天使との出会い
毎日電車とバスで予備校かぁ。ダルイなぁ。でもあの大学には絶対行きたいから、頑張らへんとな。
永田翼は2013年の春、第一志望大学に落ちてしまい、浪人することになった。現役の時は塾に通っていたが、思うように成績は伸びなかった。そこで彼は、来年こそは大学生になろうと、予備校に通う決心を固めていた。落ちてしまった第一志望大学は、翼が本当に憧れていて、どうしても行きたい大学なのである。
そして4月の半ば、翼の本格的な予備校での日々が始まった。朝は7時に起き、寝ぼけた顔のままで、リュックに母親から受け取った弁当を入れて背負い、すぐさまバス停に向かう。翼が向かうのは家から最寄りの菱川バス停だ。ラジオを聴くのが好きな彼は、音楽プレーヤーでラジオを聴きながらバス停に向かった。
バス停に着くとイヤホンを外し、プレーヤーをポケットにしまう。そして7時40分、バスが来る。
「お待たせいたしました。特南2号系統、竹田駅西口行きです。」
運転手のアナウンスを聞きながら、翼はバスに乗り込み、後ろドア付近の手すりにつかまって立った。彼のお気に入りのポジションである。バスは乗り始めはすいていることもあるが、終点に近づくにつれて人が増えていき、最終的には自由に動くスペースもない程に混雑する。
そうして竹田駅に着くと、今度は電車に乗らなければならない。定期券を通して改札をくぐり抜け、停車している国際会館行きの電車に乗り、6号車1番ドアの手すりにつかまって立った。ここも翼のお気に入りのポジションである。電車での行き先は五条駅。予備校への最寄り駅である。電車もバスと同様、途中まではすいている。しかし京都駅でたくさんの人が乗ってくるため、すし詰め状態となってしまう。五条は京都の次の駅。ひと駅の辛抱だが、バスの中でも人に紛れた後であるせいか、翼には辛く思えた。五条駅に到着し改札を抜けた彼は、すでに疲れた表情で予備校へと歩いていった。
予備校の授業は朝9時から始まる。個性豊かな講師たちによって繰り広げられる授業は、面白くて分かりやすく、翼には楽しく感じられた。通学の疲れも吹き飛んでいた。授業の空きコマには積極的に自習室を利用し、勉強に励んだ。勉強嫌いの翼だったが、望む大学に行きたいという強い思いが、彼のやる気を加速させるようだ。
予備校での勉強を終えて夜7時、電車に乗り竹田駅へ向かう。帰りの電車も帰宅ラッシュで、やはり混んでいた。
竹田駅に着くと改札をくぐり、駅西口のバス停でバスが来るのを待った。そして7時25分発の特南2号系統のバスに乗った。バスに揺られること20数分、朝とは違って久我の杜バス停で彼は降車した。そのまま歩いて家まで帰る。翼は、夜空に輝く月や星を見て楽しんだ。
完全に疲れて家に着くのは夜8時前。どんなにヨロヨロでも、夕食を食べたり風呂に入ったりする以外は、予備校の授業の復習や次の日の予習をしていた。眠気が限界に達するまで翼は勉強をし続けた。
そんな予備校生活にも慣れ始めた頃の、5月22日。いつも通り久我の杜バス停でバスを降り、帰ろうとしていた時のことだった。夜道を歩いていると、翼の背後から人が走り来る音がした。
(何やろう・・・)
翼は気配に気づく。
「おーい、永田!」
名前を呼ぶ声が聞こえた。しかも明らかに女子の声だった。声の方へと翼が振り返ると、そこにいたのは小学生、中学生時代の幼馴染で、翼の近所に住む少女、阪本未来だったのだ。
「覚えてる? 阪本やで。久しぶりやん。」
びっくりした様子で返事をする翼。さらに未来は話しかける。
「よくバスに乗ってるのを見かけるけど、どこに行ってるん?」
「予備校や。大学に落ちちゃってさ。」
「ああ、そうなん。ウチは今専門学校に通ってるねん。」
「へえ、そうなんや。阪本も昔とあんまり変わってへんな。」
「そういう永田もな。」
しばらくの間、そんな他愛のない会話が続いた。高校生の時も面と向かって女子と話をしたことのない彼は、少しドキドキして緊張した様子だった。すると未来が・・・
「ウチな、今すごく山に登りたい気分なんやわ。」
「えっ、それはまたなんでなん?」
「うーん、自然に憧れるって感じかな。」
「へぇ、いいじゃん。俺も中学の時山岳部やったからなぁ。」
「そうやったね。永田は登山経験あるよね。そうや、他にも何人か誘って行こうや、山登りに。」
「えっ、マジで。」
突然未来にそう言われて、さらにドキッとする翼。手に汗を握っていた。
「とりあえず、連絡先交換しておこうや。」
そう言うと未来は、ポケットからガラケーを取り出す。翼もスライド式のケータイを出して、
「赤外線送信でいいかな?」
と未来に尋ねる。
「うん、いいよ。てか永田もまだスマホとちゃうんやな。ウチが使ってるのもめっちゃモサイやつやけど。」
「まあ、早くスマホにしたいと思ってるんやけどな。」
そしてお互いに赤外線のポートを向け合って、メアドを交換した。翼のケータイに親や親戚の人以外のメアドが登録されたのは、これが初めてだった。翼は男子の友達さえほとんどいなく、親への連絡以外にケータイを使うことはほぼなかった。
「じゃ、何かあったら連絡するわ。じゃあね、永田。」
「おっ、おう、じゃあな、阪本。」
そう言って手を振りながら、2人は帰った。
家に帰っても、まだ何があったのかよくわからない翼。山登りをするならどこがいいだろうかとネットで調べながら、その日は一晩中ボーッとしていた。勉強にも身が入らず、突然現れた未来のことばかりを考えていた。
次の日も、またその次の日も翼はボーッとしていた。予備校の授業もロクに耳に入ってこなかった。そして交換した未来のメアドのことが、彼の頭の中にはあった。メアドを交換したのにメールが来ないことが気になっていたのだ。不器用かつ積極的になれない彼は、自分からメールをする気にはなれなかった。
ある日の夕食の時、翼は父親にメアド交換に至るまでの一連の話をした。すると、
「阪本さんとメアド交換できたのか。あの子ならお前とお似合いだな、仲良くしてもらえよ。」
と少しからかわれただけだった。そして翼は、メアド交換をするなんて夢だったのかもしれないとさえ思ったのであった。
結局何の連絡もないまま、一週間が経った5月29日。この日の夜も、久我の杜バス停から歩いて帰ろうとしていた。
(あれからちょうど一週間か・・・)
そう思いながら夜道を歩いていると、自転車がブレーキをかけて翼の横に止まった。もしやと思って振り向くと、そこにいたのはやはり未来だった。夢なんかではなかったようだ。
「よっ、また会ったやん。」
自転車を降りて、手を振る未来。
「あっ、阪本。一週間ぶりやな。」
と言いながら、彼は驚いていた。なんとなく予感はしていたものの、まさかそれが的中するとは思わなかったからだ。一週間前と同様に、他愛のない会話が始まる。
「永田は高校生の時どんな感じやったん?」
「俺はいたってシンプルやったかな。授業も普通に出てたし、部活動もやってたし。」
「へぇ、何部やったん?」
「自然科学部。魚にエサやったり、校舎に生えてる木の観察をしたり、川の生き物を調べたりしたんや。」
「ええやん、楽しそう。」
「うん。でもな、高校生活中は本当に人と話す機会がなかったんや。」
「えっ、そうやったん。」
「ああ。男子とも女子ともほとんど話さへんかった。つまらん日々やったで。浪人してる今のほうが楽しいぐらいや。」
「へぇ、いろいろあったんやね。」
ここで翼は、以前に未来が山に登りたいと言っていたことを思い出した。
「この間、山登りたいって言ってたよな。俺さ、登りやすい山を調べたんやで。」
「あっ、そうやったね。で、どこの山がオススメなん?」
「大阪と京都の境にあるポンポン山。ここは登りやすいし、実際に山岳部やった時に登ったこともあるで。」
「いいなぁ、行きたい。ホンマに誰か誘って行こうや。」
「そうやな、山ガール募集するわ。」
そんな話をしているうちに、あっという間に家の近くまで来てしまった。未来は、
「じゃあね。多分明日も会う。」
と言って帰っていった。翼は未来に手を振りながら、
(明日も会うってどういうことなんやろう?)
と不思議に思っていた。
一夜明けて5月30日の朝。翼は、いつも通り菱川バス停でバスを待っていた。時刻はいつもより少し早い、7時20分だった。すると、
「おはよう、永田。」
そう、本当に未来は現れたのである。
「あっ、阪本。おはよう。本当に会ったな。バス、今日は遅れてるみたいやな。」
「うん。もう7時20分過ぎてるのに。」
そんな会話から5,6分が経過した頃だった。
「特南2号系統、竹田駅西口行きです。5分ほど遅れましたことをお詫び申し上げます。」
とバスが来た。2人はバスに乗り込む。すると未来が、
「あそこが空いてるから、一緒に座ろうや。」
というので、翼は未来が指差す席の窓際に、その横に未来も座った。やがてバスは走り出す。
「永田、爪切ったらどうなん。めっちゃ伸びてるやん。」
翼の手を見てそんな事を言う未来。
「ああ、切ろうと思うんやけど朝は忙しくてなぁ。かといって夜に切るのは縁起が悪いしさ。」
「あっ、なんかそんな話聞いたことある。で、結局切る暇ないってなるんやな。」
そんな話をしているうちに、バスは大きく右折し、久我に到着した。バスの運転手は乗客に、遅れが10分になっているとアナウンスする。久我からもたくさんの人が乗車し、バスはどんどん混雑していく。そんな時未来が、乗ってくる乗客のある一人に対して手を振る。
「あ、おはよう。久しぶりやん。」
言いながら未来が手を振る相手は、彼女と年のさほど変わらなさそうな少女だった。
「あっ、未来やん。久しぶり。ここで会うとは思わへんかったわ。」
そう言いながら、白とピンクのツートンバッグを肩にからうのは岡田渚である。
「いつもこの時間のバスに乗ってるん?」
と、未来が尋ねる。
「いつもこの時間とは限らへんけど、今日は支度が早く済んだからこの時間に乗れたねん。」
「ふーん、そうなんや。」
未来が楽しそうに話をしているので、翼は未来の親友なのかと思い、その少女の姿を見た。先端が少しカールした茶色い髪。ぱっちりとした目。すらっとした体つき。赤い服に白のミニスカート、それに黒いストッキング。翼はハッとして、完全に目を奪われていた。
そんな時、突然未来が、
「なあ、この後地下鉄にも乗るんやろ? どこまで行ってるん?」
と尋ねてきた。ふと我に返った翼は、
「俺は五条まで行くねん。」
と答える。
「定期券見せて。」
「ああ、どうぞ。」
と、定期券を未来に差し出す。
「ふーん、やっぱりウチのより安いな。ウチはもっと遠くまで行ってるから。」
「へぇ、そうなんや。」
そうしているうちに、バスは終点に着いた。未来と渚は一緒にバスを降りて、駅の階段を昇った。翼はその後ろにつくようにして階段を昇った。すると渚は未来に、
「さっきの男の子、誰なん?」
と尋ねた。
「さっきの子は家が近所の人で、小学校、中学校の時の幼馴染やねん。」
「ああ、そうなん。」
と言いながら、渚は髪をかき分ける。
そんな会話を耳にしながら、翼は久我から突如現れた少女のことで、頭がいっぱいだった。彼にとっては印象的だった、というよりも衝撃的だったというほうがいいのかもしれない。とにかくしばらくの間、彼の頭からその少女の姿や声が、離れることはなかった。
(あの娘は天使なんや、そうに違いない。)
そんなことを翼は思った。