七話
新築分譲マンションの最上階、ある一室のインターホンを鳴らす。まもなくして玄関扉を開けたのは、エプロン姿の咲子さんだった。彼女はわたしたち二人に虚を突かれてしばし固まった。
背後から、ご機嫌そうな吉村さんの声がする。
「本日をもって疑似新婚生活は終了です」
「軟禁生活、の間違いじゃないかな」
エプロンを脱ぎながら咲子さんは言う。そのままぐしゃぐしゃに丸めて後ろの廊下に放り、「よっしゃあ」というような意味の雄叫びをあげた。
通されたのは十五帖ほどの広いリビング。キッチンと地続きになっており、余計に広大に見える。部屋の中央に革張りのソファ二つとガラステーブル一台が川の字で配置されている。部屋の角には大インチの薄型テレビ。その対角線の角にはパソコン台もある。
でも、家具らしきものはそれだけの殺風景なリビングだった。
「あたしが来る前はゴミ屋敷同然の有様だったけど」と咲子さん。
吉村さんは恥ずかしそうに頬を掻き、「咲子さんって、無機物には容赦ないよね」と意味不明なことをつぶやいた。
エプロンを脱いだ咲子さんの格好は、すごくラフだった。涼しそうなタンクトップに、下は高校指定らしき紺のジャージ姿。頭の上では、いい加減にひっつめたようなお団子を作っていた。ソファーに寝転がると、さっそく棒付き飴をくわえて、動物のようなうめき混じりに伸びをした。わたしはそんな咲子さんと正反対で、終始落ち着けずに壁際で突っ立つばかりである。
吉村さんが苦笑した。
「炊事洗濯掃除以外はずっとこの調子。家主の僕よりくつろげるんだから、彼女の肝っ玉の強さったらないよ」
わたしは今まで、このマンションはてっきり咲子さんの住居だと信じていたのだが、どうやらわたしはあの日、咲子さんに嘘を吐かれたらしい。
しかし不思議と怒りは沸いてこない。今は脱力することでいっぱいいっぱいだった。いまだに、現状把握がうまく出来ない。
「小夜ちゃん、こっち」
パソコンラックのそばに立つ吉村さんが手招きをした。わたしはデスクチェアに座らせられ、モニターに表示された記事を読むように吉村さんから指示される。
「そのあいだ、お茶でも煎れてくるよ」
吉村さんがキッチンへと去っていく。わたしは呆然として、小棚からお茶葉を探る吉村さんの背中を眺めた。
「あいつのこと、あんまり信用しない方がいいよ」
テレビを点けながら咲子さんが話しかけてくる。
「吉村くんは人間のクズみたいなやつだからね」
「咲子さんだって嘘つき妖怪でしょ」すぐにキッチンから反論が飛んでくる。吉村さんがキッチンカウンターから不機嫌そうな顔を出した。
「聞いくれよ。この人、ここに居座るあいだ、カレーしか作ってくれなかったんだ」
「居座るってなに? あたしは身を粉にして吉村くんのわがままに付き合ってあげてんの。ご飯作ってもらえるだけ有り難いと思ってよね」
息を吸うように口喧嘩を始める彼らにわたしはまた混乱してしまった。この二人って、付き合ってるんじゃなかったっけ。
居心地が悪くなってパソコンへと目を移す。違和感の根元はそこにもあった。
見たこともない出版社のニュースサイト。黒字に白の小さなフォントで、一記事読むだけで目が疲れてしまいそう。記事のタイトルには『某年少ピアニストの不審死 謎を呼ぶ事件の末路』とある。
慎重に文字を追っていく。
――M市の私立中学に通う女生徒が殺害された事件で、S県警T署は二十日、住所不定無職の男を強姦と殺人及び死体遺棄の疑いで再逮捕した。
匿名性の高い怪しいニュース記事だけど、これが奈緒ちゃんのことを指す殺傷事件だということは容易に汲みとれる。この一文を二度三度、繰り返し読み返す。
男。強姦、殺人、死体遺棄、逮捕。たしかに、そこにはそう書かれていた。しかも二十日って、今から八日も前のことだ。
「正確には強姦じゃない」
わたしの手元に湯呑みを置きながら、吉村さんが感情のない目で画面を見つめた。
「彼女は絶命したのちに犯された。この男にね」
「これ、どういう」わたしは頭を抱えた。「誰なんですか、この男……」
奈緒ちゃんが犯された。わたしと同い年の、あんなに毎日が輝いていた女の子が、あろうことか、わたしが殺したあとに。
「君は知らないんだね、この男を」
「知るわけありません。誰ですか? 奈緒ちゃんに、こんなひどいこと、」
それっきりわたしは閉口した。わたしが言えた義理じゃない。彼女を殺したのは、間違いなくわたしなんだ。そのせいで奈緒ちゃんは物言わぬ人形となった。彼女の体は無防備になり、それを狙った卑怯な暴漢魔に……。
「本当に、小夜ちゃんは見ていないんだね」
「だからっ……」
絶句し、それ以上の否定を止める。暴漢魔。物欲しげに奈緒ちゃんを見下ろす、卑劣で哀れな巨大な人型。
あの廃墟邸宅に居た黒い影だ。あの血走った目は、犬や猫でも、ましてや、わたしの想像する鬼でもなかった。全ては錯覚だったのだろうか。あれは、わたしの錯乱した衝動が創り出したに過ぎない、単なる幻影だったとしたら。
背筋に冷たい液体を浴びせられたような感覚。やはり、あのときのわたしは普通じゃなかった。幻覚や妄想にとらわれ、自身の危機管理能力さえ失っていた。もしかしたら、わたしも運が悪ければこの男に襲われていたかもしれない。
マウスを操作し、記事を下へとスクロールしていく。
――また、男は重度の知的障害を持つ側面もあり、動機や殺害方法も曖昧な上、「女の子は鬼に殺された」など、供述内容にも意味不明な点が見受けられる。宗教関連への疑いは今現在も認められない。専門家は「法廷は精神遅滞の性質に配慮すべきだ」と警鐘を鳴らす。
この男も同じように、わたしのことが鬼に見えていたのだろうか。
――T署の会見では、男が「強姦目的の勢いで殺してしまった」と供述していることを明らかにしており、「本人には最低限の理解力がある。殺意は確定的だ」と述べた。また、物的証拠をさらに明らかにすべきとし、同署は調べを進めている。
記事はここで終わっている。目を離し、胸のうちにもやもやを残しながら吉村さん見上げた。彼はニュースを今一度読み返すと、肩をすくめてソファへと歩み寄っていった。
「警察って、たまに矛盾したこと言うよね。被疑者の供述は意味不明だって明示したくせに、殺意だけは明らかだと言い張るんだから」
わたしは湯呑みのお茶を口に含み、飲み込んでから尋ねた。
「この人が、奈緒ちゃんを殺したことになってるんですか?」
「少なくとも強姦はしたんだ。現場や遺体に精液の痕跡もあったらしいからね。しかしなにより、記事にあったように殺人の物証が見つからない。警察もこのまま冤罪まで持っていくつもりだろう」
「物証なんか見つかるわけないよね」咲子さんがだるそうな声で合いの手を入れる。
吉村さんは深くうなずき、ガラステーブルの上にあのクーラーバッグを置いた。
「全ては、これが警察に見つかっていないのが原因だ」
「こんなニュース、わたし、今まで知りませんでした」
「報道規制が掛かったんだよ。誰が知りたいと思う? アイドルのような扱いを受けた華やかしい女の子の凄惨過ぎる最後を」
わたしは唾を呑み込み、二の句を継げずに黙り込んだ。わたしだって、出来ることならこんな事実、知りたくなかった。
「被疑者が重度の精神遅滞者だってことは記事の通り。ちなみに彼、初公判は欠席したらしいよ。弁護士の話によると、裁判の呼び出し状や催促状を理解出来なかったためらしい。独り身の浮浪者だったし、付き添い人や立会人もいなかった」
「それも、こういうマイナーなニュース記事にあったんですか?」
それに答えたのは咲子さんだった。
「吉村くんのお兄さんは弁護士なの。この男の弁護を担当してるんだってさ」
「兄貴も結構苦労してるみたい。強姦までは知的障害を盾に弁護できても、なにしろ、被疑者のコミュニケーション能力につけ込んで警察が供述調書をでっち上げてるんだ。ひどい出来レースだよね。法廷の荒れっぷりったらないって、兄さん頭抱えてた」
こんなことになったのが誰のせいか、それはまごうことなく、殺人の証拠をいつまでも隠し持つ吉村さんたちのせいだろう。市民としてどれだけ間違った行為をしているか、彼らは理解しているのだろうか。
「法律は弱者の味方だけど、実際はどうだろう。都合や世間体が優先される中、誰が罪を犯したかなんて、さして民間は求めない。早期逮捕、早期解決、そして一番重要なのは、罪がどのようにして裁かれるかだ」
テレビでは、土曜夕方のドラマ再放送が始まっていた。咲子さんが興味を示したように半身を上げ、呑気に画面に見入る。日常的に展開される風景に寒気がして、わたしは思わず口を開いた。
「殺したのはわたしなんですよ。どうして見過ごすんですか? どうして、この人が殺しの罪まで押しつけられなきゃいけないんですか」
「小夜ちゃんがそこまで言うなら、警察に届けないこともないけど」
何も言えなくなる。そんなわたしに、吉村さんは軽く笑いかけた。
「冗談だよ。今さら提出したって、僕たちも犯人蔵匿で罪に問われちゃうし」
「僕たちって、あたしも?」
「咲子さんもに決まってんじゃん。僕らはすでに立派な共犯です」
咲子さんは放心したように虚空をあおいだ。舐め切った飴の棒を手元の小型ゴミ箱に放り投げる。
「いいけどさ、今に始まったことじゃないし」
少しずつ状況が呑めてきた。同時に、わたしはひどくいたたまれなくなってしまう。
この二人は最初から、わたしを陥れるつもりなど毛頭なかった。むしろ、庇ってくれていたんだ。
今思うと、わたしの犯行は、なんと稚拙で杜撰だったのだろう。わたしの気もひどく動転していたし、あのバッグの異変にだって、わたしが所有していればきっと誰かに気づかれたかもしれない。
わたしは今まで、二人の動向に意識と気力を向け続けていた。犯した罪を振り返り、自己の罪悪感に囚われる暇もほとんどなかった。全ては、吉村さんと咲子さんがともに行動し、カップルの振りをして吉村さんのマンションに入り浸り、わたしの注意を扇動し続けてくれたおかげだ。
彼らに感謝することが正しいはずはない。でもわたしは、二人に向かって深く頭を下げていた。
「ありがとうございます」
奈緒ちゃんの手を返してもらえるなら、わたしは素直にお礼を言わなければならない。これでわたしは、安心して奈緒ちゃんの手を愛でることができるのだから。
「まぁ、お礼を言われるほどじゃない、っていうか」
吉村さんが何故か気まずそうにして、声を小さくした。咲子さんが何か発言しようとしたが、吉村さんは手で制してそれを黙らせる。
「小夜ちゃんには、謝らなきゃいけないことがある」
ソファを立つ。咲子さんの前を横切り、テレビに近づく。
テレビの後ろには、隠されるように小型の冷蔵庫が置いてあった。腰の位置にも届かないほどの小さな冷蔵庫。それを引っ張り出すと、吉村さんはその上に手を添えた。
「ここに、奈緒子ちゃんの手を保管していた。でも、咲子さんを呼んだ初日、カレーに使うお肉が無くて」
それが何を指すのか、まだ何の予測も浮かんでいない。それなのに、わたしの手は羽織ったパーカーのポケットに差し入れられていた。
「ちょっと拝借しちゃったのね。そしたらもうびっくり、これが案外美味しくって。さっきさ、最近毎日がカレーだったって話したよね」
言うと、彼は取り繕ったような微笑を咲子さんに向けた。それに合わせるように彼女も薄く愛想笑う。
「食べちゃったんだよね。奈緒子ちゃんの手、全部」
冷蔵庫上部の蓋が開かれる。そこには空洞があり、紅色の痕跡がうっすらとあるだけ。奈緒ちゃんの手がそこにあったという、生々しい空虚感だけが横たわっていた。
全身が凍り付く。逆に、頭は熱でいっぱいだった。ナイフの柄を握る力が急速に増していく。奥歯が折れそうなほど歯噛みし、掠れる声で訊き返す。
「食べた……?」
奈緒ちゃんの手。尊く価値のある手。人としての品格すら切り捨て、食人鬼と化してまで勝ち取った、憧れの結晶。
「うん、ごめん。でも美味しかったよ。それに、これで君のこと、もっと理解してあげられるしね」
――ふざけんなっ。
そんな意味の悲鳴を上げ、わたしはデスクチェアを蹴った。ナイフを抜き、吉村さん目掛けて猛進する。
吉村さんまであと三歩という距離、突如、何者かにナイフを持つ手を捕られ、わたしの身体は瞬間的に宙を舞った。あっけなくナイフを手離し、まともに肩から落下する。痛み以前に、何が起こったのか理解できずに当惑する。頭を上げようとしたが、やはり誰かの手によって叩くように床へと押しつけられた。片腕を嫌な角度で固定される。暴れようとしたけど、曲げられた肘が痛くて無闇に抵抗できなかった。
「止めといた方がいいよ。咲子さん、馬鹿みたいに強いから。柔道四段に合気道ニ段」
「吉村くんには敵いませんけど」
わたしの背中に重しがかかる。かすかに見上げると、すぐ目の前に咲子さんの横顔があった。
「吉村くんのこと信用するなって言ったばっかなのに」
拘束が解かれる。咲子さんが立ち上がり、服の埃を払った。伏せたまま、わたしは吉村さんへと顔を向ける。彼は足元のナイフを拾い上げ、申し訳なさそうに言った。
「手のことで君がどれだけ怒るのか、試してみたくて。まさかここまでなんて」
嘘を吐かれたことへの怒りより、多大な羞恥心がわたしを支配した。奈緒ちゃんの手に対する執着をじかに見られて、恥ずかしさでこの場を逃げ出したくなっていた。わたしは人の肉を欲する人外的な生き物なのだと、自意識の醜悪さをさらけ出したようなものだったから。
「奈緒子ちゃんの手は他の場所に保管してある」
「他の場所……?」
「恐らく、君もそこに保管しようと考えたはずだ」
彼の言葉は確信に満ちていた。とてもはったりを宣っているとは思えない。でも、どうして吉村さんがあの場所を知っているんだろう。
咲子さんはソファに腰掛け、新しい飴を口に含んでいた。吉村さんも彼女の向かいのソファへと腰掛ける。ナイフがテーブルの中央付近に置かれた。
「好きなところに座って。もう少しだけ、君から聞き出したいことがある」
おずおずと全身を起こす。身体の痛みはほとんど残っていない。それがちょっと不思議だったけど、わたしは大人しく咲子さんの隣に座った。
しばらくの沈黙の末、吉村さんが口火を切る。
「実は小夜ちゃんのこと、色々と調べさせてもらった」
意表を衝かれ、抗議しかけた口を閉じる。彼らがわたしの考えた保管場所に検討をつけ、そこに運んだということは、もう全てに気付いているのだろう。
「表沙汰にはなっていないみたいけど、君のお母さんはニュースキャスターをやっていたそうだね。それも全国的に有名な、半分、タレントのような活動まで兼ねていた」
ゆっくりとうなずき、肯定する。
「しかし七年前のある日、彼女は忽然と姿を消した。それも、そこに居たという形跡すらないほど鮮やかに」
それ以上の核心に触れず、吉村さんは閉口する。わたしのそばにコーヒーのマグカップが寄せられる。咲子さんからだった。まだ口つけてないよ、と彼女は言う。
吉村さんが次の事実確認を取る。
「次に、君のお父さんのことについて。不躾なことを訊くけど、君のお父さん、事故で片足を失くしたんだってね。一般車道で車を運転していて、大型トラックと前面衝突したって話だけど」
黙って首を縦に振る。
「君もその車に乗っていたというのは?」
「たしかです」
「だったら不可解だ」
吉村さんは太ももに両肘を乗せ、両指を絡ませた。真剣な目でわたしを見据える。
「君が保護されたのは、事故現場から二百メートルも離れた河川敷の一角だったそうじゃないか」
どうしてこの二人がそのことを知っているのか、わたしとしてはそちらの方が不可解だけど、事実は事実なので否定できない。わたしは今まで通りの常套句で回答する。
「事故があってすぐのことで、当時のわたしは幼かったし、ほぼ無傷の状態だったし、その場に居るのが怖くなって逃げただけです」
「普通に考えればそうだね」
普通に考えれば、たぶんそう。だけどこの二人は連想づけたのだろう。八年前のお母さんの失踪と、五年前のお父さんの事故とを。
「この二つの件について、咲子さんが面白い推理を立てていてね。僕のような想像力の乏しい者からすれば、怖気のするような推理だけど。残酷だけど、君が話してくれないなら、咲子さんから語ってもらうよ」
「結構です」
わたしは咲子さんの無表情を一瞥し、きっぱりと言い放つ。
「二人の想像は間違いなさそうなので、それならこの際、わたしが本当のことを話します」マグカップを傾け、息を整えて続ける。「ただし、このことは口外しないでもらえると、ありがたいんですけど」
「もちろん、三人だけの内緒にする。分かった? 咲子さん」
吉村さんに同意を向けられ、咲子さんは当然というようにうなずく。
わたしはもう一度コーヒーを飲んだ。強烈な苦みの中に、ほんのりとシロップの甘味がする。ぜんぜん違うけど、味わいとしては若干あれと似ている。
鈍色の光を放つナイフへと視線と落とし、わたしは口を開いた。