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薬の調合のため、私は部屋の中に敷布を敷き、その上で木の実や動物、魔物の一部などをすり潰していた。
ゴリゴリと、低く規則正しい音が響く。
「リュカ、そろそろ交代するぞ。まだ、目覚めそうにないのか?」
部屋の中に入ってきたウィリアム様が私にそう声を掛けた。
そして、この部屋のベッドの上で小さく寝息を立てながら眠る男の子を見つめた。
そこには、この間まで私たちが倒そうと、魔界に転移させようとしていた人物であるヒースが横たわっている。
とても浅い呼吸で、時々本当に息をしているのか心配になる。
それ以外は身体に異常はないので目覚めないのは心の方に原因があるからかもしれない。
だけど、それも仕方がない事だ。
だって、ヒースは長い間悪魔に身体を乗っ取られ続けていたんだから。
ヒースが眠り続けて、もう一週間が経った。
それは、私たちが悪魔を魔界に転移させるという作戦を失敗してから一週間が経ったということでもある。
パレードがあったあの日、私たちは撤退用に用意していた魔方陣であの混乱の中から抜け出した。
2枚1組で用意された魔方陣が書かれた布があれば、どんなに離れていてもその場所に正確に転移することが出来る。
魔力の消費量はかなり多いので多用は出来ないのだけれど。
高度な魔法防御がなされている国境をも突破することの出来るこれは、知られれば世界に混乱を招くようなものであるけれど、緊急事態である今回に限っては使用するという話になっていた。
もちろんこの魔方陣もコンドラッドとキースが作り出したものだ。
全てが終わったら、世界中に防御魔法のこの穴を指摘するといっていたから国境を越えることは出来なくなるのだろうとは思うのだけれど。
まあ、そのことは置いておくとして、その魔方陣を使って私たちは何とかコンドラッド達がいるダンジョンの付近へと転移した。
全員無傷でとはいかなかったが、誰一人欠けることなく。
しかし、一人多く現れた私たちにコンドラッドとエルザは驚いていた。
それも、私たちがダンジョンの中へと転移させるはずだったヒースが私たちと一緒に現れたのだから。
私はあの時、キースだけでなくヒースにまで転移の範囲を広げていた。
ヒースの身体からは悪魔が出ていった。
動かなくなったその亡骸を、この場に置いていって1人にするのはとても悲しいと思ったからだった。
だが、何故かヒースの身体は温かさを保ったまま冷たくなることはなかった。
それどころか、呼吸に合わせて背中が動いているのも見えた。
もしかして、ヒースはまだ生きている………?
ヒースからは悪魔の黒々とした魔力は感じられない。
今、見る限りでは、完全に悪魔はヒースの身体から出ていったように思えた。
それなのに、心臓を食い破られたヒースはどうしてかまだ死んではいなかった。
死体となったヒースの身体を悪魔が操っていたと思っていたが、もしかするとそれは思い違いだったのかもしれない。
ともかく、私たちは2人に作戦の失敗を伝えて簡単に状況を説明すると、コンドラッドの家へと再び転移したのだった。
その時から、ヒースは眠り続けている。
ヒースが眠るベッドの床には複雑な魔方陣が引かれている。
ヒースの中に悪魔の気配は感じられないが万が一のことも考え、ヒースの内に悪魔が潜んでいた場合にはすぐに封印出来るようになされていた。
今は交代でヒースの看護兼監視をしている。
ウィリアム様はその交代に来てくれた。
“ウィル、ありがとう。でもこれだけ仕上げちゃうね。もうすぐ終わるから”
「ああ、分かった。なるほど、こうやって調合をしているんだな。これはヒースの眠りを覚ますものか?」
“うん。ヒースの身体の代謝を高めたり、栄養を取り入れやすくするような配合になってるんだ。でも、これはヒースだけじゃなくってキースにも飲んで貰えたらなと思って”
私がヒースが眠るベッドのすぐ横に座るキースに視線移すと、ウィリアム様もそちらに目を向け、心配そうに少し眉をしかめた。
「キースは大丈夫なのか?ほとんど休んでないだろう。無理矢理にでも寝かせないと、そろそろ倒れるんじゃないか」
そう言ってウィリアム様はキースを寝かせようと近づいて行く。
だが、そんなウィリアム様を私は彼の腕を引いて止めた。
“身体に悪いことは確かだけど、もう少しだけキースの好きなようにさせてあげようよ。私がギリギリまでちゃんと見ているから”
私に止められるなんて思っていなかったのだろう。
ウィリアム様は私が掴んだ腕を見て驚いていたが、私の考えを理解してくれたようでそのまま足を止めた。
キースは長い間追い求めていた。
もう助からないと、死んでしまったと思って自らの手で終わらせようとしていた。
キースはそんなことを心の中でずっと葛藤して苦しんでいたんだろう。
だけど、ヒースが生きたまま戻ってくるかもしれない。
その可能性はあるけれども、ヒースが目覚めてくれないことには確実なことは分からない。
そんな状況の中、キースの不安は計り知れない。
せめて、ヒースのそばにいさせてあげようとそう思った。
ガタンッ
その時、椅子が倒れる音がした。
その方向、ヒースが眠っているベッドの方を見ると、キースが勢いよく立ち上がって椅子を倒したようだった。
私とウィリアム様も急いでベッドに駆け寄る。
するとヒースがゆっくりと閉じられた瞼を開けようとしているところだった。
「………あれ?……ここは……ごほっ…ごほっ」
完全に目を覚ましたヒースは数回瞬きした後、まだ頭がはっきりとしていないような様子でそう声を出した。
しかし、長く眠ったままでいたため、急に声を出したことで咳き込んでしまった。
私は用意していた水差しをキースに手渡した。
キースからゆっくりと少しずつ水を飲ませてもらったヒースはしばらくすると落ち着いたようで、呼吸を整えるようにふう、と短く息を吐いた。
そして今度はしっかりとした瞳でこの部屋にいる全員を見渡した。
ウィリアム様が呼んできたのだろう。
エルザとジェラール、コンドラッドも駆けつけており、この部屋に皆が集まっていた。
「ヒース、起きて早々なんだけど、これだけは聞かなければならないんだ。お前は誰だ?」
緊張した雰囲気の中、キースが厳しい口調でヒースに尋ねた。
キースのその言葉は魔法に帯びている。
虚偽を暴く尋問の魔法。
嘘を付けばたちまち身を焦がすような業火に焼かれる残酷な魔法だ。
ただ、その質問に返事をしなければ発動することもない。
回避方法は実に簡単なものであるが、答えなければ自分の中に虚偽があると言うようなもの。
逆に、本当のことを本当だと証明できる魔法でもある。
私たちはキースの意図に気づき、ヒースが次に口にする言葉を待った。
「僕は………ヒースだよ。お兄ちゃんの弟のただのヒースだよ」
ベッドに座る少年は、少し控えめな笑顔でそう言った。
魔法が発動するような様子は全く見られなかった。
良かった!本当にヒースが戻ってきたんだ!
私たちがそのことを理解しお互いに喜び合おうとしたとき、一番に動いたのはキースだった。
キースは勢いよくヒースに抱きついた。
もう絶対に離さないというようにしっかりと力強く。
「く……苦しいよ、お兄ちゃん」
「良かった……本当に良かった。ヒース、お前にまた会える日がくるなんて……」
キースの声はか細く震えていて、泣いているようだった。
泣き言を言わない彼が初めて見せた涙は温かい涙だったことはいうまでもない。




