四話
右腕の切断は左腕以上にスムーズに済んだけど、わたしはその切断口の荒さが気になった。でも、ぶっちゃけて言えば、手首から先の部分さえ無事ならそれでいいので、わたしは最低限の収穫で我慢することにした。
女の子の腕二本でもクーラーバッグの容量をかなり占めてしまう。他の部位も切り落とせるものならそうしたかったが、わたしにこれ以上の時間が残されているとは考えにくかった。
幸い、顔に血は飛び散ってこなかったようだ。しかし問題は両手だった。ここまでゴム手袋をつけずに素手で解体作業をしたため、カッパから露出した両手部分が奈緒ちゃんの血で染まりきっていた。あらかじめ持参した500mlのペットボトル水で洗ってみたけど、完全に落とすことも出来ずに使い切ってしまった。
奈緒ちゃんの両腕はクーラーバッグの底に眠っている。その上からドライアイスの小袋を敷きつめ、隠すようにしていた。
濡れた手を足元の雑草で拭き、カッパを脱ぎ捨ててバッグの中に入れた。包丁でビニール紐を切って回収し、わたしが持ってきた道具は全てバッグの中に入れる。本当はもっと良い状態で奈緒ちゃんの腕を持ち出したかったけど、こればかりは仕方がない。
鬼は、もうとっくに気配を消していた。
忘れ物がないか今一度確認したあと、両腕を失った哀れな奈緒ちゃんを流し見る。月明かりが妙に照り輝く空の下、今の奈緒ちゃんをどんなに眺めても、わたしにはこれといった感想も浮かばない。
バッグを肩にかけなおし、わたしは石の階段を駆け上がった。
裏道を出る寸前、この赤黒く汚れた両手をどうしようかとひどく悩んだが、紺のセーターの袖をうんと伸ばし、指の先まで隠して事なきを得た。
商店街の人通りは限りなく少なかった。
場所が場所だけに、奈緒ちゃんの死体はしばらく発見されないだろう。たぶん、腐臭がしてくるまで気づかれないんじゃないかな。
この近所に、真白ヶ丘名物の森林公園があることを思い出した。ちょうど自宅へと続く経路の途中にある。ひとまずそこに立ち寄って手を洗っておこうと思った。
百メートルも歩かないうちに公園に到着する。
真白ヶ丘森林公園は県内一広い公園らしくて、わたしの通っていた小学校の遠足コースも毎回ここが選ばれていた。以前お父さんが「東京ドームが四十個くらい入るんじゃないかなぁ」と言っていたけど、そもそもわたしは東京ドームに行ったことがないのであまり実感が沸かなかった。
ここからだと『やすらぎ広場』が近いけど、そこは夜になるとホームレスが集まって危険だと日頃から言いつけられているので、バードウォッチングコースを歩いて『多目的広場』に入った。
手洗い場で両手を洗っていると、わたしはまた立ちくらみに襲われてしまった。本当に風邪を引いてしまったのかもしれない。そばに屋根付きのベンチがあったので、そこで少し休んでいくことにした。
ベンチの下にクーラーバッグを置く。頭がぴりぴりと麻痺したようになって、様々な思いが浮かんでは消えた。口の中が唾液で満ちている。奈緒ちゃんの味がまだ舌の奥に潜んでいて、わたしは気味の悪い笑みをしながら口内の感覚に神経を集中させた。
物音一つしない夜の公園。わたし以外にこの公園に人は居ないのではないかというほどに辺りは静寂に落ちていた。
携帯を開いて時刻を確認する。夜の十時半。お父さんもまだまだ家には戻ってこない。
両膝に手をつき、深く息を吐く。胸のどきどきは相変わらずだった。わたしは、その正体に薄々気づき始めている。
今、わたしの真下にあるバッグが原因だ。わたしの憧れの全てが、いつでも手の届く範囲にある。今すぐ取り出して、撫で回したり頬ずりしたりしてみたかった。でも、万が一ということもある。これを人に見られればわたしの人生は終わってしまう。牢屋になんか絶対入りたくない。
そういえば、このバッグの中身、どうやって処理しよう。今日使った道具はどうとでもなるかもしれない。でも、奈緒ちゃんの手はどこに隠し持てばいいのか……。
そうだ、あそこがいい。わたしはある最適な保管場所を思いついた。あとは、その場所へどうやって持って行けばいいかを考えるだけ。
がさり、と背後で芝生を踏む音がした。全身が硬直したようになり、わたしは反射的に振り返る。
女の人が立っていた。いや、近所の高校の制服を着ていたから、高校生の女の子だろう。
夜空の満月をバックに、女子高生はぎこちのない笑みでわたしを見下ろしていた。
「あー、こんばんは。えっと、小学生かな」
わたしはすぐに首を振る。必死に平静に取り繕って答えた。
「ちゅ、中三です」
「どうしたの、こんな時間に。迷子?」
どう答えるべきか分からなくて、わたしはかなり曖昧にうなずいてしまった。女子高生は「ふぅん」と、どうでも良さそうな相づちして、わたしのそばに近寄った。
女子高生が隣に座る。
足を組み、太ももの上に肘を置いて頬杖をついた。わたしの目は自然と彼女の足にいく。
長くて細い足。高校生って、やっぱりスカート短いなぁ。足組みしてるから、余計にきわどくて見えちゃいそう。胸もちゃんと膨らんでいて色っぽい。あと一年でこの人たちの仲間入りするんだと思うと、わたしは尻込みしてしまった。年齢はそれほど変わらないはずなのに、わたしと違ってこの人は大人みたいに見える。
「きみ、名前は?」
女子高生の唇がうごめく。その顔を見つめた。目力がすごくて、見られただけで石像にされてしまいそう。緩められた口元は妖艶という単語がぴったり。髪はサイドテール風に肩の辺りで結わえられており、片胸の前でさらりと下げられている。美人とかわいいの中間のような人。
女子高生が小さく首を傾げた。
「あの、名前は」
我に返る。彼女の顔をまじまじと観察していたことを恥ずかしく思った。冷静になってみると、どこを見ても目のやり場に困るくらい魅力的な人だった。わたしは頬に熱を感じながら視線を逸らす。
「あ、こっちから名乗るのが先か。あたしは日野咲子」
「……三崎小夜です」
「大丈夫? 顔、すごい赤いけど」
大丈夫です、とわたしはつぶやく。
「家はどこ? なんならあたしが一緒に探してあげるけど」
「いえ、あの。やっぱりわたし、迷子なんかじゃなくて、」
「そうだ。これあげる」
唐突に缶コーヒーが手元に来る。わたしはおずおずとそれを受け取った。彼女はやはり口元だけで笑っていた。
「ありがとうございます、日野さん」
「咲子でいいよ」
「えと、咲子さん」
咲子さんはきょとんとして、くつくつと笑い出した。よく分からない反応だった。わたし、なにか変なこと言ったかな。
咲子さんは急に黙り込み、頬杖をついたままわたしの横顔を眺めた。鋭い目つきで見られるとかなり居心地が悪くて、わたしはそわそわしながらコーヒーの口を開けた。少し飲む。
あまりの苦さに思わず顔をしかめてしまった。なにこれ、無糖なのかな。
「ごめんね。ジュースのボタン押したはずなのに、何故かそれが出てきちゃって」
「いえ、いいんです」
誤魔化すようにもう一度飲む。舌がコーヒーを拒絶しているかのようだった。ためらいがちに流し見ると、咲子さんと目が合う。
「そういえばさっき、本当は迷子じゃないって言ったよね」
額に汗がにじんでくる。わたしがいい加減なことを言ったから、咲子さんを怒らせてしまったのだろうか。彼女はシニカルな笑みをたたえたままで、なんだか怖かった。
「ごめんなさい……」
最初は迷子かと訊かれてうなずいてしまったけれど、よくよく考えたら、迷子だと思われたら最悪、警察に連れられて保護されてしまうかもしれない。わたしにとって、それはかなり不都合なことだ。
「謝らなくていいよ。それより、ねえ知ってる?」
咲子さんがまたも話題を変えた。
「この近所でさ、なーんか物騒な事件が起きたらしいよ。詳しいことまでは知らないけど、結構な人だかりが出来てた」
「そうですか」
素っ気ない返答をしながらも、内心、わたしは動揺していた。奈緒ちゃんの死体、もう見つけられたの?
「そう。まだ犯人がその辺うろついてるかもしんないからさ、早く家に帰った方がいいよ」
黙って忠告を受け取りながら、わたしはベンチの真下に置いたクーラーバッグを気にした。どうしよう、もし咲子さんにこのバッグのことを聞かれたら。
「どうしたの、黙り込んじゃって」
「あ、いえ」
「あー。もしかして、あたしが犯人だと思ってんでしょ?」
咲子さんが仰々しく笑った。
「柄悪いとかよく言われるけどさ、これでも結構良い人だからね、あたし」
「いえ、わたしはそんなこと、」
「もう。ひどいなぁ、小夜ちゃんは」
わたしはため息を吐きそうになった。なんかこの人、肌に合わない。身体が拒絶反応を起こしてしまう。
「飴とか食べる?」
咲子さんがポケットからカンロ飴を取り出しながら言う。遠慮して首を振ると、彼女は飴を仕舞いながら気難しそうに小さくうなった。
「迷子じゃなかったら散歩とか?」
めまぐるしく話題をすり変えられる。このわざとらしさが鼻について仕方がない。頭の中を掻き回されてるみたいだ。
「……散歩です」
「そっか。だから手ぶらなんだ」
その言葉を聞き流しそうになる。頭の中で繰り返し、その意味をよく考えてみた。わたしは何気ない風を装って相づちし、心の中でほくそ笑む。
そっか。このバッグのこと、咲子さんは気づいていないんだ。それなら、もう下手に怖じけることはない。いくらでもあしらいようがある。
「わたし、そろそろ失礼します。咲子さんの言うとおり、今夜は物騒みたいなので」
「そう? じゃあ送っていくよ」
咲子さんは、わたしがベンチを立つのに追従した。わたしは拒否しなかった。途中まで一緒に来てもらって、彼女と別れたあと、一人で戻ってバッグを回収しにくればいいと考えた。
咲子さんと共に多目的広場を出る。それとなく後方のベンチを見た。大丈夫、深夜のこの場所に、人なんて滅多に来ないんだから。
「どこに住んでるの?」
「この公園から結構近いです」
「へぇ。もしかしたら近所かもね、あたしら」
何も言わず、愛想のいい笑みを返しておく。咲子さんはずっと、場慣れしていないような不自然な笑顔だった。人見知りするタイプなのだろうか。じゃあ、どうしてわたしなんかに声をかけたんだろう。
公園を出る。
咲子さんがあるマンションを指した。
「あそこがあたしんち。最上階の角部屋だから落ち着くし、景色も最高なんだよね」
心底どうでもよかった。
「じゃあ、この辺までで結構なので」
咲子さんが首を振る。
「いいよ、最後まで送ってあげる」
わたしはまたも心中で舌打ちした。
住宅地帯に入る。咲子さんが物珍しそうにあたりを見回した。わたしの家はいちおう、高級住宅街の一角にある。お母さんが残した生前の功績と、障害者ながらも頑張って働くお父さんのおかげだ。わたしは所詮、お母さんとお父さんにおんぶに抱っこされるだけの存在でしかない。それでも、わたしは素直に両親を誇らしく思っていた。
洋風の一軒家が見えてくる。わたしの家だ。明かりはついておらず、まだお父さんは帰ってきていなのだと分かった。でも、出来るだけ急いだ方がいい。
「へー、おっきい家だね」
わたしはそれに対して特に返答せず、丁寧に頭を下げた。
「送ってくれて、ありがとうございました」
「いいよ。あたし自身の防犯にもなったしね」
とは言いつつも、咲子さんの口調にはこれといった感慨もない。ひらひらと手を振っただけで来た道を戻りはじめた。結局何がしたかったのか本気で分からなかったけど、わたしは黙ってそれを見届ける。
彼女の姿が見えなくなってから公園に戻ろう。スタートダッシュ直前で腰を屈めて待つ陸上選手の気分を味わう。
咲子さんが歩きながら携帯を取り出した。誰かと通話しているようだったが、そのせいで彼女の歩みは著しくゆるんだ。わたしは苛つきながら彼女の背中を凝視する。
曲がり角付近で、ふいに咲子さんがこちらを振り返った。わたしはとっさに柔らかな笑みをつくり、手を振った。
咲子さんは無表情で、軽く手を上げただけで角の先に消えていった。わたしは走る。
走り出した瞬間、焦燥感が一気に高まっていった。あのバッグは誰にも拾われなかっただろうか。大丈夫なはずなのに、それだけが心配でならなかった。
曲がり角に来ると、壁から少しだけ顔を出してみる。そこから続く道の先に、彼女の姿は見られない。安堵し、わたしは改めて駆け出した。
わたしは夢でも見ているのだろうか。
広場のベンチから、クーラバッグが消失していた。しばし呆然と立ち尽くす。虚ろな足取りでベンチに歩み寄っていく。腰を屈めてベンチの下を覗き込んだ。あるはずのものが、忽然と姿を消していた。
ふらつきながら周辺を見回した。夢遊病者のように近辺を探し歩き、茂みの奥や公衆トイレなどを調べた。
刻々と時間が過ぎていく。気づけばわたしは、あのベンチに座り込んでいた。
本当は、奈緒ちゃんの腕なんて奪い取っていなかった。そう一人ごちることが出来ればどんなに楽だろう。
だけど、これは明らかに誰かの手によって作為的に持ち去られたのだ。誰かの手によって。誰が? 誰がこんなひどいことを。
噛んだ奥歯がきしむ。拳が震えた。わたしはベンチの板を睨み、力まかせに叩きつける。
あの女だ!
わたしを手ぶらだと勘違いしたあの素振り、あれは嘘だったんだ。あいつは最初から、バッグの存在に気づいていた。
こうして仕組まれて初めて気づく。あの女は、わたしを事件の犯人だと疑っていたに違いない。被害者の奈緒ちゃんが中学生だということを何らかの方法で知り、偶然にも深夜の公園に一人で居た、同じく中学生のわたしを不審に思った。なにか関連があるのではないかと疑い、やがてあいつは確信する。そしてわたしを嵌め、出し抜いたのだ。あのへんてこな作り笑いにも納得がいく。
すると、あのバッグの中身はどうなる? 普通の人なら真っ先に警察に届けてしまうだろう。でも、あの意地悪そうな女のことだ。切断された腕を気味悪がって、放り投げたり踏みつけたりするかもしれない。その上で警察に見せたときに、『途中で落っことしてしまいました』とでも言い訳すればいいと思ってるんだ。なんて浅はかなやつ。そのままあいつが容疑者にされちゃえばいいんだ。
でも、やっぱり駄目だ。奈緒ちゃんの手は取り戻さなくてはいけない。わたしは急いで公園を出た。
あの女は一つだけ失敗を犯した。自宅をわたしに教えてしまったのだ。
あいつが住んでいるというマンションに到着し、天を仰ぐ。かなり背の高いマンションで、少し首が痛くなった。彼女は、最上階の角部屋に住んでいると言った。あの女ならば、興味本位で一度バッグの中身を改めるだろう。そうなれば、まず向かう先は安全な自分の家だと推測できる。
殺意がふつふつと沸き上がる。今すぐあの女を絞め殺して、奈緒ちゃんを取り返してやりたい。
そのとき、ポケットの中で携帯が鳴った。お父さんからのメールだった。
『あと二十分くらいで帰るよ。それとも、もう寝てるかな?』
わたしは逡巡する。ディスプレイに表示される文字と、マンションのてっぺんとを交互に見つめた。