side.K 1
本編の彼視点です。
確か、今夜は満月だったな。
記憶の中から月のカレンダーを開く。
まだ少し肌寒さが残る夜。月を見るためだけにベランダに出るやつなんて、そうそういないだろうな。
そんなことを考えながらベランダへと続く窓を開ける。
こんな都会でも月だけは見える。
慣れない生活で落ち込んでいた俺を癒してくれたのは月だった。
しばらく時が経つのも忘れて月を眺めていると隣のベランダに人が出てくる気配がした。
「うーん…気持ちいい…。やっぱり、月の光ってきれいだよね~」
月の光の中に浮かび上がる女性の姿。
思わず声をかけてしまう。
「そうですよね。月の光って癒されますよね」
彼女は驚いた顔をして、俺の方に振り向いた。
それもそうだろう。彼女はこの場に自分以外の誰かがいるなんて思ってなかっただろうから。
「初めまして…でよかったですよね?」
…実は、こうやって顔を合わせるのは初めてではない。以前、ほんの一瞬だが言葉を交わしたことがある。だが、彼女はきっと覚えてはいないだろう。人の心に残るほどの出来事ではなかったから…。
「…あの?」
驚いたまま固まってしまった彼女にもう一度声をかける。
「…あ。えっと、初めてで間違いないと思います」
やっぱり覚えていなかった。仕方ないけどな。
そんな内面の動揺は押し隠し、言葉を重ねる。
「ですよね。月光浴ですか?」
「ええ、まあ…。あなたも?」
ぎこちない笑顔を浮かべ、静かに答えてくれる。
夜更けのベランダで知らない男に声をかけられて、きっと緊張している彼女の気持ちを、俺は和らげてあげることができるだろうか?
「月がね、好きなんですよ。どんな形の月でも、月夜に外に出てないのがもったいなくて」
彼女から視線をそらし、正面の月に向き直る。でも、出てくるのは平凡な言葉しかなくて。
もう一度彼女へと視線を巡らすとふわりとした笑顔を浮かべていた。
「わたし、最近月なんて見上げたことありませんでした。仕事に追われて、心に余裕がなかったんでしょうね」
そう言って「うーん」ともう一度伸びをする。
その一挙一動に目を奪われてしまう自分がいる。
ふと彼女と目が合う。
また彼女がふわりと笑う。
それだけのことが俺の心をも和ましてくれる。
それからどちらからともなく、夜になるとベランダに出て月光浴をするようになった。
月は下弦へと傾いていき、夜空には月のない日もあったが、それでも俺たちの月光浴は続いた。
お互いのことはなぜか触れなかった。
別に知らなくても構わなかった。
むしろ知らない方が都合がよかったのかもしれない。
こんな穏やかな時間を持てた、そのことの方が今の俺にとって重要だったから。
2003.05.09(初出)