三章一節 - 流行病
凪は縄の跡が残る手首をそっと撫でた。擦り傷ができひりひりする。
「すまない。逃げられると困るからな」
そのしぐさを見て、縄を解いた青桐が頭を下げた。
「これくらいなら大丈夫です」
そうわざとぶっきらぼうに答えて、凪は腰に手を伸ばした。そこに薬草を入れるための袋を下げているのだ。帯に挟んでいた短刀は没収されていたが、草しか入っていない袋はそのまま残してくれていた。
「でも、ちょっとだけ手当てさせてください」」
青桐に注意深い目で監視されながら、凪は選んだ薬草を口に含んだ。噛み砕き、草の苦みが口内いっぱいに広がったところで、汁を傷に塗りつける。
普段なら乳鉢と水を用いるが、治療用の道具を入れた荷物は没収されているようだ。
「医師か?」
いぶかしげに青桐が聞いてくる。
「少し薬学の心得があります」
やはり凪はとげのある口調で答えた。手本は機嫌が悪いときの与羽だ。
「……そう、か」
青桐のやけに落ち込んだような声色は気になったが、凪はあえてそれには触れなかった。これ以上干渉すれば、相手が盗賊だろうとやさしく接してしまいそうだ。
「…………」
無言の青桐。
凪もわざと彼から視線をそらし、黙り込んだ。
そうすると、あたりの様子を探る余裕ができたのか、徐々に人の気配を感じられるようになった。
壁を隔てて外を歩いているらしき速足の足音。くぐもった話声も聞こえてくる。誰かが咳払いをし、さらに咳き込む。
「…………?」
凪は無意識にその咳に耳を傾けていた。一時的なものか、それとも何かしらの病気によるものか――。
おそらく咳き込んでいるのは女だ。それも若い。どれほど若いかまではわからないが……。
「姪だ。はやり病で寝ている」
そんな凪の様子を見た青桐は色あせ、ささくれ立った板壁を見ながらつぶやいた。その壁の向こうで、彼の姪が寝ているのだろうか。
「はやり病……?」
凪がおうむ返しに尋ねる。その顔はすでに患者と向き合う医師のものだ。
「ああ。肺の病だと思うが……。老人とこどもを中心にバタバタやられている。そういう理由もあるのでな。貴女はここにいろ」
命令口調だったが、青桐の表情に高慢なところはない。親切心から言ってくれているのだろう。
そして、凪にはその奥に隠そうとしている姪を気遣う気持ちや、もし姪を失ってしまった時の恐怖が感じられた。
相手は非情で残酷な盗賊だ。
それでも、身内に対する思いやりの気持ちはあるらしい。
「薬は――?」
凪は反射的にそう尋ねていた。
「薬草をはじめ何種類かあるが、それを適切に使いこなせる者がいない」
つまり薬を処方できる知識のあるものがいないということだろうか。
「なるほど……」
凪は自分のあごに手を当てて考えた。その様子に恐怖や不安は見られない。
「凪……?」
彼女の変化に青桐は戸惑いを隠せなかった。
先ほどまで、全身の毛を逆立て自分の身を必死で守ろうとする小動物のようであった凪が、今は高所から獲物を探す猛禽のようにすら見えたのだ。冷静で思慮深く、しかし一度決めたことは必ずやり遂げる意志の強さ。
彼女からはそんな雰囲気が発されていた。
「いいわ」
自分を説得するようにつぶやいた凪の眉間に、小さなしわが刻まれた。
「私の荷物はありますか?」
「隣の部屋に保管してある」
「わかりました」
凪は苦悩するように眉間のしわを深めた。
「盗賊を許すつもりも、肩入れするつもりもありませんが、病人がいるのなら診ます」
おそらく彼は盗賊として今まで多くの人を傷つけ、命を奪ってきたのだろう。凪自身も危害を加えられた。
そんな盗賊の身内など放っておいた方が良いのかもしれない。
自分の助けた命が、他のたくさんの命を奪うことになるのかも――。
しかし、そんなことは理由にならない。
「治せるかもしれない患者がいるのに、見ないふりはできません」
相手の年齢、性別、容姿、性格、家族構成、生い立ち――。そんなものはすべて関係ない。
「どうか、あなたの姪に会わせてください」
凪は青桐の目をまっすぐ見据えてそう言った。




