は自分を把握できないからだ


 ◇


「酒女ギャンブル」なんて言うけれど

現代風に言うとすれば

「クスリセックス衝動買い」だ

まだ法的規制の魔の手が伸びていない危険ドラッグなんて買い込んで

いつ違法になるか分からないから毎日使おうね

なんて言った日が

僕の新しい誕生日

やりたかったことは

きっと社会のなかでの理想だったはず

僕は命に元気を与えて

自分の精神が自由に社会という大空を飛びまわれるようにしたかった

久霧里さんの着信履歴が

ストーカー被害みたいになるまで電話したせいか

どんなに彼女の部屋のドアを叩いても

なかに入れてもらえなかった

はらいせに比較的多めの危険ドラッグに火を点けて

ドアのポストから投げ入れてやった

それから僕に色目を使ってくる元気な上司に電話をして

たんまり酒とご飯をおごってもらってホテルに行った

部屋を出る時には口を利いてもらえなかったが

たぶん一週間もしないうちに向こうから連絡してくるだろう

ともかく次はあの高台だ

おぼつかない足で真っ暗な階段を登る僕を支えてくれるのは

やっぱり香奈理子

君だけだ

だけど今の僕には

君が本当に香奈理子なのかどうか分からない

それでも僕の半分はみ出した意識で

このきらきらと光っている夜の町並みを眺めている間

誰だか分からない君は

ずっと手を握ってくれていた

僕らはそこでキスをして

口のなかで君の唾液があまりにも刺激的に弾けるものだから

たまらず僕は泣きだしてしまった

「綺麗だ

 綺麗だ

 なんて町が輝いているんだろう」

と言うと

「何言ってるの?

 さっきの大きな地震で

 町は全部停電してるのに」

君は震える声を出しながらぎゅっと痛いくらいに僕の手を握りしめる

地震だって?

ならどうして僕はそこで死ななかったのだろう

「どうして君は生きているんだ」

僕は思わず叫んでしまった

君はさらに大きな声で悲鳴をあげて

どこか

僕の知らない闇のなかへと消えてしまった

体中が痛くて

血が

なくなっていくような気分だ

がた

がたがた

がたがたがた

転がるように階段を落ちて

ひび割れたコンクリート地面の向こう側に

本物の

僕だけの

香奈理子を見つけた


 ◇


桜の花が満開だから

僕はもう一度香奈理子と出会うことができた

風に乗って無数の花びらの散っていく光景が

まるで香奈理子の表情のようで

静まり返った地震直後の町を

僕はこれっぽっちの不安もなく過ごしている

ああ

君の膝枕がこんなに気持ちいいなんて知らなかった

夜空を見上げる僕の目は

桜のなかで盲目になる

でも香奈理子

君の声や息遣い

それから

数え切れないくらいの表情が

今ははっきりと見えるんだ

ねえ訊いていいかい

どうして来てくれたのかって

上履きのまま丘の上に行った時なんて

香奈理子

君は僕のことをぜんぜん意識していなかったじゃないか

僕には君が必要だとしても

君に僕は必要なの?

だから

僕は今

君と出会ってから今の今まで溜め込んできた涙を

ぜんぶ

君の太ももに落とす

また

僕は見て欲しいんだ

君のその

賢くて悲しそうな瞳で


 ◇


人間は誰でも

不幸になる資質を持っている

よく「人生のどん底」だとか言うけれど

落ちるだけが不幸じゃない

ほら

陽の当たらない路地裏にいる幸せそうな顔のヤク中

自分の分身を世界中のあらゆるものに投影する精神病患者

この世のなかには

下だけじゃなくて上にも不幸が待っている

幸せなんてその真ん中でやってる危なっかしい綱渡りだ

久霧里さんは見事に落ちて心の骨折

いったい

どんなやつが幸せになれるんだ?

この世界の何にも虚しさを感じることのないような

でも

それって幸せなんだろうか


 ◇


クスリは止められても

セックスと衝動買いは止められない

みっつとも

薬になることがあるということ

気持ちいいということ

衝動的であるということ

が共通している

地震の後のお休みのなか

色目上司から連絡が来たので部屋まで遊びに行った

その後に僕のおごりでお寿司を食べた

別れ際には「またね」じゃなくて「それじゃあ」と言って

おそらく

二人とも振り返らなかった

僕はどきどきしながら香奈理子のところへ行く

ドアを開けてくれるだろうかと心配していたら

留守だった

それから

暗い学校へ行き

丘に登り

雨の街角を通り

カフェに座って

満開の桜を見に行く

不安も心配も諦めもなく

僕は考えることをやめようかとも思ったけれど

もう一度彼女のドアの前に立った時

はっきりと

僕は香奈理子が好きなんだと思った

すると彼女からの着信

何だか香奈理子はぜんぜん変わっていない様子で

「今どこにいるの?」

なんて訊いてくる

「部屋の前だよ」

と言うと

「雨が見える?」

と訊かれた

「ほんの少しだけど見えるよ」

と答えると

「それじゃあ散歩に行きましょう」

と言って部屋から香奈理子が出てきた

僕は無言でついていく

彼女も何も喋らないけど

ここには確かに何かがある

ああ

きっと

これが自分だ

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