序章
咲子は帰宅後、制服のままベッドに横になった。
うつぶせで寝そべり、携帯でゲームをしていたところ、そのまま疲れでうたた寝してしまったらしい。気づくと、枕カバーに大きな染みが出来ていた。どう見てもよだれである。
寝起きの冴えない頭を掻きながら、ティッシュペーパー数枚を広げて枕に押しつけた。とりあえず、よだれだけ乾いてくれればいい。
ここで、携帯がけたたましく鳴り響いた。着メロはシューベルトの『魔王』。吉村からの着信用に設定したメロディだったが、これはこれで心臓に悪い。咲子はため息を吐きながら通話ボタンを押した。
『咲子さん。窓の外を見てごらんよ』
吉村の興奮したような声を聞きながら、咲子は小指で耳穴をほじった。まともな受け答えすら面倒だった。
『あれ。咲子さん、聞いてる?』
このまま通話を切ってしまおうかと目論んだが、何故だか妙にいらっときてしまったので、咲子はこの不機嫌を精いっぱい声色で表現した。
「ねぇ吉村くん。何度も言うようで申し訳ないけど、咲子さんって呼ぶのいい加減止めてくれないかなぁ」
『なんで? 咲子さんは咲子さんでしょ』
「うん、そうなんだけどね。あたしがこういう名前なのがいけないってのは重々承知なの。でも、咲子さんってどうかなぁ。なんかさ、その辺にいるおばちゃんみたいじゃん」
それに対しての吉村の返事はなかった。受話器越しに首でも傾げているのだろう。
『ねぇ、それより咲子さん』
咲子はうらぶれたようなため息を吐いた。
『窓の外を見てよ』
「あぁ、窓?」
ベッドから起きあがりつつ、ベージュのカーテンを荒っぽく引く。ガラスの先には、夜空にぽっかりと浮かぶ満月があった。周囲には余計な星屑すらなく、そのせいか、黄金色に存在を主張する円形には、さすがの咲子も感嘆の声をあげざるを得なかった。
『どうだい。綺麗なお月さまだろう』
「こりゃあ、また。あたしの生涯トップテンに入っちゃうかもね」
『だろ。ビンビンだろ』
「うん、ビンビ……ビンビン?」
『この満月を見てるとさ、何かビンビンに感じてこない? 僕なんかもう、ほら、さっきからビンッビンなんだけど』
全身に鳥肌が立ってきた。
「それはなにかな吉村くん。セクハラってやつかな。このあたしがせっかくロマンチックな気分に浸っていたというのに。あーあ、萎えた。もう切るわ」
『あー待て待て! 違う、そういう意味じゃな――』
かまわず電話を切る。二秒後にまた掛け直された。
『ビンビンに感じるというのは、つまりだね』
「つまり?」
咲子は通話ボタンに指を掛けながら聞き返す。また下らない隠語だったら、もう一回速攻で切ってやるつもりだった。
『悪い予感のことだよ』
無意識のうちに指がボタンから離れる。頬の筋肉が引きつった。
「今度はどんな漫画の影響かなぁ、吉村くん」
『綺麗な満月の夜ってのは犯罪が起こりやすいんだ。咲子さん、早速見回りしてきて。もしかしたら本物に出会えるかもしれないよ』
咲子はがさつに後頭部を掻きむしった。
「まさか、こんな時間からあたしをこき使うつもり? いい加減にしてよね。明日だって早朝から朝練が、」
『文芸部の朝練ってなに? いいからさっさと行けよ』
吉村の口調が急に変わって咲子はたじろぐ。意を決して何か言い返そうとしたが、もうすでに通話は途切れていた。
外に出ると、咲子は仄暗い闇夜の満月を見上げた。あの電話から家の玄関を開けるまで、計二十一回の舌打ちをしたが、帰る頃には舌が擦り切れているのではないかと思った。
とりあえず飴玉を口に放り込む。これで舌打ちも多少は抑えられる。
それで、犯罪の予感ってなんだろう。咲子はあてもなく歩きながら真剣に考えた。吉村は確かにそう言っていたが、超能力者じゃあるまいし、彼自身にそんなものを嗅ぎ分けられるとは思えない。いい加減な憶測ばかり立てておいて、あとの運否天賦はいつも咲子に丸投げだ。なにも起きなかったら起きなかったで、なじられる対象がいつも咲子なのだからたまったものじゃない。
犯罪なんかに出会いたくない。そうは思ってみても、やっぱどっかで起きてくんなきゃ困るんだよなぁ。地味に彼女の中で願望の小競り合いが勃発していた。
飴玉を三個消費したところで、ある人だかりが目に止まった。
偶然入った細い路地の一角。十数人ほどの野次馬集団が見受けられ、彼らの間から、ちらりと黄色い規制テープが覗いていた。
「まじか」
吉村くんってのは、ほとほと見上げた予言者だ。そんであたしは体現者だ。
咲子はすぐさま吉村の携帯にコールする。
「事件起きてますよ。ばっちり」
『窃盗? 殺人?』
「わかんない。場所は二丁目の……あー、どっかその辺の狭い路地」
『ずいぶん適当だけど、まぁいいや。僕もそっちに向かうから、咲子さんは周辺歩き回ってみて』
「はいはい」
携帯を閉じ、咲子はあくびをしながら歩き始めた。
そこから百メートルほど歩いたところに森林公園がある。真白ヶ丘町、唯一無二の観光名所だ。この町の見所は全てそこに集約されていると言っても過言ではない。
県営林の中に開発されたそこは、約二百ヘクタールの敷地を有しており、およそ百二十種類ほどの野鳥が生息している。日中はほぼ十割の確率で双眼鏡やカメラを提げた野鳥マニアたちを見かけられる。
その他にも、芸術家がデザインしたという一風変わった広場があったり、お子様ようこそなアスレチック施設があったり、カップル御用達の隠れ家レストランがあったり、幅広い層の心をがっちり鷲掴みにしてしまう公園だが、一方、咲子のような対人能力に難のある一部の方々には頑として敬遠される、いろんな意味でもこの町一番の名地だった。
とはいえ、この時間ともなれば人の気配はほとんど無い。
昼と比べれば見違えるほど寂寥としたアスレチックを横切り、野鳥さえも眠りに落ちた無音のウォーキングコースを徘徊する。
「オニさんこちらー、手の鳴る方へー」
咲子が何気なく口ずさんだ歌声は、すぐに林の中に埋もれて吸い込まれる。六個目の飴のビニールを破り、カエルの鳴き喚く池へと放り投げる。丸太の柵に上半身を預け、波紋の消えゆく様を眺めた。
ポケットの携帯が震える。スカートをばしっと叩いて黙らせようとしたが、もちろん徒労に終わり、携帯が大人しくなるまでただじっと池を見つめた。
静寂が耳をついた頃、咲子は改めて歩き出す。
一面の人工芝生が生えそろった広場に出る。ふと、彼女はある場所へと目を向けた。
この公園に入って、初めて人の姿を発見したのだ。その人物はこちらに背中を見せ、広場の片隅の木製ベンチに一人で腰掛けていた。
おそるおそる、近づいてみる。体格からして、小学生か中学生。肩あたりまで伸びたセミショートの髪型。性別は女の子だろう。
咲子はそばにあった自販機に五百円を突っ込んだ。オレンジジュースのボタンを二回押す。何故か、無糖のコーヒーが二本出てきた。
自販機に対して抗議したい気持ちを抑え、我慢してコーヒー缶二つを引っ掴み、徐々に女の子の背中へと歩み寄っていく。
彼女はまだ咲子の存在に気づいていない。こじんまりと木製ベンチの上に座り込んでいる。咲子は視線を落とした。
女の子のちょうど真下、ベンチと地面の間に、エナメル製のスポーツバッグが置かれていた。丸みがなく、やけに立方体に角張ったバッグ。
いや、と心の中で首を振る。ただのスポーツバッグではないのだろう。
女の子の二メートルほど背後で、わざと足音を立てて立ち止まる。女の子がはっとして振り返った。その目は怯えに見開かれていた。
どうすべきかと迷ったが、ともかく、咲子は慣れない愛想笑いを浮かべてみた。
「あー、こんばんは。えっと、小学生かな」
女の子は首を振った。小さな顔とは対称的に大きく開かれた瞳。瞳孔がふるふると小刻みに揺れた。ちゅ、と女の子は短く言って、唇を動かす。
「ちゅ、中三です」
「どうしたの、こんな時間に。迷子?」
女子中学生はためらうように視線を逸らし、ゆっくりとうなずいた。