私の作った冷暖房器具で今後も過ごせると本気で思っているのですか?
辺境のシュライヒ子爵令嬢、ヴェロニカ・シュライヒは婚約者である第三王子レナートから、公衆の面前で婚約破棄を言い渡された。理由は愛する平民の神官見習い、リセッタ嬢のためだという。くっだらない。
「ヴェロニカ。貴女の家が提供する莫大な資金は王家の財政を支えてくれた。だが、愛のない関係は魂を腐らせる。私はね、真実の愛を生きることを選ぶ」
レナートの言葉はどこかの安物の演劇の台本から引き写されたかのように、完璧に滑らかで周囲の貴族たちは過去同じようなことをしでかした女の時に懲りたはずなのに、またしても真実の愛の物語に目を輝かせている。
まったく、彼らの学習能力は辺境の馬小屋の藁よりも劣るらしい。人のウチの金で育っておいて、恩を仇で返すのが王家のやり方なのだそうだ。呆れる。
冷たい大理石の床の上で膝をついたまま微動だにしなかった。胸には特に屈辱や怒りといった明確な感情は湧かない。代わりに感じたのは胃の奥が冷たく締め付けられる、ひどい空腹感と指先の異常な発熱。高熱を出したときの体の不調に似ている。
(終わった?)
公衆の面前での破棄は世間的には彼女の敗北を意味する。しかし、ヴェロニカの内面では安堵が支配的だ。
レナートとの結婚は唯一の望み。すなわち王都の図書館への、自由な立ち入りと最新の錬金術の文献の入手という目的のための手段でしかなかったから。愛なんてそもそも、どこにもない。つまり、最初から存在してなかった。
「はあ、殿下は大変情熱的でいらっしゃる」
ようやく絞り出した声は、予想以上にしわがれて情けなく響いた。リセッタ嬢が申し訳なさそうに、満面の輝かしい優越感を隠しきれずにヴェロニカを見つめている。髪は月明かりを吸い込んだかのように銀色に光っていた。
「ヴェロニカ様……わたくしあなたを傷つけたくはなかったのですけれど、神様が私たちを結びつけたのでしょう」
リセッタの台詞は心の底から自分たちの愛を信じていることを示していた。そして、ヴェロニカにとって純粋な信仰心こそが、何よりもタチの悪い毒のように感じる。
立ち上がった動作は感情を完全に排除した精密な機械の動きのよう。酷く皮肉めいた笑みを向けた。そこまで言うのなら見せてもらおう。
「敗北を認めます。真実の愛の前に利便性だけの存在は不要だったのでしょう」
言いながらも頭の中で計算していた。
(これでシュライヒ子爵家は賠償金として、王家から最新型の魔力炉の特許料と王立図書館の五年間の特別利用権を要求できる。ふむふむ、破棄されたことの価値は予想以上に高い)
求めていたものは愛でも地位でもなかった。知識だけ。結婚を通じて、王家の巨大な予算を使って誰にも邪魔されずに錬金術の研究を続けたかった。
という動機は崇高な知的好奇心などではなく、他人には知られたくないような自己満足。誰よりも先に新発見を成し遂げたいという、小さな汚い嫉妬心。
殿下の顔を見た途端、無意識にポケットの中で握りしめていた真鍮製のコンパスを強く握りしめた。焦燥を示す身体的な癖。
「一体……何を考えている」
ヴェロニカのあまりにも冷静な態度に、自分の演説が台無しにされたと感じ、戸惑っている顔をまじまじと見つめた。顔は照明のせいで疲労と油分に覆われており、遠目から見た高貴な王子のイメージとは程遠い。汚い。
「考えていること、ですか?」
ヴェロニカは一呼吸置いた。喉が渇く。
「……ええと、この後、リセッタ嬢と二人きりでどこかに行くのか、ということ。その際、発明した空調魔道具を使うのかどうか?私の作ったもので暮らすのかなと思ってますね」
質問はあまりにも現実的で下世話だったため、レナート殿下は思わず鼻を鳴らして言葉に詰まった。
「な、何を……そんなことは今、関係ないだろう!」
「まあ、そうですよね……関係ないですが、この場所での婚約破棄だって、皆には本来無関係でしたし。棚に上げるのがお上手ですよね」
ヴェロニカはゆっくりと踵を返した。婚約破棄の場に似つかわしくない、ひどく滑稽な不完全な会話だけが後に残された。去る際、背後からリセッタの甲高い安堵のため息と王子の落ち着かない咳払いが聞こえる。
(王家は真実の愛とやらで、五年分の研究費を失って私は自由と特許料を手に入れた)
結論づけたヴェロニカの心は、勝利の喜びに満たされることなくひどく冷たく、満足感に支配されていた。婚約破棄は高額な取引の成立に過ぎなかったのだ。
ヴェロニカは夜会の喧騒から離れ、馬車で子爵家が王都に持つ屋敷へ戻る。馬車の中は設計された効率的な空調魔道具のおかげ。外の湿気から完全に遮断されていた。
皮肉なことに快適さは、婚約破棄を言い渡したレナート殿下も現在進行形で利用している発明品によるもの。
空調なしに、リセッタ嬢との真実の愛を貫くなど想像すらできない。熱苦しすぎて一週間で飽きるはず。唇は弧を描いていたが内心はまったく穏やかではなかった。
成功した取引の達成感と、社会的な地位の喪失という相反する感覚が精神を揺さぶる。
窓の外に流れる街灯の光を見つめながら、無意識に右手の甲を左手の親指でゆっくりと掻きむしる。強いストレスを感じているときの隠された動作。
屋敷に戻ると事態を知った父、シュライヒ子爵が慌てて駆け寄ってきた。
「ヴェロニカ!無事か!公衆の面前で破棄を……!我々の顔に泥を塗ったのだ!」
父の顔は激しい怒りと動揺で赤く腫れ上がっていたが、ヴェロニカは冷静に紅茶を一口飲んだ。紅茶は渋みが強く、彼女の渇いた喉を潤すどころかますます渇きを煽った。
「落ち着いてお父様。泥どころか金塊と知識を掴んだのです。すぐに王家へ賠償請求書を送ってください。内容は提示したものと寸分違わず」
ヴェロニカは婚約破棄の慰謝料として、すでに準備していた周到な要求リストを父に手渡した。
リストの冒頭にはレナート殿下が公の場で言った「貴女の家が提供する莫大な資金」という言葉を逆手に取った、法外な特許利用料の遡及請求が記載されている。
重要かつ些細な要求として王立図書館最深部の、一般非公開錬金術文献の閲覧権、期限なしという一文が添えられていた。父は娘の計画に驚愕し、要求リストを何度も見返す。
「ま、まさか……最初からこれを狙っていたのか?」
「狙っていたというよりは予期していたという方が正確です。殿下の趣味と性向は、図書館の蔵書の配置図よりも単純ですから。いずれ真実の愛という名の新しい玩具に乗り換えることは、計算のうちでした」
冷笑した。動機はレナートへの愛や復讐ではなく駆り立てたのは、レナートという傲慢な存在が自分の研究を阻む障壁であることへの苛立ちと、障壁を効率的かつ合法的に打ち崩すという知的ゲームへの渇望。
数日後、王家からの回答が届いた。驚くほど迅速に。レナート殿下は自身の愛の誓いを汚したくないという自己陶酔的な理由から、賠償金の支払いに異議を唱えなかったらしい。
王家もヴェロニカの持つ発明品の供給停止という現実的な脅威を恐れたため、要求をほぼ全面的に受け入れた。
王家からの特許権譲渡契約書と図書館の特別通行証を、古びた紙切れのように扱いながら内容を確認した。
「よし。これで王都に留まる理由が完全に消滅したわ」
直ちに故郷の辺境領地へ戻る準備を始めた。王都を去る前夜。ヴェロニカは一人、王都で高い塔の屋上まで登り王都の灯りを、何の感情も込めずに見下ろす。
携帯用小型魔道具に王都の貴族街から送られた匿名の手紙が届く。
「ヴィンセント家の令嬢よ。貴女が本当に求めていたものは何だったの?殿下への復讐?それとも栄光?」
ヴェロニカは稚拙で定型的な物語の問いかけに、鼻で笑った。
(復讐?栄光?曖昧で情緒的なものに魔力資源を割くほどの価値があるというの?)
返信に静寂という一言を打ち込んだ。本当に求めたものは王立図書館の埃っぽい書庫の中で、誰にも邪魔されずに世界が未だ知らぬ理論を発見してノートに書き記す、極めて個人的時間。
婚約破棄という名の騒がしいイベントを経験し、対価として研究環境と二度と王族と関わらなくて済む自由を獲得した。
空を見上げ深く呼吸をした。辺境の空気よりも幾分か濁った空気が肺を一杯にする。
「 魔力炉の効率化と古代語の解読。忙しくなる」
婚約破棄の敗北者としてのレッテルを錬金術師への通行証として受け入れたのだ。瞳には過去への未練も未来への期待も映っておらず、純粋な知性の炎だけが揺らめいている。
辺境のシュライヒ領地に戻ったヴェロニカは、自室の地下に増設させた新たな研究室に籠もった。
王都での騒動が嘘のように領地の生活は静寂。外から聞こえるのは魔導式の風車の回る音と、時折響く野鳥の鳴き声。
周囲は婚約破棄を機に獲得した莫大な書籍と資料で埋め尽くされていた。王立図書館から持ち帰った古代語の写本や非公開の錬金術文献は、好奇心を無限に刺激してくれる。
レナート?リセッタ?そんなものは古代の文字を解読する際の些細な雑音にすぎない。
集中しているとき無意識に髪の毛をきつく結び直し、耳の後ろを掻くという癖がある。このときも、指は頻繁に髪に触れていた。頭脳が世界が未だ到達していない領域で猛烈に稼働している証拠だ。
古い写本に書かれた賢者石にまつわる記述を、魔力工学の視点から分析していた。
記述は過去の錬金術師たちが感情や精神論に傾倒しすぎていたため、常に曖昧で詩的。
「愛と憎しみの交差点で物質は変容する?馬鹿げてる。物質の変容は原子核の不安定性と魔力エネルギーの精密な制御に尽きる」
ヴェロニカは吐き捨てながらも、古代語の記述の中に魔力炉の効率を飛躍的に向上させるヒントが隠されているかもしれないなと思った。
研究生活が数ヶ月続いたある日、ヴェロニカの元へ一人の訪問者が来た。レナート殿下の側近を務め、王子の横暴な言動に嫌気がさして官僚の地位を捨てたヴァレンティンという名の男。
「お久しぶりですヴェロニカ様。辺境での生活は研究の妨げになっていませんか」
ヴァレンティンの言葉は丁寧だが、瞳にはヴェロニカが王都で見たどの貴族よりも深い疲労の色が浮かんでいた。研究室の片隅にある古い木製の椅子に座らせた。
自身は試薬が散乱した作業台にもたれかかる。
「研究の妨げ?まさか。王都の社交界の無意味な雑音から解放され、効率は上がりました。元側近殿。貴方のような優秀な官僚が私に何の御用です?」
ヴァレンティンは一口咳払いをして、言い淀んだ。
「その……殿下はあの後、リセッタ嬢と……幸せにはなっていません。ええと、その、何と言いますか……はい」
王子とリセッタ嬢が贅沢な生活の突然の喪失と、互いの理想化されたイメージが崩壊したことで常に口論を繰り返しているという、なんとも陳腐な結末を話し始めた。
話を聞きながらなんの感情も抱かなかった。勝利の快感も復讐が成就した喜びもない。予想通り、だから何?というひどくドライな感想だけが胸中に広がる。
ヴァレンティンが最後に口にした一言が、殻をわずかに揺らした。
「殿下は最後にヴェロニカは……結局、一度も私を見てくれなかったと、ひどく幼稚な言葉ですが仰いました」
指先が実験器具に触れたままピタリと止まった。見てくれなかった?
自分の中にかすかな怒りが湧き上がるのを感じた。怒りは婚約破棄されたことへの怒りではない。自分の目的を見抜かれなかったことへの苛立ちでもない。
自分があれほど周到に計画し、処理した取引をレナートが愛憎劇という感情的な枠組みで安易に結論づけたことへの、純粋な侮辱に対する反応。
「見てくれなかった、ですか……」
呟き、ヴァレンティンから視線を外し、作業台の上に置いてあった銀色の試薬瓶を力任せに手のひらで転がした。
「王都の図書館に持っていた非公開の文献を見ていました。財政力と権力を見ていました。なので、彼の傲慢さが私に最大の利益をもたらすだろうという予測を見ていました。そして、私を切り捨てたんです」
再びヴァレンティンに視線を戻した目は怒りではなく、知性という名の冷たい炎が揺らめく。
「私を見てくれなかった、などと自分の無能さを感情の欠落のせいにしないでいただきたい。最後まで自分の都合の良い物語の登場人物として認識したかっただけでしょう。非常に自分勝手な人だと改めて思うだけですよ」
ヴェロニカは真実の愛の物語を演じたがったレナートと、復讐の女王の物語を期待する周囲の定型的な思考を心底軽蔑していた。
感情は人間の普通とされる愛情や悲しみからは、常に大きく逸脱し、心を満たすことができるのは誰も解き明かせなかった方程式を解く瞬間だけなのだ。
「私に話すことはそれだけですか?感情的なゴシップは研究時間の魔力効率を著しく低下させます」
「あ、はい」
ヴァレンティンは人間離れした合理的思考に清々しさを感じた。静かに立ち上がり、頭を下げた。
「えっと……いえ、もう、用は済みました。領地で子爵家の顧問として、微力ながらお役に立ちたい。非合理な感情よりも技術に仕えたいのです」
「結構です。書類はそこの棚に置いて二度と研究を中断しないでください」
ヴェロニカは言いながら、再び古代語の写本に目を戻した。ヴァレンティンが退出する足音のリズムが脳内で古代語の解読リズムに変換され、思考は再び知識の迷宮へと深く潜り込んでいった。
手に入れた静寂は何物にも代えがたい勝利の果実だと未来に周りを驚かせることになるなんて、わかりきっているから。
その後、その人が意外にも食い下がって助手として共にいる時間が普通になるなどこの時は予想だにもしてなかったけれど。
これは王子妃になった神官の女たちのその後になるが。結果的に彼女は出て行った。なぜなら王子を産むときに予算の削減のために故障中の張り紙を貼られた部屋で、汗を吹きながら出産したあまりの辛さに愛が消滅したらしい。
その間、夫になった男は冷たい水を飲んで、一人だけ暑い部屋から避難していたと知られればそうなるに決まっていた。
最後まで読んでくださり感謝です⭐︎の評価をしていただければ幸いです。私は俄然クーラーを取ります。愛する人がいても快適に過ごせないんじゃ余裕ありませんし




