曾祖母講釈 間引き (三篇および筆者解説)
筆者が幼少のおり、曾祖母に口伝えされた東北民話を紹介する。
「小説家になろう」の麟龍凰先生による企画『Smile』に向けて書き下ろしたものである。
【姥捨と妖怪「逆さ柱」】
姥捨の話はしたことあっぺか。
山の奥のほうの話しだけんとが、昔はよ、食べるモンが少ねぐなっと、働き手にならねぇ家族は殺されっちまったんだ。
姥捨はよ、年取って足腰のたたねくなった母親を山の奥さ捨ててくっぺってことだわ。
実の母親に死んでくれって頼まねえとなんねえ子どもも気の毒だ。
床下に隠してよ、村の連中にゃ「ちゃんと捨ててきたど」って言ったりしたんだと。
んで、貧しい村に、年寄りが一人もいねぐなったときだわなあ。
「これはどうすっぺ、どういう仕来りだったっぺ」つうことが出てくんだよ。
親が死んじまった後になって、聞かなくちゃなんねえごとがたくさんあるわあるわ。
そんなとき、隠してた婆様に相談できたもんでよ、そいつは皆っから頼られたんだっぺ。
子どもを遺して逝がねばなんねえ親も気の毒だっぺなあ。
どれだけ大人になったって、お腹いだめて産んだ子だものよぉ。
いつまで一緒にいだって子どもっぽくて頼りなかっぺよ。
自分が山さ置き去りにされっちまったってかまわねえけんと、せがれは無事に家さ帰れんのが心配だと思ってよ、いろりの白灰を持ってから負ぶさって、帰りの道の道しるべにしたっつう話もあんだわな。
親の心も子の心も、なかなかお互いでは分かんねえもんだ。
寒くて、帰るに帰れねえような山んなかさ捨てて殺しっちまあんだから、生ぎ残った家族のほうは悪いもんが見えるようになんだっぺ。山の帰り道で狐につままれたり、狸に化かされたりよ。大事にしてえもん守れねえがったって心があっと、心理つうもんが壊れんだわな。
岩手のほうによ、いろんな妖怪が出るんだわ。
逆さ柱とかいってよ、柱には木目があっぺよ?
それが、捨ててきた親の笑ってる顔に見えたりよぅ、天井板の染み見れば怒ってる親の顔に見えたりよぅ。そういうのが襲ってくるようった、悪い夢にうなされては、やれ妖怪だっつうことになんだっぺ。
おらぁ、もう少しわがい頃、遠野つうとごさ旅行したっけ、夏だってのに足はずっと薄ら寒がったなや。たくさん捨てられたっていう、今は野っぱらだか畑だかになっちまてるとこ行ったときにゃ、背筋がひやぁっとしたもんだわ。
* * *
【臼殺と妖怪「座敷わらし」】
座敷わらしって妖怪がいっぺ?
いっぺ、つったって、おめえが座敷わらしみてえったけど、よぐでるって話は岩手のほうだわな。
臼殺つってよ、昔には食いモンねえ冬になりそうだってときは、働き手になんねぇ子をよぐ殺したんだわ。
産まれたての時に殺したりよ、いま子どもが産まれたら困るってときは、妊娠した女の人は川の水さ浸かって子どもを流したりよ「腹減った」って泣ぐ餓鬼めらは石臼に頭たたきつけて殺したんだと。
「悪い子はいねえが」っていう鬼がいっぺよ? 今は殺しゃしなかっぺと思うけんとが、ああやって当番して村の子どもたちさ殺して周った風習があんのがしんね。
んだら、殺した親はよ、そこかしこ死んじまったはずの子どもが見えんだわな。
座敷わらしつうのは、そういう姿だっぺ。
こんな風に育ったらいかったっぺなあ、つうのが、隠居座敷さ見えっちまうんだ。
子どもが帰ってきたら、嬉しかっぺよ。
それとも、もしかすっと、自分たちで殺した子が戻ってくんだから怖いもんかもしんねえな。
んでも、立派になって帰ってきたんだと親は信じるのかもしんねえわ。
* * *
【はがき伝承】
昔よ、食いモンがない貧しい村では間引っつって、役にたたねえのは家族で殺しちまったんだと。
特に女だわ。
年とって脚が動かねぐなった婆さまと、大きくなっても力仕事になんねえ女の子どもと。
男もいたこたんだっぺけどな。
捨でっちまうんだわ、山の奥さ持って行ってよ。
脚が動かねえ婆さまなら置き去りにしちまえばいいんだけんと、子どもだとそうはいがねえから岩に子どもの頭をぶつけてよ、虫の息にしてから置いて行っちまうんだ。
今年も食いモンがたりなかっぺ、さて誰を殺したもんだっぺ。つってな。
毎度のことになっちまったって、殺さなきゃなんねえんだから、家長っつうのは大変だわな。
誰を選んだって、悲しいに決まってんだからよ。
悩んで悩んで、どうしたもんだっぺってなるべ。
眠れねえわなあ。
んだら、家長の父親がよ、寝息でねえな、眠ってはいねえな、って気づくべよ。
これは近々、来るべきときがくっぺ。
母親は先に山に置いてきたし、娘もひとり臼殺したから、あとは家長には娘とせがれと妻と父親があったんだ。
んでは、父親は自分の番だな、歳の順だっぺ、と思ったんだ。
でも、寝息の様子じゃ、まだ誰を捨てんのか決めかねてるようだぁ。
爺さまとしてはよ、孫、殺されっちまうのはうんざりだったっぺよ。
んだけんと、自分が山さ捨でられっちまったら、これは困ったことになるっつうことが、爺さまは思い当たんだわ。
男の子がひとりいっけどよ、まぁだ子どもだ。のら仕事はとてもできめえ。
んで、爺さまが捨でられっちまったら、男手は家長だけんなっちまあな。
したっけよぉ、今年の冬は、ひとり食い扶持さ減んだから生ぎてかれっかもしんねえけんと、来年は田んぼも畑もどうにもなんねえべ。んだら、来年はもっと食べるモンねえごとになっちまあ、これじゃ、来年の冬はもっと厳しいことさなっぺ。
そんだら、今年は自分が山さあがって、来年は孫がふたりして捨てられっかしんねえわ。
孫を生かすにはどうしたもんだっぺ。
自分だけが死ねばいいってもんでもなかっぺ。
苦しぐても、生ぎてのらさでねえと、もっと酷いこどになんだからなあ。
んだからって言っても、食べる口が減らねえごとには、今年の冬も越せねえんだから、やっぱり自分が死なねばなんねえかなあ。
爺さまは、どうすべか、どうすべか、つってよ、やっぱり眠れなかったんだわな。
朝日がのぼるまえのごとだ、寒い空気が爺さまの耳さ当たって、爺さまは「はっ」としたんだわ。
うつら夢に、生きる覚悟をしたのはそん時だ。
その時分になっと、さすがに家長も考え疲れっちまったんだっぺ。
孫も嫁も、寒そうだけんとよぐ眠ってら。
爺さまはこっそりと家を抜け出してよ、そのへんさ落ちてた石をつかむなり、口の中さ入れたんだ。
ゴリゴリしててうまかねえわ。
んでも、これなら大丈夫そうだと思ったんだっぺ。
その日っからよ、爺さまは嫁さんに言うんだわ。
「おらぁ、これから石を食うからよ、その分の飯はみんなにやってけらい」
んで、皆で貧しい食事だけんと、爺さまの碗にはその日っから石が盛られてよ。
うっすい粥と、ぺらっぺらの漬け菜くれえしかねえ食いモンだ。
だのにゴリゴリ言って爺さんが石を噛んでんのを、孫たちは不思議に思ったっぺなあ。
年寄りだもの、迷惑かけたかねえんだ。
できることなら息子に「殺してくれ」て言いてえんだっぺ。
んでも、しゃあねえ、生ぎなきゃ孫が生きらんねえかしんねえ。
その年に誰も死なねえようったするためには、食うことさ減らすしかねえものよ。
食事してんの目にしたら腹が減るべよ。
んだから爺さまは、石をしゃぶって腹が減ってんのを誤魔化してたんだわな。
それに、石を噛んでっと、歯がぼろになんだわ。
欠けたり抜けたりしてよ、口んなかさ血の味がすんだから、腹へってんの誤魔化すのにはちょうどよかっぺ。
そりゃ、たいそう痛い思いだっぺけど、それしか思い浮かばなかったんだわな。
これが村で有名んなってよ、近所の爺さまや婆さま、真似を始めたんだわ。
子どもや孫の食いモン食べっちまうわけさいかねえもの。
それに殺してくれって頼んだら、頼まれたほうが気の毒だっぺ。
死んだら何もわかんねえんだ、死んだほうは短い間だけ我慢すりゃいいんだけんとが、頼まれっちまったら、その後、生きていく間、ずっと我慢しでかなきゃなんねえ。
生きててやりてえと思ったんだっぺ。
迷惑かけねえようにしながら、力になってやりたかったんだっぺ。
孫たちは、そんなことは分かってねえがったかしんねえけんと、もしかしたら、目の前で石を食ってるのを見て、ひもじい時は石をカジってればいいって思ったのかもしんね。
もしかしたら「腹へった」ってあんまりうるせえから、親に「石でもかじってろ」て言われたかしんねえ。
もしかしたら、自分も食いモン食べなくして、残った分をほかの家族にやりたかったのかしんねえ。
こっそり隠れて石をかんでよ、
「歯がいてえから食わねえ」
っつって、食う量さ減らしたんだわ。
んでも、頑張っても、飢えんだもの。
口減らしっつったって、生きるには食いたぐなるもんだっぺよなあ。
その村は、そうやってたくさんの年寄りと子どもらが頑張ったんだけんとが、やっぱり無理だわ。
村の決まりごとにしちまったんだわ。
「今年、誰も間引きをしてねえ家は、村八分にする」
* * * * *
【筆者解説】
未曾有の大災害、東日本大震災。
本稿は、麟龍凰先生の企画『Smile』に向けて書き下ろしたものである。
その企画は「内容は、日本の笑顔を願うもの、被災地復興を願うものだったらなんでもいいです」と明記されており、甚だそれにそぐわぬように、読者のかたには思われるかもしれない。
しかしながら、実際に被災地で「被災者の慰めになるために話を聞く」という簡易カウンセリング、あるいはリーディングと言われるボランティアをしていると、被災直後は特に、上記の話に通ずる部分がたくさんあるように感じた。
自分の命と引き換えにでも行方不明になった子が見つかってほしい。
自分は年寄りなのに、死んだ孫に申し訳ない。
迷惑になりたくないのに、年寄りな自分は足手まといで復興の手伝いもできない。
歯欠の思い、と、筆者は呼んでいる。
自分はどうなってもいいから……。
むしろ自分は役立たずだから……。
それだったら代わりに、子どもを、孫を。
それだったら代わりに、親を、祖父祖母を。
自分の身よりも大切であるものが、我々はどれほどあるだろうか。
もしかしたら無いかもしれない。
曾祖母によれば、これらの説話は東北のものであるという。
おばけと昔話が大好きな幼少の頃に聞いた、おばけの正体とでもいうべき衝撃的過ぎる内容で、いまだに耳の奥に鮮明に残っている。
学生になって「遠野物語」をちらりと読み、筆者は当時の東北のひとたちの辛さや苦しみを想像した。
特に、生き残ったひと。
特に、子を泣きながら殺した親たち。
呪われなければならない、祟られなければならない、恨まれなければならない、生きていくというのはそういうことだったのかもしれないと思った。
しかし。
本当にその当時に、筆者は歯欠く思いを理解していたと言えるだろうか。
夢枕に死んだ人たちに恨み言を言われて、それでも、何かしらの不思議なめぐり合わせで「生かされている」と思わねばならない、そうした感情を理解できただろか。
筆者は、たくさんの人に「それでも私はあなたに生きていてほしい」と告げ続けた。
こんなことを言わねばならぬ残酷な自分に嫌気がさす。
それでも、真実だ。
筆者は思う。
時間を経て、なおまだ復興のさなか。
家族を思える気持ちが、どれほどの原動力となっているか。
東北には、こんなにも家族を思っている民話があるではないか。
苦しい長い時間だ。復興とは何だろう。そんなにも長い間、苦しむことを言うのだろうか。
それでも傲慢に、生きていてほしいと願うのは、本当の意味で復興していくために、その苦しみの長い物語を、ただ単純に「絆」を連呼しているだけの我々に伝えてほしいからである。
家族を語り伝えるのは、本当の意味での輝綱であろうと信ずる、説話家としての願いである。
曾祖母は、どうやら「遠野物語」が成立した翌年か翌々年の生まれであるらしい。10年ほど前にこの世を去った。彼女自身は子を為さなず、血のつながりは存在しないが、間違いなく筆者を愛してくれていたと信じている。
筆者自身も、筆者に道を与えてくれた曾祖母を、また、曾祖母の口伝を、丈夫な綱として残したい。まだ磨き足りず、輝く綱にはほど遠いかも知れぬ。読者の皆様に磨いていただきたい、感想や批評を心待ちにしている。
余談だが、曾祖母のなかでは「狐憑き」は「統合失調症」、「狸に化かされる」は「幻覚幻聴」の概念として捕らえているらしいことが、後々の生活会話のなかで明らかとなる。筆者に一番最初にオルガンで弾ける曲(『君が代』だが)を教えてくれたなど、本当に明治生まれであるのかと、今さら疑いたくなるような才女であった。
身内の贔屓目ではあるが。そして、なお、死去して美化している部分がないとは言えないが。
それでも、筆者は、それが嬉しい事実であるように記憶しているのである。