終章
「咲子さんって、なーんかいっつも飴食べてるよねぇ」
咲子は顔を上げる。今年の四月に転校したばかり女子生徒が目の前にいた。彼女は咲子の机に両肘を置き、しきりに猫っぽい目をしばたかせた。
女子生徒の名前を思い出そうと頭をひねっているうちに、そうだ、と慌てる。
「あ、うぅん」チュッパチャプスをぽんと口から出し、鈍すぎる返事をした。「好きだからね」
そして、また口に戻す。ついでに名前も思い出した。小峰真由。
「マユも、飴ほしいなぁ」
ファーストネームを一人称に使う時点でそこそこにイタい人物だと予想できるが、この小峰真由も例外ではない。黒目がちの大きな瞳、セミロングにパーマをあてた海草みたいな髪型、そして、思わず殴りたくなる感じのアヒル口。
咲子は出しかけた手をポケットに引っ込めた。自覚はある。フルでここに居る自分より、二年から編入してきた小峰真由の方がクラスに馴染んでいることに。
特に彼女は、男子生徒と男性教諭からの支持率が高い。この猫目も、ふわふわなわかめヘアーも、アヒル口も、外見からしてモテそうな雰囲気がある。性格はおっとりしていて、要所要所で抜けている。勉強は壊滅的にできない。天然素材のナチュラル・バカ。だからか、どこか憎めないところもあって女子側もすんなり彼女を受け入れてしまっている。
一方の咲子は、高校デビュー失敗のなれの果てだった。いまだにクラスに友達がいない。この小峰真由が話しかけてくるという状況も嫌みにとれてしまうのだ。
気分を害しながら咲子はポケットを探る。三角形の感触から、恐らくいちごみるく。割と好きな飴なので癪だったが、無言で真由に差し出す。
真由が目を輝かせた。いちごみるくの包装をやぶり、すぐさま口に放り込む。口角がご機嫌そうにつり上がった。
「咲子さんって、本当に吉村くんと別れちゃったの?」
「別れた。遊ばれてたっぽいし」
例の女子中学生との一件であの男と恋人同士の振りをしていたが、学内ではよほど衝撃のカップルだったらしい。いまだに噂に尾ひれがついて回り、生徒たちは咲子に真意を尋ねてくる。
遊ばれていたというのは、言葉通りの意味でなくても事実だろう。なので咲子は、破局の原因をわざと吉村の評判が悪くなるように答える。
学生鞄を手にしてさっさと机を立とうとすると、真由も咲子にならって立ち上がった。
「一緒に帰ろう」
「えー」
「えーってなに? 帰ろうよ」
「あたし、これから部活があるんだけど」
「咲子さんって、部活なにしてるの?」
咲子はしぶって答える。
「文芸部」
「ブンゲー部!」
真由がトーンを上げて復唱した。咲子は頬をひくつかせながらも、なんとか平静を保つ。
「あと、兼部でたまに将棋部にも……」
「ショーギ部!」
「もしかして、馬鹿にしてる?」
真由はきょとん顔をして、高速で両手を振った。残像が見えそうだった。
「ぜんぜん。意外だな、って思っただけ」
「意外?」
「だって、咲子さんって一匹狼ってイメージだし。部活なんかやってなさそうだもん。馴れ合いとかくだらねー、みたいな。マユ、そういうのずっと憧れてたんだぁ」
憧れと聞いて、またあの女子中学生の顔を思いだしてしまう。自分も目の前の女に狙われてしまうかもしれないと考えると、咲子はさらに彼女と距離を置きたい気分になった。
「決めた。マユも文芸部に入る」
真由は決意に満ちたような、期待の眼差しを咲子に向けた。文芸部という独自のサンクチュアリを形成していた咲子にとって非常に思わしくない展開だった。真由を追い払う術を一心に思案した。
まず、文芸部は顧問の教師が常時不在である。部員は咲子の他に二名のみ。部室の片隅でしこしこと小説を書く文豪気取りの眼鏡男子が一人。もう一人は幽霊部員兼、絶賛自宅謹慎中だ。文化祭はまだまだ先なので特筆してやることがなく、無理して部室に顔を出す必要もない。
真由が部室までついてくるか、このまま直帰してしまうか、二つのパターンを天秤にかけて考えてみればおのずと答えは出てくる。
咲子は廊下の真ん中で踵を返した。
「あー、今日部活ない日だった。帰ろ」
「そうなんだ。部活は明日紹介してね」
「うん。ばいばい」
咲子は鞄を肩に提げて早足で進む。不安になって後ろを見ると、やはり真由も笑顔でついてきていた。
「お願いだから一人にさせて」
「マユ、咲子さんと友達になりたい」
「なんであたしなの? ていうか、なんで小峰さんまで下の名前にさん付けで呼んでくるの?」
「マユって呼んで!」
真由がヒステリックに叫ぶと、廊下を歩く生徒の視線が一斉に集まった。むろん咲子も仰天して足を止める。真由が口をへの字に曲げ、目で抗議した。
「……真由」
冷や汗混じりに言うと、真由の唇がアヒルのくちばしを形作った。
それからというもの、真由の奇特なストーカー振りはエスカレートしていき、なにかと言い訳をつけて文芸部侵入を阻止していた咲子も半ば観念してしまい、不本意ながらも彼女を部室に招待することになってしまった。
初めて文芸部に訪れた真由は、物珍しそうに室内の本棚群を眺めていた。一応部長である咲子は、副部長の眼鏡男子が新入部員を一切見ようともしないことに苛つき、長机で原稿用紙に向かい続ける彼の頭を小突いて、自己紹介と部の活動説明を強要させた。
文芸部の活動は精力的である。メインは二ヶ月に一度の部誌を制作することで、毎回図書室で配布することになっている。部誌といっても、眼鏡男子の自慰的連載小説がページの八割を占めてしまうので、咲子の請け負う仕事は本の装丁と数ページの自由制作くらいのものだ。十月の文化祭では部員一人一人が個人制作をしなければいけない。小説でも詩でも絵本でもなんでもいいが、最低限のクリエイティブさが要求されるので中々敷居が高い。
他にも、図書委員や司書教師との関わりが深いため、月に一度は図書委員会議に参加し、蔵書リストの点検や利用者の要望に応える検討案を求められたりする。さらに眼鏡男子などは、頼みもしないのに毎度のこと地方の文学コンクールに応募しているようだ。怖いくらい意欲的だが、彼はほとんど趣味でやっているようなものなので、無視していい。
ここまで部の説明を受けて、真由も少しは気が引けたのではないかと淡い期待を持つが、そんな咲子の思惑に反して、むしろ彼女は燃えてしまったようだった。
「堤さん。マユ、がんばります!」
真由はパッションに満ちた目をして眼鏡男子と熱い握手を交わした。
「頑張りたまえ、小峰くん」
同い年なのにやけに偉そうなのが彼らしいうざったさなのだと思いつつ、咲子は脱力し、部室の隅っこで与謝野晶子のエッセイを広げた。部誌の締め切りが近い。本当なら新入部員に構っている時間などないのだ。
真由の登場により、再び来たる波乱の予感を払拭できない咲子だった。
水曜日。
放課後が始まり、一直線に教室を出ようとしたが、またしても小峰真由が退路を塞いだ。部活に行こう、と誘ってくる。一応、毎週水曜は部の活動は休止することになっているが、彼女にとって部の休日など意味を為さないらしい。部誌に向けた絵本制作に熱中しているようだ。
「あたし、これから大事な用があるんだよ。部活なら一人で行け」
嘘を吐いて誤魔化そうとするが、鈍い真由には通じない。
「そうなの? じゃあ、マユも今日はおとなしく帰る。どっか寄り道していこう」
「だから、なんでいつもあたしなの。一緒に帰ってくれる友達なら、他にもいっぱい居るでしょうが」
「マユは、咲子さんじゃなきゃ、嫌」
「はぁ、きもちわるい」
真由が泣きだしそうな顔をした。咲子はばつが悪そうに口を噤む。
「帰ろうか、一緒に」
「やった!」
真由がぱっと笑って諸手をあげた。計算ずくの泣き顔だったのだろうか。しかし、天然バカの彼女に計算する知恵などあるはずがない。
逃れる方法を模索していた咲子は、生徒玄関で吉村浩介と鉢合わせしたことではっとひらめく。真由を押し退け、吉村の腕をつかんで捕獲した。彼は不意をつかれたようにびくりと震え、戦々恐々振り返る。
「なんだ、咲子さんか。久しぶり」
「吉村くん、助けて」
「なにが?」
咲子の背後の異変に気づいたのか、吉村が首を伸ばして真由を覗いた。真由は不満げに片頬をふくらませていた。
「別れたんじゃなかったの……」
「残念。たったいま復縁しました」
事情を察したように、吉村が咲子の腕を振りほどいた。
「咲子さん。そんなんだからいつまで経っても友達が出来ないんだよ」
「余計なお世話だ」
「あと君さ、僕のこと変な風に噂してるだろ。軽いとか遊んでるとか。最近やたらとクラスの女子たちから避けられるんだけど。恋人ごっこの件はもう謝ったはずよね?」
「軽いのも遊んでるのも事実でしょ」
「いや、それはそうかもしれないけど……」
吉村は困り果てたように目を細め、こめかみを掻きながら咲子と真由を見比べた。
「とにかく、その子を置いてけぼりにするのはあんまりだ。構ってあげなよ」
「じゃあ、吉村くんもついてきてよ。あの子の話し相手になってあげろ」
「なんで僕が」
吉村的には真由の存在は好奇心をそそられないらしい。ここまで消極的なのだから間違いない。ここで真由が元気よく挙手した。
「マユ、そこのクレープ屋さんに行きたいでーす」
早くもこの三人で行動する気のようだった。クレープ屋とは、校門を出てすぐの、国道向かいにあるクレープ屋台のことだろう。
二人の返事を待たず、真由は生徒玄関を出ていく。吉村と咲子は顔を見合わせ、嫌々ながらも彼女の後を追った。
国道を渡り、客の一人もいない寂しいクレープ屋台に着くと、真由はわずか数秒で注文を決めた。チョリソなどのソテーをカレー風味で生地に包んだ、受け狙いとしか思えないような激辛クレープだった。もちろん、咲子たちからは一笑たりとも笑いを買うことはできなかった。
ベンチに三人で並んで座り、激辛クレープに激しく後悔する真由は、うらめしそうに吉村と咲子の頬張る普通のクレープを凝視した。やがて、彼女は胃の不調をうったえる。
「お腹痛い。マユ、トイレ行ってくる」
女子として、しかも食事時にその発言はどうだろう。もはやかける言葉もない。
「店員さん、トイレどこ?」
「知らねーっす」
やる気のなさそうな屋台の男性店員があっさりと首を振った。もぞもぞと口をうごめかせ、何か思い出すように頭のバンダナをいじる。
「あーそっすね。たしかあれ、そこにコンビニがあったような。知らねーっすけど、たしか、ホラあそことか」
店員の指し示す方向を見やると、真由はまっさきにそちらへと駆けて行った。真由のウェーブした後ろ髪を見送りながら、咲子はぽつりとつぶやく。
「疲れるでしょ、あの人」
「そうだね」
「吉村くんより疲れるわ」
「そうだね」
気のない返事に訝って横を見ると、吉村がベンチの端まで寄っていた。彼の前には立て看板があり、顔より下を太陽光から防いでいた。
吉村の視線の先には真白商業の校門がある。あの位置取りからだと、校門を監視するにはちょうどいいのだろう。彼はきっと、三崎小夜の気分を味わっているのだ。
「小夜ちゃん、あれからどうなったと思う」
校門を捉えたまま吉村が真剣に問う。咲子は食べ終えたクレープの包み紙を折りたたみながら考えた。吉村の喜びそうな答えを探した。
「また新しいターゲットでも探してるんじゃないですか」
「僕はそうは思わない」
彼の反応は意外だった。
「彼女は変わるよ。今まで以上に勉学に励んで、父親を大事にして、誰かを尊敬して、常に何かに葛藤する。今の小夜ちゃんなら、同じ過ちは犯さない」
「分かったようなこと言うじゃん」
咲子はすぐに自分のひねくれた言い方を恥じた。吉村は変わらず、真剣に前を見つめたままだった。
「あの子ほど、人間らしい人はいないよ」
言い切ると、吉村はクレープの最後の一口を口にした。咲子は包み紙を折り続ける。無意識に鶴を折っていたことに気付く。
咲子は小夜のことを思い出していた。巨大な氷塊の中の首だけの母親と向き合いながら、小夜の瞳には様々な感懐が巡っていた。人とは違う愛情表現。小夜はずっとそれに苦悩していた。彼女は鬼ヶ島に籠もる鬼のようなものだった。周りから外れた鬼は、自分の島が見つかれば迫害される運命にある。他人と違うことを恐れ、自分自身に嫌悪しながらも、彼女の食性がそれを阻害する。愛する者、尊敬する者を食べてしまいたいという欲求が抑えられない。
異常性癖を持つ者が必ずしも鬼というわけではない、と咲子は思う。自分の性癖に開き直ってしまうか、嫌悪し苦悩してしまうか、それだけで大きな違いが生まれる。
「本当はいい子なのにね、小夜ちゃん」
余情が溢れだし、咲子はふと口ずさむ。視界の端で吉村が小さくうなずいた。
騒々しい足音とともに真由が帰ってくる。もはや倦み疲れた咲子は顔も上げられない。慌ただしく彼女の隣に駆け寄ると、真由が鼻息をあらくして手にした物を差し出した。
「咲子さんと吉村くんのファンからだって!」
彼女の手には高さ30cmほどのポリエステル製バスケットがあった。クマの柄が可愛らしくプリントされており、受け取ると、ひんやりとした温度が手のひらについた。
真由は喉元ほどの高さで手をかざし、身長のようなものを現してみせた。
「こーんな小っちゃい女の子でね、小学生くらいの子。あ、でも近所の中学の制服着てたなぁ。それにしても、ファンだって! ねぇねぇ、咲子さんたちって結構有名人だったりする? 隠れファッションモデルとか? 二人ともカッコイイもんねー」
真由の妄想はとどまることを知らないが、咲子と吉村は顔を見合わせてうなずき合う。真由を押して退かし、クレープ屋台から離れて二人でバスケットを囲んだ。
バスケットの蓋を開けると、中からもうもうと冷気が漏れ出した。不透明のタッパーがいくつか入っており、それを包み隠すように保冷剤がバスケットいっぱいに敷き詰められている。その間に、一枚の便せんが挟まっていた。サンリオのキャラクターが端に描かれた、いかにも女子中学生らしい便せんだった。
咲子は便せんを広げる。丸っこく丁寧な字体で書かれた一文が、そこにあった。
『おすそ分けです』
吉村が短く高笑いをあげる。
「ブラックジョークだね」
いけない方向に強くなったなぁ、と咲子は余計な憂慮を覚える。後ろから覗き込んでこようとする真由に場繕いの言い訳をして、咲子はそれとなくクーラーバスケットを吉村に手渡した。
小説家になろうという健全なサイトでこんな倫理を欠いたような小説を掲載していいのかなと悩んだのですが、なにかあればご遠慮なくご指摘ください。
咲子と吉村の二人を探偵(?)ポジションでシリーズ化したいなぁと考えて作ったお話なので、いずれこのコンビでまた新しい連載が出てくると思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございましたm(_ _)m