一章四節 - 願
「僕が――」
「あんたも来ればいい。けど、あんたはまだ華金山脈の地形とかに不慣れでしょ? 私の方が山に慣れとるし、森の民には知り合いも多い。それに何より、中州の姫サマだからね。こう見えて結構権力あるんだよ、私」
与羽はいたずらっぽく口の端を釣り上げた。戦が終わってからあまり笑わなくなった与羽だが、少しずつかつての調子を取り戻しているようだ。
「でも、君がいなくなったら政務とか大変なんじゃ……」
「それはない。私なんて飾りみたいなもんだから。一応、知識だけは子どものころから卯龍さんに教え込まれてきたけど、実際にそれを応用して、ってとこまではまだまだ。情報整理や指示はほとんど絡柳先輩がやってくれるし、私に足りん部分は辰海が補ってくれとる。竜月ちゃんも女官だけど、文官準吏だからね。私よりはやり手だよ、たぶん」
与羽の口調は冗談でも言うかのように軽いが、内心はかなり悔しがっているはずだ。与羽と出会ってまだ一年もたっていないが、それくらいは察しがつく。
比呼自身、もともと他人の思考や感情を読み取る能力に長けていたこともあるだろう。
しかし、心情を察しても、励まし方がわからない。
「君もすごいと思うけどなぁ……」
何とかそれだけ言ってみる。
「ありがと」
やはり与羽の口調は軽いままで変わらない。
そして、いくら相手の心情を察するのに長けていても、この短い与羽の言葉から彼女の感情を読み取ることは不可能だった。
比呼はそれ以上何も言えずに、ただ謁見の間へと向かう与羽を追った。
戦中は医務室として使われていた謁見の間だが、今はその機能を取り戻している。ただし普段とは違い、床にも壁にも地図や書物、報告書などが散乱していた。
かろうじて城主が座る上段の間と、その向かい――通常ならば順位を持つ上級官吏が控える一の間の中央だけは床の畳が見えている。
一の間の最も上座に座り、乱舞の代わりに政務をこなしているのは文官第五位――水月絡柳だ。そのわきには与羽の幼馴染である辰海が控えている。
今謁見の間にいるのは、この二人だけだった。
「おかえり」
真っ先に与羽に気づいた辰海がそうほほえむ。
絡柳も浅くうなずいて、さりげない動作で上段の間を指した。城主代理としてそこに座って政務を手伝ってくれと言うことだろう。
しかし、比呼を後ろに従えた与羽は、上段の間ではなく絡柳の目の前に座った。
「どうした?」
そこでやっと絡柳が口を開く。
「明日から数日、城下町を離れる許可をいただくために参りました」
与羽が丁寧な口調で要件を告げ、絡柳は目線だけで先を言うように促す。
その後ろには比呼が姿勢を正して座り、辰海はどちらにつくべきか迷いながら、与羽と絡柳の間に少し離れて立っている。
与羽は良く響く声で、凪が華金山脈に向かったきり帰ってこないこと、山の地理に明るく森の民にも顔がきく自分が比呼とともに捜しに行きたいことなどを簡潔に話した。