十話
あれから一週間が経った。
ある日の土曜日。
梅雨前線が近づいていて、春のほどよい温風はなりをひそめていた。
動きやすい服装に着替えてバッグの中身を確認する。お父さんの部屋に行き、彼の車いすを押して家を出た。
お父さんの運転する車で吉村さんのマンションまで彼らを迎えに行った。吉村さんと咲子さんはすでにマンション前で待っていた。吉村さんは手ぶらで、咲子さんは小振りなショルダーバッグ一つだった。
車を玄関前に横付けすると、お父さんが車から顔を出し、二人に軽く会釈をした。
今日は、この四人で遠くへお出かけすることにしている。奈緒ちゃんの手がある場所だ。
わたしが人を殺したことをお父さんに知られるのは気が引けたけど、それすら今更な気がしてくる。わたしは結局、こうなる運命だったのだと思う。
朝早くに出発したのに、目的地に着いたのはお昼を過ぎた頃だった。
到着したのは富士山麓の鬱蒼とした森林地帯。ある湖が見えてくる。まわりを樹木で囲まれた清閑な場所。
初夏の太陽が照りつけ、林からやってくる湿った空気があたりを支配していた。きり雲が山を覆い、景色が幻想的に映える。
ここまで移動疲れで不機嫌そうにしていた咲子さんも、このきれいな湖の風景にいくらか元気を取り戻したようだった。徐行する車の窓から顔を覗かせ、細っこい腕を伸ばして湖畔のログハウスを指さした。
「あれだよね」
「そうです。毎年、キャンプのときだけここに来ます」
ログハウスの前で車が止まった。車いすを用意して、お父さんを運転席から降ろしてあげる。お父さんは穏やかな笑みを浮かべるばかりで、終始無言だった。
ログハウスに近づいてみると、ベランダの窓が割られていて、吉村さんが以前侵入した痕跡なのだと分かった。
「ごめんね。そろそろピッキングの練習しなきゃなぁ」
吉村さんが苦笑した。不法侵入そのものについての謝罪じゃなかったけど、わたしはとくに言及しなかった。
このログハウスはお母さんが若いころに買収したものだ。今は年に一度しか使わないので、クモの巣だらけになっているはずだけど、今回はそうでもなかった。吉村さんによってあらかた払われたようだ。
ダイニングの奥にはベッドがあり、その上で、真っ黄色にくすんだカーテンが揺れていた。もともと、鮮やかなベージュ色だったもの。
「ここで、君は初めてお母さんを食べた」
歴史遺産におとずれたみたいな口調で吉村さんが言った。
テーブルのそばでお父さんが静かに目を閉じていた。カーテンを開くと、昔と同じやわらかな木漏れ日がさし込んできて、お父さんのやつれた頬にほんのりと落ちた。
「あれを、見てくるんだろう」
お父さんの言葉に、わたしたち三人は誰ともなくうなずいた。
吉村さんが廊下へと足を向けた。わたしと咲子さんも彼のあとについていく。
ダイニングを抜けた廊下の途中には物置部屋がある。扉を開けると、ほこりの蔓延した空気が奥から放たれた。
部屋には使い古しの布団や段ボール箱が積みあがっていた。吉村さんが隅っこの荷物をどける。そこには、不自然に色落ちした畳が敷いてあった。
彼は畳に指をかけ、それを慎重に上へと押し上げていく。地下へと続く階段が、いよいよ白日のもとにさらされた。
「よく、これを見つけましたね」
「不法侵入を決め込んだ瞬間から、違和感みたいなものを感じていたから」
そのとき、背後から咲子さんの控えめな声がした。
「あたし、ここで留守番してていい?」
「だめ」
吉村さんのつめたい反応に彼女は不服そうに黙り込んだが、おとなしくわたしに続いた。
腐りかけの木製階段を降りていくにつれ、すこしずつ、外界との光源と切り離されていくのがわかった。この二人がいなければ、わたしはこの独特の寂莫感を懐かしんだだろう。
地下に明かりはない。咲子さんが持参した懐中電灯だけがたよりだった。
「かえりたい。幽霊出そう」
後ろから明かりを照らしながら、咲子さんがぶつくさ漏らした。それに応える者はいない。わたしたちの間で、徐々に口数が減っていくのを感じた。
ひと一人分しか通れないほど幅狭な地下道を進む。光の玉がゆらゆらと揺れ、壁際にぽつぽつと横並ぶ鉄扉が見え隠れした。わたしを十日以上も閉じこめた扉は、今ではあっけないくらい錆び付いており、当時の堅牢さもすっかり衰えていた。三人の足音が両の岩壁に反響し、わたしの耳にはなんとなく、誰かの悲鳴のように聞こえた。
地下道が行き止まる。
わたしたちの前に、重厚な鉄門扉が整然とたたずんでいた。独房とはまた違う、揺るがしがたい存在感。今居るこの場所とは隔絶された何かが、その先にはあった。冷気が扉の間から漏れ、わたしの火照った指先をすぐさま冷却する。
吉村さんが扉に手をかけた。
「開けるよ」
止まった時間が動き出す。
毎年この扉を開けるたびに、わたしはそういう錯覚に囚われてしまう。
扉の向こうには広さ六畳ほどの空間がある。しかし決して移住空間などではない。
六方を埋め尽くすコンクリートの壁は、その全面が厚い氷の膜に覆われていた。奥には数台の小型保冷庫が並べられている。気づけば、口から白い息が立ちのぼっていた。奥歯がかちかちと鳴る。動きや呼吸を少しでも止めれば、人間なんてすぐに氷漬けにされてしいまいそう。
ここには、死の温度が存在する。
自然が生み出す気温とは違う、あくまで食物の保管のみを目的とした冷徹な温度。
寒さのあまりか、咲子さんがわたしを抱き寄せ、わたしを湯たんぽ代わりにした。身長差があるので、わたしのこごえた頬が彼女の首筋に当たった。
吉村さんが自分の両腕を抱きながら、一番右端の保冷庫に近づいた。扉を開け、そこから、わたしの待望を取り出す。
「今まで勝手に取り上げて、悪かったよ」
寒さのためか、再会の感動のためか、わたしの手は震えていた。
「いいんです」
咲子さんに抱かれた腕から抜け出し、わたしはそれを受け取る。薄い霜の張った二本の腕。青白くなった肌を軽く撫でつけ、優しく表面をならした。
手首、手の甲と指を滑らせ、美しい指先へと手を伸ばす。形のいい人差し指を握り、白い息を当てた。
「奈緒ちゃん……」
尊い両腕を胸に抱く。服の上からでも伝わる冷えた感触。奈緒ちゃんが寒さをうったえているように思えて、わたしは彼女の右手の親指を口に入れた。アイスの棒みたいにしゃぶって温めてあげる。凍り付いてもなお、すべすべした滑らかな突起がわたしの舌をついた。憧れ続けた指先は、憧れに負けないくらい完璧な形状と舌触りをもたらしてくれる。
ぱちっ、ぱちっ、と視界が瞬いて、奈緒ちゃんの演奏会が鮮明に甦る。天の遣いが創り出す奇跡の音色、神さまが生み出した完成型が、わたしの口の中にある。
唇を離すと、唾液が糸を引いて垂れた。奈緒ちゃんの親指からかすかに湯気が立ち上る。
ふと見ると、吉村さんがある一点を見据えていた。そこには、一際目立って大きな保冷庫があった。彼の横顔に問う。
「あれの中は、もう見ましたか」
「いや、僕もそこまでの無粋はできないよ」
後ろからくっついてくる咲子さんをひきずって歩き、保冷庫に手をかける。積年をかけた氷のインフラが解かれ、扉がめりめりと音を立てて開く。
保冷庫内の永久凍土。人工の氷結晶体。
その中に、首から上だけのお母さんが居た。氷の中で凍結し、時間を止めたお母さん。安らかに目を閉じ、わたしと同じ目線の高さで浮遊するように静止している。
ただいま、とわたしは声をかける。
吉村さんか咲子さんのどちらかが、短く感嘆の息を漏らした。
わたしはお母さんから目を離さない。
「毎年のキャンプで、お父さんと一緒に、お母さんを食べ続けました」
初めて食べたのが右の上膊だった。人の身体で一番おいしいのがそこらしい。
次の年が右掌と左ふくらはぎ。次が乳房とお腹周り。翌年、また翌年と続けて。
「どうやら今年が、最後みたいですけど」
最後は頭部。わたしの大好きなお母さんの顔。お茶の間のお馴染み。全国民が一度は目にしたことのある、親しみ深いお母さんの顔。世界に誇る、日本の玄関だ。
今夜でお母さんは完全にこの世からいなくなる。わたしたちのもとから離れてしまう。このままずっと、お母さんを食べて命と生気をつないでいけたらいいなと思っていた。それが今年で終わるのが悲しくって、わたしは次の目標を無意識に探してしまったのかもしれない。でも、奈緒ちゃんへの愛情がまがいものだとも思えない。
すくなからず、わたしの中に鬼の食性が宿っていることは認めてもいい。だけどこの敬意と愛情だけは忘れてはいけない。野蛮な鬼になってしまわないように、人としての最低限をつなぎ止めるために。
「少しだけ、一人にさせてください」
小さく懇願すると、やがて咲子さんの腕が離れた。二人の足音を背中にしながら、胸のうちで奈緒ちゃんを抱きなおし、お母さんと向き合い続けた。
ダイニングに戻ると、吉村さんと咲子さんの姿はなかった。お父さんが車いすから立ち、キッチンに片手をついて調理道具の準備をしていた。
「あの二人はもう帰ったよ。近くのバス停まで歩いて帰ると言っていた」
一家団欒を邪魔したくないそうだ、とお父さんが告げた。それを聞いて、わたしは少し残念に思った。ちょっとくらいなら、彼らに分けてあげてもいいと思っていたからだ。
「手伝ってくれ、小夜」
お母さんと奈緒ちゃんを腕に抱えながら、お父さんに歩み寄る。歩くたびに、お母さんの顔と奈緒ちゃんの手がお腹にこすれ、溶けた氷が身体を冷やした。お父さんはそれを見下ろし、うっすらと微笑んだ。
「食事の準備をしよう」
次回、終章で最終回です。