三話
奈緒ちゃんは喜色満面といった笑みでわたしの隣に座った。
「どうしたの? 今日は風邪でお休みじゃなかったっけ」
その表情と声に悪意は感じられない。わたしも奈緒ちゃんと似たような笑顔を作って、黙って首を振ってみせた。
「じゃあ、もう風邪治ったとか? あ、それともずる休みでしょ」
奈緒ちゃんがいたずらっぽく笑ってわたしの頬をつついた。奈緒ちゃんの人差し指の先っぽが、わたしの頬骨のすぐ下に沈む。背筋がぞくりとして、恍惚の息が漏れそうになる。
何をにやにやしてるのよ、と言われたけど、わたしはもう、頬の緩みを我慢できそうになかった。奈緒ちゃんは何も言わないわたしを不審そうに見たけど、やがてあのクーラーバッグへと注意を向けた。
「その荷物はなに? やけに重たそうだけど」
「なんでもないよ。気にしないで」
答えてみると、奈緒ちゃんは安堵したように話の方向性を変えた。内容は、今日の学校で起きたお笑い話だった。最初からバッグなど気にしていなかったようだ。
わたしは愛想よくうなずきながら奈緒ちゃんの話を聞いた。本当は話なんて頭に入ってこなくて、耳の穴がちくわみたいになっていたけど、でも、奈緒ちゃんがいつも通りだってことだけは分かった。
あの日、塾の女子トイレ内でわたしの陰口を触れ回った奈緒ちゃんは、もういない。
彼女の気持ちはよく分かる。わたしだって、それくらいの分別はつく。女の子の付き合いってそういうものだもん。奈緒ちゃんは悪気があってわたしの陰口を言い触らしたわけじゃない。ただ、女の子同士で一番盛り上がる話って、結局、誰かの悪口だもんね。奈緒ちゃんも必死なんだ。他の子たちの輪に入ることに。
だからこそ、わたしは奈緒ちゃんに失望していた。
奈緒ちゃんがあんなに俗っぽい女の子だったなんて、わたしは信じたくなかった。
奈緒ちゃんはもっと気高く高貴でなければ駄目だと思っていた。常にわたしの上を歩かなければいけない。生涯わたしの手の届かない存在でなければいけない。庶民的で浅はかな一面など、わたしは見たくなかった。
「そこで三村先生が、くるくる、ぱって――」
わたしは気づいてしまった。今この瞬間の奈緒ちゃんだって、実はわたしの望む奈緒ちゃんじゃなかったんだ。
奈緒ちゃんは、わたしみたいな凡人と関わってはいけなかったのだ。理想はいつだって手の届かない場所に置かなくてはいけない。わたしはテレビ越しの奈緒ちゃんが好きだった。あの手と演奏にずっと夢を見ていたかった。そして奈緒ちゃんは、わたしのことなんか一生知らずにいてくれればよかったんだ。結局、憧れは憧れのままが一番よかったのに。
それなのに、わたしは一体何をしているの? それでこの子は、あのときなんて言ったっけ。
――私たち、親友でしょ。
わたしの奈緒ちゃんはそんなこと言わない。本当はわたし、奈緒ちゃんと友達になんてなりたくなかった。
奈緒ちゃんと出会ってしまった時点で、わたしの中の奈緒ちゃんは終わっていたのだ。
「大丈夫? やっぱりまだ具合悪い?」
わたしは力なく首を振った。
「大丈夫。でも、ちょっとめまいがするかも」
「じゃあもう帰ろうよ。ごめんね、長話聞いてもらって。家まで送ってあげる」
奈緒ちゃんがわたしの手を取って立ち上がらせた。わたしは、奈緒ちゃんのこの優しさが大っ嫌いだ。彼女の手を掴み、膝を伸ばす。本当に立ちくらみがしてきた。全身の筋肉がところてんになったみたいだ。
わたしの目に映るのは、懸命にわたしを引こうとする奈緒ちゃんの手だった。壊してしまいたいくらい愛おしい、奈緒ちゃんの手。
わたしに残っているのは、これだけなんだ。
突如、奈緒ちゃんが裂くような悲鳴を上げた。
気づけばわたしは、彼女の手に噛みついていた。ちょうど親指の付け根あたり。わたしの前歯が深く突き立つ。
悲鳴を上げたまま、奈緒ちゃんは右手をがむしゃらに振った。わたしは全力でその手を抑え付け、徐々に顎の力を込めていく。
「誰かっ……!」
奈緒ちゃんは相変わらず弱々しく叫び続けたけど、彼女を助けてくれる者はいつまで経っても現れない。ビルからのボイラー音で何もかもが遮られているのかもしれない。その間にもわたしの歯は食い込み、骨に当たる固い感触にまで到達した。
ここで、お腹に刺さるような衝撃が走る。奈緒ちゃんの膝がわたしの鳩尾を捉えたのだ。
二人の距離が引き離される。奈緒ちゃんは後方のフェンスの角に背中からぶつかり、大きく呼吸を吐き出した。わたしは地面へとしたたかに尻もちをつく。
直後、べとりという音がして、階段に何かが落下した。自分でも恐くなるくらいの瞬発力で即座にそれを拾い上げる。人差し指と親指でぶら下げ、商店街から漏れるかすかな灯りに照らした。
やはりそれは、奈緒ちゃんの親指の肉片だった。わたしの指の間で、濃紅の新鮮なお肉が垂れ下がる。肉の外側で、薄い表皮が白く照り輝く。
お肉を唇でくわえ込んでみる。お婆ちゃんが蜜柑の汁を吸うみたいにほっぺたをへこませて、一気にお肉の血をすすった。どれだけ吸ってみてもあまり血は出てこなかったが、舌の上を微量に潤せるだけで満足だった。舌先で転がして酸味を楽しみ、それから奥歯でよく噛みしめる。三回ほど味が変わったけど、どの味も甘酸っぱくておいしかった。
次に、お肉を皮から剥がして口に入れる。同じように味わっていき、慈しむように咀嚼する。頭の中で閃光みたいなものが煌めいた。続けざまに皮を食べる。こちらも慌てないよう、ゆっくりと噛んでいった。
奈緒ちゃんの味は甘くて濃厚で、さっきから頭の中で音楽がエンドレスして止まらない。耳に覚えのある旋律だった。奈緒ちゃんの演奏だ。たぶん、これは序奏のパート。
すごい、と純粋に思った。奈緒ちゃんはピアノだけではなく、自分のお肉でだって演奏することが出来るのだ。
肉片を全て食べ終えたころ、近くから嗚咽が漏れ聞こえてきた。
見ると、奈緒ちゃんがフェンスにしがみつき、その場でへたり込んでいた。親指の付け根から流れ出す血液がフェンスの棒を滴り落ちていく。奈緒ちゃんはおしっこを漏らしていて、地面がべちゃべちゃになっていた。その泣き顔を静謐として眺める。わたしが記憶していたほど、奈緒ちゃんは大してかわいい顔ではなかった。
「あなた、おかしいわ……」
しかしわたしは、わたしが肉片を食べ終わるまで逃げなかった彼女に感謝した。わたしは奈緒ちゃんの両肩を掴み、一気に起きあがらせた。脳みその箍が外れたのか、それとも奈緒ちゃんのお肉に絶大な栄養素が含まれていたのか、それは定かではないがともかく、今のわたしの全身はありったけの力で満ちあふれていた。
奈緒ちゃんがもう一度叫ぶ。その瞬間、わたしは彼女を横倒しに放り出した。
奈緒ちゃんが石の階段を転げ落ちていく。頭と背中を交互に石段に打ちつけ、何度も回転して落ちていった。
一瞬、黙ってこれを見届けてあげようと思ったが、わたしはすぐにあることに気づいた。慌ててクーラーバッグを掴み、階段を駆け下りて奈緒ちゃんを追いかけた。
なんてばかなことを。あんな殺し方じゃ、奈緒ちゃんの手が傷ついちゃうかもしれない。
奈緒ちゃんが邸宅の門にぶつかった。がしゃんという激しい音を立て、身体が横向きに跳ねる。そこで、わたしは降りる速度をゆるめた。
ゆっくりと下っていき、地面で仰向けに伏せる奈緒ちゃんを眺望した。
頭を切ったのか、彼女は激しく流血しており、顔はほとんど赤色で染まっていた。しばし、震えながら頭を持ち上げる。やがて事切れたように、静かに後頭部を地面へと着けた。
たぶん、もう死んだよね。
階段を下りきる。石畳のでこぼこを靴の裏で感じる。一度、前方の錆びきった鉄格子の門を見据えて、それから奈緒ちゃんを見下ろす。わたしは立ったまま、彼女の両手をよく観察した。
あぁ、よかった。大丈夫そう。右手も左手も、特に目立った怪我はしていない。
心臓が急激に早鐘を打った。初めて殺人を犯したことによる狼狽か、それとも、これから彼女の手を完全に支配できることに興奮を覚えたためなのか、それはよく分からない。
ともかく、これからすべきことを必死に脳内で整理した。
クーラーバッグを肩から降ろし、チャックを開け、ビニール紐を取り出す。奈緒ちゃんの肩と腕の付け根に、しっかりと巻きつけた。出来るだけ血が飛び散らないための配慮だけど、素人のわたしがこんなことをしても大して意味はないのかもしれない。しかし、やらないよりはマシだと判断し、もう片方の腕にも同じように強く紐を巻いた。
バッグから雨ガッパを出す。おぼつかない手つきながら、なんとかわたしの腕は通った。前ボタンを全て止める。やっぱりブカブカだけど、なんとか作業は出来そう。
樫の木板と捌き包丁をバッグから出した。
もうゴム手袋を着けることすらもどかしくって、わたしは素手のまま作業を始めることにした。奈緒ちゃんの左手を持ち上げ、その下に木板を敷く。上椀の肘近くを中心に置けるよう、速やかに板の位置を調整した。
わたしは手探りに捌き包丁を探した。しかし、一向に包丁の感触が来ない。いよいよわたしは地面に目を落とす。よく見れば、ここの石畳はところどころ草が伸びきっていた。バッグから包丁を出したあと、わたしはそれを無意識のうちに雑草の中へと放り投げたらしかった。
鼓動がさらに高鳴る。わたしは死にもの狂いで包丁を探した。それは間もなくして見つかったが、わたしはそれでも、かなり急いていた。捌き包丁を手に立ち上がり、奈緒ちゃんのもとへと歩み寄る。
そこで雨ガッパの裾に足をかけ、わたしは大きく転倒してしまった。その勢いで、奈緒ちゃんのお腹の上に頭から倒れ込む。それによって彼女の傷ついた内臓がさらに圧迫されたのか、奈緒ちゃんはかすかに痙攣し、少量ほど吐血した。
わたしは体育座りになって雨ガッパの裾を確認する。足を引っかけた分だけ、少し破れていた。しかし、足下がちょっと破れたくらいではさして問題はないだろうと即決する。
半立ちになり、捌き包丁を両手で握った。頭上で思い切り振りあげ、奈緒ちゃんの上椀へと狙いを定めて叩き落とす。鈍い音が辺りに響き、手がじんと痺れた。腕をしばってもやっぱり血の飛沫は上がり、数滴ほど雨ガッパに染み付く。
刃の落ちた場所は狙い通り肘の間接あたりだったが、半分ほど食い込んだだけで止まってしまった。一発で切断できるものと思っていたのに、予想以上に骨が固い。
しかも、刃を引き抜こうとしても腕がぶらりと付いてきて、なかなか離れない。焦りで無茶苦茶に包丁の柄を動かしたが、それでも抜けなかった。
額を前髪ごと拭う。手の甲がべったりと汗で濡れた。深呼吸を二回して、刺さったままの上椀を木板に乗せなおす。
もう一回だけ、深呼吸。
包丁の柄を握ったまま、刃の背中を思いっきり踏みつけた。だん、という断絶音がして、肘から先の部分が奈緒ちゃんから独立する。
深い息吹をし、わたしは冷静に奈緒ちゃんの左腕を拾い上げる。クーラーバッグに入れて、いくつかのドライアイスの小袋で、丁寧に腕を包み囲んだ。
こつこつと積み上げるように、わたしの思考が冷めていく。春の湿った空気が頬の産毛をなでる。捌き包丁は、先端から木板に突き立ったまま。
作業を一時中断し、廃墟邸宅の門へと目を向ける。
門の鉄格子に両手をかけ、こちらをしげしげと覗き見るものが居た。あの卑しい鬼だった。黒く大きな図体を揺らし、獣のような息を吐きながら、鬼は物欲しげに奈緒ちゃんを見下ろしていた。わたしはそいつの、ぎらぎらと光る赤い眼をにらみつける。
赤い眼がこちらを見つめ返す。それを見下すように、わたしは口元で笑みをたたえた。
「一生、そこで指をくわえて見ているといいよ」
わたしは嘲笑混じりに言つけた。