天使がこっちを見てる
恋って、ここまで胸が苦しくなんのかよ。行きたい大学のために勉強もせなあかんのに、俺ホント大丈夫か!?
7月30日火曜日。この日は本当なら、未来と一緒に山に登る予定だった。ところが彼女の都合が悪く行けなくなった。翼は山岳部だった中学生の時以来、山には登っていない。そこで彼は大胆なことを考える。
(そうや、1人でもいいから、久しぶりに山に行ってみよう。どうせ今日は予備校も休校やから。)
そこで朝は少し早く起きて、山登りに必要なものを準備した。地図に方位磁石、帽子と財布、飲み物やお菓子など。弁当はいつも通り母親から受け取った。全てをリュックサックの中に入れ、7時20分に家を出た。行き先は、未来とも話していたポンポン山。ちなみに山に登るということを、親には伝えていない。親に内緒で行こうというのだ。
家を出てから電車やバスを乗り継ぎ、9時過ぎに登山道に到着した。翼は、軽い準備運動の後歩き出した。はじめは緩やかなアスファルトの道だが、歩き進めるにつれ、傾斜は急になり、道も砂利や石ころが多くなる。彼には少し不安もあったが、いつものように、予備校で詰め込み勉強をしているよりは、ずっと開放的だった。登るにつれてだんだんとしんどくなってくるが、それでもペースをおとすことなく、山道を歩いた。山道の途中にお寺を見つけた。水を飲むために、そこで少し休憩することに。夏のそよ風を全身で感じながら、お寺を眺めていた。体が十分に休まったところで、再びリュックを背負い歩き出す。傾斜はますます急になり、登山道らしくなる。翼は、一歩一歩足を出して進む。道に迷わないように、地図や方位磁石をこまめに見た。途中何度か水分補給のために休憩をとったが、速いスピードで登ったので予定よりも早い、12時前に山頂に着いた。
山頂は風が心地よく穏やかだった。あたりにはあまり人がいなかった。ポンポン山山頂と描かれた立札と、周囲の景色をカメラで撮影した。それから弁当を広げて食べ始める。弁当を食べながら、何故か突然、亡くなった祖母のことを思い出した。
(ここは山の山頂。少しだけ天に近い。ばあちゃん、どうしてるかな。)
こんなことを思ったのである。翼の祖母は2012年の11月に病気で亡くなった。翼は祖母に会う度に、美味しいものを食べさせてもらい、楽しい話を一緒にした。亡くなったことを知った時には、泣いて悲しんだ。彼にとってはとても大切な人だったのである。
(ばあちゃんも見てるかな。俺、しっかりと勉強して立派な大人になるから。)
翼は天に向かってつぶやいた。この、”しっかりと勉強して立派な大人になる”というのは、翼が祖母と昔から約束していたことなのである。もちろん彼は、忘れたりなんかしない。祖母もきっと見守っているから頑張ろうと、彼は決心した。弁当を食べ終わって気付くと、あたりの人の数が増えていた。翼は弁当などをリュックにしまい、山を下り始めた。
上りでいくらか体力を使ってしまったので、下りはゆっくり歩くことにした。山の木々や、咲いている花を見て楽しんだ。
(もし今ここに阪本がいたら、もっと楽しかったやろうな。)
なんてことも彼は考えた。道は下り坂だが、歩き進めるにつれて、舗装された歩きやすい道になっていく。曲がりくねった道をしばらく歩くとバス停があった。そこが今回の登山のゴール地点である。翼は停車していたバスに乗って、帰っていった。彼にとって、今回の山登りはリフレッシュになっただけでなく、大事なことを思い出すきっかけにもなった。
8月に入った。予備校は夏期講習の真っ最中。翼もますます気合を入れて頑張っているところだった。夏休みだからだろうか、彼が少女たちを見かけることは少なかった。
そんな8月の半ば過ぎ、夏に受けたマーク模試の結果が返却された。翼の目指すE大学の結果はなんとB判定だった。現役時代はずっとE判定か、たまに良くてもD判定だった彼にとっては、とても嬉しかった。とにかく、翼の勉強の勢いは増し、それを遮るものは何もなかった。
夏の暑さも徐々に収まっていき、秋めいてきた9月6日のこと。翼はいつも通りの時間のバスに乗っていた。久我バス停に停車した時、翼の視界に、例の少女の姿が映った。久しぶりに見かけたもので、彼はドキッとした。夏の間に焼けたのだろうか、少女の体は、ちょうど髪の毛の色と同じような茶色になっていた。
(天使も日焼けしたんや! それにしても素敵やな。)
興奮気味で翼は思った。乗客の中には、杖をついた老婦人もいた。少女は空いている座席に座ろうとしたが、その老婦人に気付き、サッと席を譲ったのだ。それを見ていた翼は、
(さすが天使だ! 優しい一面もあるんだなぁ。)
と感心した。この日彼は、少女のことをバスだけでなく、電車に乗り換えて、くいな橋で降車するまで、ずっと見とれ続けていた。ますます少女に対する彼の好印象が強くなった。
翼が少女を想う気持ちは、日毎膨らむばかりだ。しかしどんなに膨らんでも、それを伝えることなんてできないままでいた。だから彼は、少女を見つめていた。見つめることしかできなかった。
9月21日土曜日。この日ももちろん翼は予備校へ向かう。7時30分のバスに乗った。
(土曜日やけど、ひょっとして前みたいに天使に会えたりして。)
なんてことを翼は考えていた。バスが大きく右に曲がると、久我バス停だ。するとそこには、彼の予想通り少女がいたのである。乗車した少女は、空いている席があるにも関わらず、翼が立っているすぐ近くのつり革につかまった。突然、少女が接近してきたのである。
(うそっ! 天使がこんなに近くに来るなんて。)
彼は驚きの色を隠せないでいた。バスは動き出し久我橋を渡る。先日の台風で、橋の下を流れている川の水も濁っていた。それを少女は車窓からじっと眺めていた。
バスは次の停留所に停車した。そこには中年の男がいた。中年の男は乗車するなり少女に、
「もっと前に行ってくれ。」
と言って、翼と少女の間に入り込んだ。
(なんだこのオッサンは、俺と天使とを引き離しやがって。)
彼は腹立たしく思った。ところがこの中年の男は、少し様子が変だった。バスが走る中、何人か客が乗ってきたが、それらの客全てに対して、
「あんたは前に行け。次のあんたは後ろに行け。」
などと言い、いちいち乗客に指図するのである。翼は怪訝そうな顔で、その男を見ていた。バスが大きなビルの横の停留所に到着した時だった。乗り込もうとする数人の客に対して、男が、
「もういい、もういい。」
と言って、乗客たちを押しのけるようにしながら、乗車口からバスを降りてしまったのだ。そんな光景を見ていた翼は、
(あのオッサン最低やん、無賃乗車かよ。)
と思った。こんな具合に、せっかく近くに来てくれた少女と引き離されて、残念に想う気持ちでいっぱいのところ、バスは終点に到着した。翼は、少女に続くようにバスを降り、駅の階段を昇った。
駅のいつものホームに来ると、国際会館行きの電車が停車していた。翼は電車に乗り込むといつも通り、6号車の1番ドアの手すりにつかまった。それからしばらくすると、少女も電車に乗り込んできた。そして6号車1番ドアの、もう一方の手すりにつかまった。
(えぇっ、またも天使が近づいてきた。これって一体・・・。)
2度目の少女の接近に、彼は驚きと不思議さとが入り混じったような気持ちになった。電車のドアが閉まり、走り出した。翼はドキドキしていた。しかし少女は、彼の方を見ることはなく、ずっとスマホを操作していた。少女に話しかけられることもなかったが、少女との距離が少し縮まったような気がして、彼は嬉しかった。このあとの勉強も頑張るぞと、翼は気合を入れた。
翌週の水曜日、9月25日のことだった。予備校での勉強を終え、帰りのバスに乗ろうと少し急ぎ気味だった。授業が少し延長し、普段より遅い電車に乗ったからである。翼には、度々このようなことがあった。一段抜かしで駅の階段を降りて、バス停に到着すると、バスはまだ来ていないようで、長い人の行列ができていた。ふとその行列を見たとき、翼は目を疑った。そこには例の少女がいたのである。
(やった、また会えたぞ!)
そう思いながら彼はドキドキしていた。この前、少女に接近されたこともあってか、興奮していたのだろう。そうしているうちにバスがやってきて、人々が乗り込み始める。少女は後ろの方の座席に座り、翼はいつものポジションに立った。そしてすべての客が乗り込んで、ぎゅうぎゅう詰めになったバスは走り出した。バスに乗っている間も、翼はずっと少女のことを考えていた。少女がいる車内で、少女のことを考えるのは、勉強続きの彼にとって何よりも楽しいことだった。しかし楽しい時間というものは、長くは続かない。
「次は、久我、久我です。」
楽しい時間ほど速く過ぎるものである。降車する停留所が近づき、少女は立ち上がり、降車口の方へと向かう。その時だった。少女が彼の方を見たのであった。もちろん彼はそれに気付いた。
(あっ、今天使と目が合った。)
彼の興奮はますます加速した。停留所に到着し、バスを降りていく少女を翼は見ていた。
(あの天使はどこへ帰って行くんやろう?)
そう思いながら、彼はとにかく明るい気持ちだった。久我の杜バス停に到着するとバスを降り、ジョギングで家まで帰った。少女の存在は、一日の予備校での疲れなど吹き飛ばしてしまうようだ。
それでも翼は、少女のことばかりを考えてボケーっとしているだけではなかった。9月末に予備校で行われたマーク模試には、全教科全力で挑んだ。その中で特に、彼が手応えを感じたのは理系科目だった。
(分かる、分かるぞ!)
翼の勢いは止まらなかった。
(夏の努力で明らかに成長してるじゃねぇか、俺!!)
と彼は感じた。彼がこんなふうに頑張れるのは、もしかしてあの少女のおかげなのかもしれない。
10月になって、最初の金曜日。センター試験への出願も終え、受験や第一志望大学のことについて、意識が高まってきた頃であった。この日の朝も久我バス停から、例の少女が現れた。少女が前の方の座席に座るのを、翼は見ていた。どんな時でも、少女の美しい茶色い髪と、ツートンバッグに、彼の目は引きつけられた。しかしさすがに、バスの中でもずっと少女を意識しているわけではなく、勉強のことや将来のことも考えるようになっていた。けれども目は、少女のほうを向いていた。
バスが終点に着いたときだった。翼はバスを降りようと前の方へ行った。少女が座っている座席の横を通ろうとしたとき、少女も席を立とうとしていた。それを見て翼は、黙って降車の順を譲ってあげた。少女はバスを降りる人の列の、翼の前に立った。そして少女は振り向いて、一言こう言った。
「ありがとうございます。」
この時翼には、何が起こったのか分からなかった。バスを降りて駅の階段を昇っているときになって初めて、彼は少女に話しかけられたことに気付いたのである。
(いっ、今、天使に話しかけられたぞ!)
彼は興奮して、少し息が苦しくなる程であった。どちらにしても少女に話しかけられたことが、彼には嬉しくてたまらなかったようである。この興奮はすぐに収まることはなかった。翼と少女との距離が、また少し縮まったようにも、このときは見えた。
その後も、何度か少女に行き帰りのバスの中で会うことがあった。少女は日々、違った雰囲気を醸し出していた。ジーンズを履いている時もあれば、スカートを履いている時もあった。ずっとスマホをいじっている時もあれば、本や参考書を読んでいる時もあった。一人でバスに乗ることもあれば、友達と一緒におしゃべりをしながらバスに乗ることもあった。どんな少女の姿を見ても翼は、ある時は気合が入り、またある時は癒されることもあった。
ますます辛く、苦しくなってくる浪人生活の真っ只中。翼にとって、少女の姿を視界に入れられることは、”嬉しい”や”幸せ”という言葉では表現しきれないものだった。