四章三節 - 愛憎
「ちょ……」
当たってはいないものの、怒り任せで加減のない与羽のこぶしに、与羽同様焦りを感じていた比呼が冷静さを取り戻した。慌てて、再び振り上げられた与羽の腕を抑えつける。
「大丈夫。大丈夫だから」
しかし、辰海がさらにその手を抑えた。与羽の手が自由を取り戻す。
「殴りたいなら、殴ってくれても構わない」
与羽が本気で暴力を振るおうとするなど珍しい。それだけ、余裕がないのだ。
城下町を発ってから、今までいつも通りにふるまってきたが、内心は常に不安でいっぱいだったのだろう。二日半歩き、疲労もたまっているはずだ。
それらに耐えきれなくなって、様々な感情が自分で制御できないほどにあふれ出している。
暴力でそれを発散できるのなら、辰海はそれを受けるまで。
「気が済むまで殴って。君が不安なのはわかる」
――それに、どれだけ殴られたって、僕が君につけてしまった傷に比べれば……。
「知った口を――!」
怒り任せにこぶしを振り下ろす与羽の勢いで、額を覆い隠す前髪が乱れた。左眉の上には醜くひきつった傷がある。
それを脳裏に焼き付けながら、辰海は目を閉じた。与羽のこぶしは鼻先数寸のところを薙いだ。
辰海は回避動作をしていないので、与羽がわざと外したのだろう。そう言えば、最初のこぶしも当たらなかった。
目を開けると、与羽は辰海を見上げていた。狂気をはらみつつも、潤んだ、今にも泣きそうな目をしている。
「わかるよ」
辰海は与羽に威圧感を与えないために、その場にしゃがみ込んで、与羽を見上げた。精いっぱいのやさしさと愛情をこめて。
「どいて」
力のない声で言う与羽の手が、辰海の首筋に触れた。首を絞められるかと身構えた辰海だったが、与羽の手は声同様に力が入っていない。
「君の気持はよくわかる。どうしようもなく不安で、心配で――」
辰海の目じりから一滴。涙があふれ落ちた。
それを見て何を思ったのか、与羽がわずかに目を見開く。
「不安だからこそ、一回落ち着こう。落ち着いて、話し合おう。どうすれば、凪さんを見つけられるか」
与羽の瞳が揺れている。
彼女にの触れる首から、自分の鼓動が感じられた。きっと与羽も、同じものを両手のひらに感じているのだろう。
「与羽……」
辰海は両手で、与羽のほほを包み込んだ。
怒りで上気したそこは、予想以上に熱い。
与羽の肩がびくりとはねた。
「与羽、大丈夫だから」
ゆっくりと言い聞かせながら、与羽の左目の下を親指でいとおしげになでる。
与羽の唇がかすかに動いた。
しかし、全く声にならないそれは、何を言おうとしているのかわからない。
「なに?」
やさしく尋ねる辰海。
与羽がきつく目を閉じた。
「だめ……」
与羽の小さな口から、かすかな呟きが漏れる。
「頭でわかっとっても、気持ちがついてこない」
再び開けた与羽の瞳には、未だ狂気がにじんでいる。
「邪魔するあんたが、……憎い」
与羽の言葉にはっきりこもる憎悪にも、辰海は動じなかった。
「憎んでくれて構わない」
迷いなくそう伝える。
――君が僕をどう思おうと、僕の意志は変わらない。
何が辰海をそこまでさせるのか。
引け目と恋慕と、罪悪感と愛情と、義務感と憧れと――。
自分でもよくわからない複雑な感情に突き動かされている。
――何があっても、僕だけは君を――。
「あんたも、こんな醜い感情をむき出しにする私が憎いか?」
「全然」
――そんな君でさえ、いとおしいんだ。
辰海は与羽にだけ見せるやさしい笑みを浮かべた。




