猫が立つ日
──速報だ。
猫が立ち上がった。
もちろん、二本の足でだ。
オレはそんなテレビニュースのテロップを、ぼんやりと眺めていた。
時代劇を見ているときだった。
ニンジャが巨大なタコに乗って、何とかいう城を襲うヤツ。
そんなことはどうでもよいのだ。
八畳一間アパート暮らし。
唯一の同居人を見る。
いや、同居『猫』。
頭、両眼に黒毛が燕尾にかかる三毛猫。
彼女は今、どすんと尻を畳におちつけ、日課の毛づくろいをしていた。
騒動の渦の一つであるというのに、この猫、まるで気にもしていない。
いつもとかわらない習慣に忙しそうだ。
──そして。
彼女はさもあたりまえであるかのように、どっこいせ、と立ち上がる。
トコトコと歩いて行った。
二本の足で。
たぶん洗面器に張った水を飲みにいったのだ。
オレの目は狂ってはいない。
猫は二本の足で歩いている。
歩いているのだ。
「うーむ」
ニュース報道は真実らしい。
確信した瞬間だ。
猫は二足歩行する。
不思議、不思議、不思議この上なし。
「ニャーよ。お前、いつから両手の汚れなんか気にするようになった。雨の日、車下の水没した泥の中で雨宿りをしていたくせに」
ワタシは、飼い猫ニャーに尋ねる。
猫に人間の言葉で話しかけることを、おかしなことだとは思わない。
話しかけるのは、猫が二足歩行だろうが、四足歩行だろうが変わらぬこと。
しかし……。
「餌係。質問に答えるわ。──気まぐれよ」
……返事は初めての経験だ。
餌係て……衝撃的だ。
なるほど、そう見られていたわけだ。
だが納得だ。
何となく、猫てそんな感じがする。
愛着で生きているわけではないらしい。
愛着で生きていけるほどの世界でもないけど。
「立てれて、喋れても、驚かないんだね」
「ふぅ……」
ニャーは「やれやれ」といった風に、肩をすくめてのため息。
いったいどこの誰からそんな仕草を学んだのやら。
妙に人間ぽい、猫の生活ではまずやらないような仕草をさもあたりまえのようにおこなうのは、おかしいものだ。
「アナタは、できることを、できたからといって驚くのかしら? ならば、アナタが会話できることに、驚いてあげるわよ。ついでに呼吸をしていることも、まばたきをしていることもね」
「言うねー。あんまり、可愛い愛猫から嫌味を連発されると、オレのガラスの心にヒビがはいっちゃうよ」
「ガラスはガラスでも、強化ガラスの間違いでしょ」
「そんなに頑丈じゃないさ」
「アナタの心のガラスに傷をつけるには、RPGくらい必要そうなのに」
「いったいオレを何だと思っているのやら」
「何年一緒に暮らしていると思って?」
うーむ。
オレはこれから、二本の足で立ち、会話ができる猫と暮らすのか。
ニャーを見た。
オレよりもずっと小さな、猫の体。
毛むくじゃらだ。
……。
不思議なものだった。
歩く。
話す。
どれも明らかに異常なものだ。
普通は。
──しかし。
どういうわけか、ニャーに対しての『異常性』は、不思議にも感じなかった。
何故だろうか。
呪いか?
感覚が何らかの怪電波で狂わされているのか?
いや、まさか、ありえない。
「ご飯、ご飯」と催促するニャーの為に、“金の匙”のキャットフードを取り出しながら自問した。
──あぁ。
何だ、そういうことか。
フガフガと、キャットフードをむさぼる、マスクを被ったかのような三毛の毛並みのニャー。
頭にかかって、両眼にかかって、燕尾のようになっている黒毛が個性的。
腹のでたややポッチャリ。
それが、ニャー。
どこも。
全て。
何一つ、変わってなどいなかった。
いるのは、いつも見る、ニャーという猫だ。
それ以上でも以下でもない。
「キャットフード、おいしい?」
「おいしいもまずいもないわ。お腹が減るから食べるのよ。……でもダイエットフードは嫌い。混じってる黄色のやつも嫌い」
「黄色のは確かに、いつも残してた」
器用にも、キレイに黄色のキャットフードだけが残る。
もし間違って口の中にはいっても、わざわざこぼすほどだ。
よっぽど嫌なのだろう、卵味。
しかし、ニャーの口から直接、「嫌い」と言われたのは新鮮だ。
予測はしてただけど。
それでも、予測と聞くは違う。
今度からは、卵味の混じっていないものを買ってやろう。
今のキャットフードがなくなったらの話だが。
あと二ヶ月はこのままだな。
我慢してもらう他ない。
「話せるついでに訊きたいことがあるんだけどさ、ニャー」
「何かしら」
「猫て何を考えて生きてるのさ」
一見では猫は皆、のんびり自由気ままに見える。
しかし知るほどに、それの生き方は、野生に近い。
完全家猫でもなければ、過酷な生活スタイルだ。
「食べること、寝ること。発情したときはセックス。こんなところかしら」
「猫の口からセックスて、けっこう衝撃力あんだけど」
でも発情期ねあるならばそれが普通なのだろうか。
考えれば、行為こそ隠さねばならないが。話してはいけないものでもあるまい。
その隠すのだって、無防備さを隠すためだ。
「そう? 餌係だって考えてるでしょ。AVでたかぶりを鎮めてるの知っているもの」
「赤裸々」
「珍しくないわ。フツーのことよ」
「うーむ」
気をつけよ……。
身の恥をさらし続けるわけには行かない。
半分野良みたいなニャーから見たら、オレは駄目人間だろう。
餌係としての役割は認知されているだろうが。
「もう質問はいいのかしら?」
「うーん……。何か色々訊いてみたかったけど、大したことじゃなかった。忘れた」
別に今、訊かなくてもよいことだった。
楽しみは長引かせるものだ。
短くしか楽しめないのでは、もったいない。
「あらそうなの」
ニャーはそういうやいなや、大きく体を伸ばす。
そしてアクビを一つ。
食べ終わって眠くなったらしい。
ノソノソと歩いてきて、ヒザの上に乗るなり丸くなった。
「寝るわ」
「そうかい。おやすみ」
「えぇ、おやすみ」
スー。
スー。
スー。
寝息をたててのご就寝。
どうやら猫は、二本足で立っても、言葉を介せても、変わらないらしい。
生活習慣にみじんの変化がない。
それを再確認して、どこかおかしくて笑う。
オレは、ニャーの背中を撫でながら、いつの間にか笑っていた自分がおかしかった。
いつもとかわらぬ一日になるだろう……そんな一日に。