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食人鬼  作者: 小岩井豊
本編
2/15

一話

 早く終わんないかな、とわたしは思った。

 ホワイトボードにペンを立てながら、青木先生が大げさに英単語のジェスチャーを示した。その発音がやけに耳障りで、わたしは授業を聞くふりをして、そっと英語の教材へと目を落とした。

 桃太郎の和訳問題だ。もう中学三年生の春なのに、どうして一年のときの復習なんかするんだろう。

「高校受験の対策前に、まず基礎を固めておきましょう」

 一週間前、青木先生がそう告げたとき、教室内が一気にしらけていくのが分かった。よもや、偏差値六十五以上の生徒が集まるこの倉田塾で、しかもそれぞれ親から高い授業料まで出してもらっているのに、それはないよ。

 基礎なんてたぶん、少なくともわたしの塾内の友達はみんな、じんましんや汗疹が出るまでやり尽くしたと思う。わたしだってその一人だ。

「おぅが」

 青木先生が口をとんがらせて発音した。いらいらして、思わずシャーペンをへし折りたくなったけど、私はぐっと我慢した。

 教材のあるページに描かれた赤鬼の絵を見つめる。桃太郎に追いかけられ、赤鬼は半泣きで金棒をほっぽり出していた。

 そんな赤鬼の姿に、わたしは得も知れぬ不安感を抱く。どうして鬼は、鬼ヶ島から追い出されなくちゃいけないのか。どうして鬼は、鬼であるという理由だけで退治されなくちゃいけないのか。それを考えると、ほんとうに身も凍る思いだった。

 わたしはこの塾にいるあいだ中ずっと、この赤鬼みたいにならないよう、頑張ってきた。

 何故なら、鬼とはつまり、周りから外れた人物だからだ。周りから外れるというのは環境や条件によって様々だけど、この倉田塾においてはただ一点、鬼とは勉強についていけなくなった生徒のことを指す。

 鬼になった者は得てして迫害を受ける。実際、現代社会でそこまで露骨な迫害なんてあり得ないけど、言葉や行動で示さない迫害というのは確かに存在する。

 具体的に言えば、周りから見下されたり、それとなく仲間外れにあっちゃったりするわけだ。勉強が出来ないという事は、イコール駄目な人ってことで、いや、もはや人として扱ってくれないのかも。これは大げさなんかじゃない。だって、塾って学校とは違って、先生たちに義務や責任がない。出来ない子は、もういいや、はい、先に進みますよって。それでおしまい。

 青木先生の授業を受けていて、ふとわたしは、ある別の不安を抱き始めていた。

 この下らない基礎復習の間に、もし他の子に差をつけられちゃったら。

 わたしはページをめくった。どんどんめくっていって、やがて、高校一年の終盤あたりの頁まで到達させた。シャーペンを持って、うんうん唸ってみる。高校英語はやっぱりレベルが高くて、文法の応用も中学英語とは裾野が段違いだった。分からないところもいっぱいあったけれど、でも、自力でここまで頑張ってみせた。

 でも、どうだろう。わたしより頑張ってる子なんて、本当はいっぱい居るんだろうな。

 わたしはぎゅっと目をつむり、ネガティブな妄想を振り払うことに躍起になった。こうやって安易に他人と比べても意味ないよ。わたしにはわたしのペースが、

「えー、じゃあここ。三崎」

 名前を呼ばれ、ぎょっとして顔を上げる。青木先生がきょとんと首を傾げた。

「どうした、はやく訳してくれ」

 わたしは固まってしまった。だって、授業なんてぜんぜん聞いていなかった。そんなわたしの様子に青木先生は眉をひそめる。突然遠目になって、わたしが開く高一英語のページを舐めるように見た。

「お前だけじゃないか? そんなに焦って前に進もうとするやつは」

 わたしはしばし呆然としたが、すぐに顔を下に向けた。周りの子たちの、迷惑そうな視線を感じたからだ。これじゃあ、わたしを馬鹿にして笑ってくれた方がよっぽどましだ。

 なにごともなく授業が再開される。みんなの集めた視線の幻影が、瞼の裏に張り付くかのようだった。

 恥ずかしい、消えてしまいたい、純粋にそう思った。

 我慢できなくなって、わたしは先生の目を盗んで、そっと席を離れた。隣の席の子たちがわたしの挙動をまじまじと見てきたが、知らんぷりを決め込んだ。

 廊下に出て、急いでトイレに走った。



 外れるのが恐いばっかりに、なんて醜態をさらしてしまったのだろう。

 トイレの個室内でうずくまり、わたしは頭を抱えた。この塾にいる限り、いつもこれの繰り返しだ。焦りと先走りと自己嫌悪の連続。それで結局、わたしは何も身につけずに終わってしまう。このままじゃ、あのときと同じになる。

 中学受験のときみたいに、また墓穴を掘ってしまうんだ。

 そのとき、個室のドアがこんこんと叩かれた。無視したけど、ノックはしつこく鳴らされた。

 諦めてわたしはドアを開錠し、ドアノブに手をかける。

 開けてみると、そこに居たのは、なんと奈緒ちゃんだった。

「大丈夫? 小夜(さよ)ちゃん」

 わたしは真っ赤になって何も言えなかった。奈緒ちゃんは肩をすくめ、呆れるような仕草をした。

「さっきのなんて、気にしない方がいいよ。悪いのは青木先生なんだから。今さら中一の復習でしょ。あれで焦るなっていう方がおかしいのよ」

「奈緒ちゃんもそう思う?」

 わたしはうれしくなって、奈緒ちゃんの手を取った。白くて弾力があって、わたしの大好きな奈緒ちゃんの手だ。

「私だってかなり焦ってるもん。小夜ちゃんほどじゃないけど、私だって勉強頑張ってるのよ」

 奈緒ちゃんがわたしの手を握り返してくれて、私はうれしさのあまり、立ちくらみしそうになった。それがばれないように足下をこらえて立ちなおす。

「そんな、わたしなんて……」

「謙遜しないでよ。小夜ちゃんは誰よりも努力しているじゃない。この前の模試は、私のまぐれ勝ちだったけど、あなたの頑張り具合は教室内でも恐れられているのよ」

 奈緒ちゃんはこうして、わざと話を大きくしてお世辞を言ってくる。それがうれしかったり、ときどき嫌味に聞こえたりするけれど、今のわたしの頭にお世辞なんて言葉は浮かばなかった。

 わたしはそっと、握られた手を見下ろす。奈緒ちゃんの、寒気を覚えるほど美しい指の形状を見つめた。

「そうだ、小夜ちゃんに渡したいものがあったんだ」

 奈緒ちゃんが手を離した。口惜しかったけど、彼女がポケットから出したものを見た瞬間、わたしの意識は完全にそちらに向いた。

「私が今度出演する、演奏会のチケット。小夜ちゃんのために、ママが委員会に掛けあって手配してくれたのよ」

 わたしは渡されたチケットを持ったまま硬直した。記載された座席位置が、最前列の待遇席だったのだ。奈緒ちゃんは照れ笑いをして、わたしの肩をぽんと叩いた。

「何を驚いているのよ。私たち、親友でしょ?」

 くさいことを言ったのが恥ずかしくなったのか、奈緒ちゃんはくるりと回って背中を見せた。絶対来てよね、そうつぶやくと、一目散にトイレを出ていった。

 わたしはチケットを広げたまま、しばらくその場を動くことが出来なかった。



 奈緒ちゃんという女の子は、わたしのお母さんの次に完璧な人物だと思う。

 今まで倉田塾の中でしか関わりはなかったけれど、塾のテストはほぼ満点だし、いつも成績上位にいるし、見た目だって結構かわいい。なにより一番に、彼女はピアノの天才だ。

 三歳で初めて鍵盤を叩き、彼女は当時九歳で世間からの注目を浴びた。大人にだって習得困難な曲を難なく弾いてみせ、九歳にして旋律に感情を乗せる技術を見い出していた。

 わたしがもっとも奈緒ちゃんに注目したのは、あの小枝のように長くほっそりとした色白な指である。

 演奏自体もそうだけど、テレビで奈緒ちゃんを見かけるたびに、彼女の手元に見とれた。奈緒ちゃん本人には言ってないけど、実はわたし、ずっと幼いころから奈緒ちゃんを知っていたのだ。

 彼女と初めて塾で顔を合わせたとき、わたしは表では平常を装いながらも、内心どきどきしっぱなしだった。あの憧れの女の子のそばに居られるなんて。その日の晩は本当に、興奮して中々寝付けなかった。



 ピアノの演奏会が終わって、わたしと奈緒ちゃんはゲームセンターでプリクラを撮った。奈緒ちゃんのママが「私も混ぜて」って言ってきたけど、奈緒ちゃんが、

「小夜ちゃんと二人っきりがいいの」

 ってきっぱりと断ってくれた。

 家に帰ってからも、わたしはずっと、奈緒ちゃんと一緒に撮ったプリクラを眺めていた。

 奈緒ちゃんが、写真の中でピースしていたのである。

 ピアノ経験者がピースをするとき、普通の人では見られないくらい、人差し指と中指が、ぐんっ、と特徴的に開く。奈緒ちゃんは身長こそ低いものの、その分、指は長くて筋肉も柔らかかった。

 奈緒ちゃんの作るひどく鈍角なVサインを見つめながら、わたしはにやにやしたまま目を閉じた。目を閉じると、奈緒ちゃんの演奏が頭の中で流れた。もちろん、せわしなく動く両手の映像つきだ。あの素敵な指先が、あの素敵な演奏を創り出す。なんて尊く、なんて価値のある手なのだろう。



 奈緒ちゃんが完璧じゃないと知ったのは、それから数日後のことだった。

 わたしはその日、学校を終えて急いで塾に走った。授業が始まるまで、教室で奈緒ちゃんとゆっくりお話したいと思っていた。

 教室に入ったけれど、奈緒ちゃんはまだ来ていなかった。他の子もほとんど居なかったし、わたしが早く来すぎただけなんだと思い、わたしはひとまずトイレで時間をつぶすことにした。教室内では携帯をいじっちゃいけないので、トイレの中で奈緒ちゃんにメールを打とうと思ったのだ。

 しかし、わたしはトイレの入り口前で足を止めた。中から、奈緒ちゃんと他の子たちの会話が聞こえたのである。

 そのときの彼女たちの会話は、今となってはもう、うまく思い出すことも出来ない。しかし、わたしの陰口を言っているのだということは、会話の内容自体より、身体の芯に響いてよく染み込んだ。だって、陰口の話題提供が、奈緒ちゃんだったからだ。

「笑っちゃう。あの子、チケット渡しただけで赤くなっちゃうのよ」

 わたしってそんなに赤くなっていたかな、と首を傾げる。

「私、ただ自慢したいだけだったんだけどなぁ」

 奈緒ちゃんって、これ以上なにを他人に自慢することがあるんだろ。

「やだぁ、やめてよ気持ち悪い。私、女なんかに興味ないわ」

 わたし、そんなんじゃないのに。

「そういえば知ってる? あの子が公立に通ってるのって、中学受験の時期に精神病院に入ってたからなんだって」

 それは内緒にしてって約束したのに、なんでばらしちゃうかなぁ。

「あ、ていうか。あの子がいくら頑張っても、私立なんか到底無理だったんだよね」

 わたしは。

「あれだけ勉強して、未だに塾内で学力底辺だし」

 わたし……。

 世界が暗転して、何も考えられなくなって、それでも頭の片隅に、奈緒ちゃんの手があった。

 暗闇の中で奈緒ちゃんの手の感触を思い出すと、わたしはいくらでも開き直ることができた。いくらでも大丈夫だと思えた。今まで怖いと思っていたものも、しだいに薄れていく気がした。

 教室に戻ると、しばらくして青木先生の英語の授業が始まった。わたしはやはり授業など聞かず、教材のページに描かれた桃太郎の絵を眺めた。

 鬼ヶ島から追放されてしまう悲運な鬼たち。彼らはしくじったのだ。鬼ヶ島さえ見つからなければ追い出されることもなかった。自分が鬼であるということを隠さなかったから、こうなったんだ。

 わたしなら、もっとうまくやってみせる。

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