深夜のコインランドリーで出会った彼女は、俺の推し絵師だった。
終電間際の電車に揺られ、最寄り駅の改札を抜けた時には、日付はとうに変わっていた。
春の終わりとはいえ、深夜の風はまだ少し肌寒い。俺、遠野健人は、くたびれたスーツのネクタイを乱暴に緩めながら、人気のない住宅街の夜道を一人歩いていた。
勤め先のIT企業は、いわゆるブラック一歩手前のグレーな環境だ。
納期が迫れば連日の終電帰りは当たり前。今日も理不尽なクライアントの仕様変更に振り回され、心身ともに限界に近い状態まで削り取られていた。
「……はぁ。帰って寝るだけか」
一人暮らしのアパートのドアを開け、革靴を脱ぎ捨てる。
泥のように眠りたい衝動に駆られながら、せめてシャワーだけでも浴びようと洗面所へ向かったところで、俺は絶望的な事実に気がついた。
「……嘘だろ。着替えがない」
ここ数日の激務にかまけて、洗濯を完全にサボっていたのだ。
脱衣所のカゴには、着古したワイシャツや下着が山のように積まれている。明日の朝、着ていく服がないというのは社会人として致命的だ。
時刻は深夜一時を回ろうとしている。この時間からアパートの備え付けの古い洗濯機を回せば、間違いなく壁の薄い隣の部屋から苦情が来るだろう。
「……仕方ない、行くか」
俺は重いため息をつき、大きなランドリーバッグに洗濯物を詰め込んだ。
スーツから適当なスウェットとパーカーに着替え、財布とスマホだけをポケットに突っ込んで再び外に出る。向かう先は、アパートから歩いて五分ほどの場所にある、二十四時間営業のコインランドリーだ。
深夜の住宅街は、不気味なほど静まり返っている。
時折通り過ぎるタクシーの走行音だけが遠くで響く中、煌々と白い蛍光灯の光を放つその店舗は、まるで暗闇に浮かぶオアシスか何かのようだった。
自動ドアをくぐると、洗剤と柔軟剤の甘い香りが入り混じった、独特の温かい空気がふわりと体を包み込む。
ズゴォォォという大型乾燥機の低い稼働音が、無機質でありながらもどこか心地よかった。
「ふぅ……」
俺は空いている洗濯乾燥機に衣類を放り込み、硬貨を投入した。
ピーッという電子音が鳴り、ドラムが勢いよく回り始める。表示された残り時間は『60分』。
自宅に戻ってまた来るのも面倒なので、俺は入り口近くのプラスチック製のベンチに腰を下ろし、自販機で買った微糖の缶コーヒーのプルタブを開けた。
ふと店内を見渡すと、一番奥の乾燥機の前に、先客が一人いることに気がついた。
黒いオーバーサイズのパーカーをすっぽりと被り、膝を立てて座っている小柄な女性だ。
顔はフードの影になっていてよく見えないが、彼女の膝の上にはタブレット端末が置かれており、そこから漏れる青白い光が彼女の手元を照らしている。スタイラスペンを握る手が、画面の上で細かく動いていた。
(こんな深夜に、女の人が一人で作業か。……まあ、俺も似たようなもんか)
ジロジロ見るのも失礼だと思い、俺は視線を自分のスマホへと落とした。
SNSのアプリを開き、タイムラインをスクロールする。
俺のアカウントは、仕事の愚痴を吐き出すためのものではない。ひたすら自分の好きなイラストレーターやクリエイターをフォローし、彼らの生み出す作品を見て現実逃避をするための、いわゆる「見る専」の趣味アカウントだ。
中でも、俺が一番熱心に追っている――いや、熱烈に『推して』いるイラストレーターがいる。
アカウント名は『シロ』。
透明感のある淡いブルーを基調とした色彩、どこか物憂げで儚い表情をしたキャラクター。そして、背景に描き込まれる緻密で美しい日常の風景。
彼女(おそらく女性だろうとファンの間では言われている)の描くイラストを見るだけで、すり減った心が浄化され、明日も生きていこうと思えるほどの力をもらっていた。
だが、俺はタイムラインを遡りながら、小さくため息をついた。
シロ先生の最新のポストは、一ヶ月前のものだった。
「少しだけお休みします。ごめんなさい」
その短い呟きを最後に、彼女のアカウントは完全に沈黙している。いつもは週に一度のペースで息を呑むような美しいイラストをアップしてくれていたのに、こんなに長く音沙汰がないのは初めてのことだった。
「……シロ先生、元気にしてるかな。体調崩してなきゃいいけど」
缶コーヒーを一口飲み、無意識のうちにそんな独り言が口からこぼれていた。
乾燥機の稼働音にかき消されるだろうと思っていたその呟きは、思いのほか静かだった深夜の店内に、はっきりと響いてしまったらしい。
「えっ……」
奥のベンチに座っていた女性が、ビクッと肩を震わせ、こちらを振り返った。
勢いよく振り返ったせいで被っていたフードがふわりと外れ、肩まで切り揃えられた艶やかな黒髪が揺れる。
少し隈の目立つ、しかし驚くほど整った顔立ちをした彼女の目が、俺の顔と、そして俺の手元にあるスマホの画面を凝視していた。
「あ、すみません。うるさかったですか?」
俺が慌ててスマホを隠して謝ると、彼女は首を横に振り、信じられないものを見るような、すがるような目を向けてきた。
「あの……今、シロ先生って……」
「えっ?」
「あなたのスマホの画面に映ってたの……シロの、イラストのアカウント、ですよね……?」
彼女の声は、掠れていて、微かに震えていた。
なぜ他人のスマホの画面をそこまで気にするのだろうと疑問に思いながらも、俺は素直に頷いた。
「はい。俺がずっと推してるイラストレーターさんなんです。最近ずっと更新が止まってて、少し心配になって過去の絵を見返してただけで……」
俺の言葉を聞いた瞬間、彼女はタブレットを抱きしめるようにしてギュッと胸に押し当て、深く俯いた。
長い前髪の隙間から、彼女の唇がワナワナと震えているのが見える。
そして、かすれるような、消え入りそうな声で呟いたのだ。
「……それ、私です」
「はい?」
「その『シロ』って……私のアカウント、です」
ゴォォォォ、という乾燥機の音だけが、コインランドリーの中に響いていた。
俺の手に持っていた微糖の缶コーヒーが、危うく床に滑り落ちそうになる。
「…………はい!?」
俺の二十六年の人生において、間違いなくトップクラスに食い込む衝撃だった。
目の前にいる、深夜のコインランドリーでパーカー姿でうずくまっている小柄な女性が、あの、数十万人のフォロワーを抱え、数々の企業案件もこなしている神絵師『シロ』本人だと言うのだ。
「う、嘘ですよね……? だって、あんな繊細で神がかったイラストを描く人が、こんな深夜のコインランドリーに……」
「嘘じゃないです……ほら」
彼女は抱きしめていたタブレットの画面を、そっとこちらに向けた。
そこに表示されていたのは、まさに今、俺がスマホで見つめていたシロの過去作のイラストデータだった。しかも、レイヤーが何十枚も細かく分けられた、間違いなく本人の作業画面のスクリーンショット。
さらに、SNSのアプリを開くと、そこには『シロ』のアカウントのプロフィール編集画面がしっかりと表示されていた。
「……マジ、ですか」
「マジ、です。……こんな時間に、スウェット姿でタブレットと睨めっこしてるボロボロの女が、推し絵師で……なんだか、幻滅させちゃいましたよね。ごめんなさい」
彼女――シロ先生は、自嘲気味に力なく笑いながら、再びフードを深く被り直した。
「いや、そんな! 謝る必要なんて全くないです! 幻滅なんてするわけないじゃないですか! むしろ、奇跡っていうか……まさかこんな偶然があるなんて、俺、今日死ぬんじゃないか……?」
「ふふっ、大げさですよ」
俺が動揺のあまり立ち上がり、身振り手振りを交えて興奮気味に捲し立てると、彼女は初めて、少しだけ柔らかい笑みを浮かべた。
その微笑みが、俺の愛してやまないイラストに描かれているキャラクターのアンニュイな表情と完全に重なり、不覚にも心臓がドクンと大きく跳ねた。
「あの……さっき、心配してくれてるって、言ってくれましたよね」
「ええ、もちろん! ファンはみんな心配してますよ。一ヶ月も更新がないなんて初めてですし……スランプとか、体調不良とか、大丈夫なんですか?」
俺が一歩近づいて問いかけると、彼女の表情が再び暗く沈んだ。
「……全然、大丈夫じゃないです。もう一ヶ月近く、真っ白なキャンバスを前にしても、何も描けなくて。企業の締切は迫ってるのに、自分が何を描きたいのか、どう描けばいいのか、完全に分からなくなっちゃって……」
彼女はタブレットの電源を落とし、暗くなった画面を見つめながらポツリポツリと語り始めた。
「気分転換になればと思って、洗濯機を回しに来たんですけど……やっぱり、ダメですね。描けない時の自分って、本当に生きてる価値がないただのゴミみたいに思えちゃって。筆を折った方がいいのかなって、ずっと……」
その声には、クリエイター特有の、身を削るような深い苦悩と圧倒的な孤独が滲んでいた。
俺はただの一介のサラリーマンだ。毎日エクセルと睨み合い、上司に怒鳴られ、終電で帰るだけの男。彼女のように、自分の内面を削ってゼロからイチを生み出す人間の苦しみなんて、本当の意味で理解することはできないだろう。
だが、それでも。
俺は彼女の絵に、何度も、何度も救われてきたのだ。
だから、ファンとして、これだけは絶対に伝えなければならないと思った。
「……価値がないなんて、絶対に言わないでください」
俺は気がつくと、彼女の座るベンチのすぐ目の前まで歩み寄っていた。
真剣な声色に驚いたのか、彼女がビクッと肩を震わせて顔を上げる。
「俺は、シロ先生の絵が大好きです。先生が描く、あの青みがかった透明な空の色も、キャラクターの少し寂しそうな、でも前を向いている目も、緻密な背景も……全部、俺の宝物です」
初対面の、しかも推しの本人に対して、俺はとんでもなく熱苦しい言葉をぶつけていた。自分でも痛いオタク全開だとは分かっているが、言葉は止まらなかった。
「仕事で理不尽に怒られて、もう全部辞めてしまおうかと思った夜も、先生がアップしてくれたイラストを見て、明日も頑張ろうって思えたんです。先生の絵がなかったら、俺はとっくに心が折れてました」
彼女は、フードの下で丸く見開いた目を瞬かせ、俺の言葉をじっと聞いている。
「描けないなら、今は描かなくていいんです。今は休む時期なんだと思います。先生がどれだけ休んでも、たとえ何年描かなくても、俺は一生ファンです。先生の絵に救われた人間がここにいることだけは、忘れないでください。だから……自分を追い詰めないでください」
言い終えると同時に、自分の顔から火が出るほど熱くなるのを感じた。
(やばい、絶対に引かれた。キモいって思われた……!)
俺が後悔に苛まれながら視線を逸らそうとした、その時だった。
「……っ、うぅ……っ」
彼女の瞳から、ポロリと、大粒の涙がこぼれ落ちたのだ。
「えっ……あ、すみません! 俺、なんかキモいこと言いましたよね!? 熱苦しいオタクの押し付けで、負担かけちゃって……!」
「……ちがっ、違うんです」
彼女は慌てて両手で目元を擦りながら、何度も首を横に振った。
「嬉しかったんです……。ネットの数字とか、『いいね』の数じゃなくて……目の前にいる人が、私の絵に救われたって、そんなに熱い声で言ってくれたのが……すごく、すごく嬉しくて……っ」
彼女は涙を拭いながら、俺を見上げて笑った。
泣き笑いの、少し不格好で、でも信じられないほど愛おしい笑顔。
ピーーーッ。
その時、俺の回していた洗濯乾燥機が、終了の合図を鳴らした。
「あ、終わったみたいですね。……私のも、もう終わってるし」
彼女は立ち上がり、乾燥機からフワフワになった洗濯物を取り出し始めた。
俺も慌てて自分の洗濯物をカゴに移し、ランドリーバッグへと詰め込む。
「あの……」
帰り支度を終えた彼女が、コインランドリーの出口で立ち止まり、俺の方を振り返ってモジモジと口ごもった。
「私、すぐそこのマンションに住んでるんです。もし……もしよかったら、また、このコインランドリーで……お話、してくれませんか? 今度は、私の方から、あなたの話をたくさん聞きたいです」
それは、ただのファンとクリエイターという関係性を超えた、一人の女性からの、小さくて勇気のある誘いだった。
俺は心臓が大きく跳ねるのを感じながら、深く頷いた。
「はい。俺もすぐ近所なんで。……俺でよかったら、いつでも話、聞きますよ」
「……ありがとうございます。えっと……」
「健人です。遠野健人」
「健人さん。私は、白石結衣って言います。……おやすみなさい、健人さん」
結衣さんは小さくお辞儀をして、深夜の街へと消えていった。
俺は手元に残ったすっかりぬるくなった缶コーヒーを一気に飲み干し、まだ温かい洗濯物の入ったバッグを抱えながら、一人静かにガッツポーズをした。
モノクロだった毎日の終電帰り。
味気ない一人暮らし。
そんな俺の退屈な日常に、深夜のコインランドリーで出会った『推し絵師』の存在が、鮮やかな色を塗り始めた瞬間だった。
*****
あの日から、俺たちの『深夜のコインランドリーでの逢瀬』が始まった。
ブラック企業での過酷な労働環境が劇的に改善したわけではない。相変わらず上司からの無茶振りは飛んでくるし、終電を逃してタクシー帰りを余儀なくされる日もある。
だが、俺の心境は以前とはまるで違っていた。
どんなに理不尽な目に遭っても、どんなに身体が疲れ切っていても、「今日もしんどかったですね」と笑い合える相手がいる。しかもそれが、自分がずっと憧れ、敬愛してきた推し絵師本人なのだ。これ以上のモチベーションがあるだろうか。
金曜日の深夜二時。
俺はコンビニで買ってきた温かいミルクティーとブラックコーヒーの缶を提げ、いつものコインランドリーの自動ドアをくぐった。
ピーッ、という乾燥機の音が鳴り響く店内。一番奥のベンチには、今日も黒いパーカーのフードを被った小柄な影がちょこんと座っていた。
「結衣さん、お疲れ様です。今日も冷えますね」
「あ、健人さん。お仕事、お疲れ様です」
俺が声をかけると、結衣さんはパッと顔を上げ、花が咲くような笑みを浮かべた。
俺は彼女の隣に腰を下ろし、温かいミルクティーの缶を差し出す。
「わぁ、ありがとうございます。健人さんが買ってきてくれるミルクティー、いつも絶妙なタイミングで沁みるんですよね……」
「俺は自分がコーヒー飲みたいついでに買ってるだけですから。気にしないでください」
彼女は両手で大切そうに缶を包み込み、ホッと息をついた。
俺たちは、お互いの素性を少しずつ話し合うようになっていた。
俺がしがないIT企業の子会社でシステムエンジニアとして酷使されていること。結衣さんが、美大を卒業してからフリーランスのイラストレーターとして活動し、数年前にSNSでバズってから一気に多忙になったこと。
「でも、結衣さんって本当にすごいですよね。俺なんて、言われた仕様書通りにコードを書くことしかできない歯車ですけど、結衣さんはゼロからあんなに綺麗な世界を作れるんだから」
「そんなことないですよ……。私なんて、ずっと部屋に引きこもって絵を描いてるだけで、社会人としての常識も全然ないですし。健人さんみたいに、毎日満員電車に乗って、誰かのためにシステムを作って働いてる人の方が、ずっと立派でかっこいいです」
彼女は上目遣いで俺を見つめ、照れくさそうに笑った。
「それに……私の描く絵なんて、本当に才能がある人たちに比べたら、全然ちっぽけで」
その言葉の端に、再びスランプの影がチラついて見えた。
出会ったあの日、俺の言葉に涙を流してくれた結衣さんだったが、長年積み重なったプレッシャーや、クリエイターとしての深いスランプが、たった一度のファンの励ましで完全に解消されるほど甘いものではないことは、俺にも分かっていた。
彼女の膝の上には、いつもiPadが置かれている。
俺と話している間も、彼女は時折スタイラスペンを握り、真っ白なキャンバスに線を引いては、すぐに「戻る」ボタンを押して消してしまうという動作を繰り返していた。
「……やっぱり、まだ描けませんか」
俺が静かに尋ねると、結衣さんはミルクティーの缶をギュッと握りしめ、力なく頷いた。
「はい……。今受けてる企業案件、新しいゲームのキービジュアルなんです。すごく大きな仕事で、絶対に失敗できないのに。ラフの段階から、何度クライアントに提出しても『何かが足りない』ってリテイクになっちゃって。もう、自分が何を表現したいのか、ゲシュタルト崩壊みたいになってるんです」
彼女の瞳に、深い疲労と焦燥感が浮かんでいる。
「納期は……いつなんですか?」
「……来週の月曜の朝イチです。もう、今週末でなんとか形にしないと、本当に取り返しがつかなくて」
今は金曜の深夜。つまり、土日の二日間しか残されていない。
神絵師と呼ばれる彼女でさえ、そこまで追い詰められることがあるのだ。俺のような素人には想像もつかないプレッシャーとの戦い。
「俺に……何か手伝えることはないですか?」
俺はたまらず、口を開いていた。
「絵のことは素人だから何も分からないし、アドバイスなんておこがましいことはできません。でも、買い出しでも、掃除でも、話し相手でも……結衣さんが少しでも絵に集中できる環境を作るためなら、俺、なんでもやりますから」
俺のまっすぐな提案に、結衣さんは驚いたように目を丸くした。
そして、フッと、どこか泣きそうな、それでいて嬉しそうな微笑みを浮かべた。
「……健人さんって、本当にお人好しですね。自分の仕事だけでも毎日終電でボロボロなのに、こんなネットで知り合っただけのイラストレーターの心配までしてくれて」
「ネットで知り合っただけじゃありません。俺は、結衣さんの絵に救われた人間です。今度は俺が、結衣さんを救いたいんです」
照れも恥じらいも捨てて、俺は本音をぶつけた。
すると結衣さんは、しばらく下を向いて黙り込んでいたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。
「……健人さん。明日の土曜日、お仕事はお休みですよね?」
「はい、なんとか休日は確保してます」
「じゃあ……もし本当によかったら。明日、私の部屋に……来てくれませんか?」
「えっ」
予想外の言葉に、俺は変な声を出してしまった。
「あ、あの! 変な意味じゃなくて! その、一人で部屋にいると、どうしても逃げ出したくなっちゃうというか、SNSとか見ちゃって集中できなくて……。だから、健人さんが同じ空間で『監視』しててくれたら、もしかしたら、描けるかもしれないなって……!」
結衣さんは顔を真っ赤にして、慌てて両手を振って弁解する。
「あ、でも、やっぱり休みの日にそんなこと付き合わせるなんて迷惑ですよね! 忘れてください!」
「行きます」
「えっ」
「行きます。俺で役に立つなら、徹夜でも何でも付き合いますよ」
俺が即答すると、結衣さんはポカンと口を開け、それから、今までで一番安心したような、ふにゃりとした笑顔を見せた。
「……ふふっ。ありがとうございます、健人さん。すっごく心強いです」
*****
翌日の土曜日、午後一時。
俺は緊張でバクバクと高鳴る心臓を落ち着かせながら、結衣さんに教えられたマンションの一室のインターホンを押した。
コインランドリーから歩いてすぐの、セキュリティのしっかりした綺麗なデザイナーズマンションだ。
「はーい」
ガチャリとドアが開き、エプロン姿の結衣さんが顔を出した。
「いらっしゃいませ、健人さん。わざわざ休みの日にすみません」
「いえ、お邪魔します。これ、差し入れです」
俺は途中のケーキ屋で買ってきたシュークリームの箱と、コンビニで大量に買い込んだエナジードリンクの入った袋を手渡した。
「わぁ、ありがとうございます! さぁ、上がってください」
招き入れられた結衣さんの部屋は、予想に反してとても綺麗に片付いていた。
広めの1LDK。リビングの中央には、巨大な液晶モニターと、プロのイラストレーターが使うような大型の液晶ペンタブレット(液タブ)が鎮座する、要塞のようなL字型のデスクがあった。壁にはたくさんの画集や資料が整然と並べられている。
「すごいですね……これが、シロ先生の神絵が生み出される聖域……」
「聖域だなんて、恥ずかしいです。ただの作業部屋ですよ。適当にソファに座ってくつろいでくださいね」
結衣さんはそう言ってキッチンへ向かい、コーヒーを淹れてくれた。
パーカー姿ではない、ラフな部屋着にエプロンという家庭的な姿の推し絵師が、自分のためにコーヒーを淹れてくれている。その事実だけで、俺のオタクとしての致死量を超えそうだった。
「さて……じゃあ、やりますか」
コーヒーを一口飲んだ結衣さんは、気合を入れるように両手で頬をパンッと叩き、デスクの前のワークチェアに座った。
俺は邪魔にならないよう、少し離れたソファに腰を下ろし、持参したノートPCを開いて自分の仕事の残務処理や調べ物をするふりをした。
カチッ、カチッ、というマウスのクリック音と、液タブの上をペンが滑るシュッ、シュッという摩擦音だけが、静かな部屋に響き始める。
結衣さんの横顔は、深夜のコインランドリーで見せる自信のなさそうな少女の顔から、完全に『プロのクリエイター』の顔へと切り替わっていた。
(かっこいいな……)
画面に向かう彼女の真剣な眼差しに、俺は思わず見惚れてしまう。
だが、作業開始から二時間が経過した頃だった。
「……っ、違う。これも、違う……っ」
結衣さんの手がピタリと止まり、ギリッと唇を噛む音が聞こえた。
画面には、ファンタジーRPGのキービジュアルと思しき、美しい街並みと数人のキャラクターのラフ画が描かれている。俺の素人目から見れば、すでに完成品と言われても信じてしまうほどのクオリティだ。
しかし結衣さんは、何度もため息をつき、描いては消し、描いては消しを繰り返し始めた。
「クライアントからの要望は『希望に向かって進む冒険の始まり』……。でも、私が描くと、どうしても暗くなっちゃう。キャラクターの表情が死んでる……。こんなの、誰もワクワクしない……っ」
彼女は両手で顔を覆い、デスクに突っ伏してしまった。
再び、スランプの底なし沼に足を踏み入れようとしている。
俺はそっとノートPCを閉じ、ソファから立ち上がって彼女のデスクのそばへと歩み寄った。
「結衣さん」
「……ごめんなさい、健人さん。私、やっぱりダメみたいです。描けば描くほど、自分の絵が気持ち悪く見えてきて……」
震える声でそう言う結衣さんの隣に立ち、俺は画面に表示されたラフ画をじっと見つめた。
確かに、いつもの『シロ』の魅力である、少し物憂げでアンニュイな雰囲気が出ている。だが、クライアントが求めている王道の『希望』や『明るさ』とは、少しベクトルが違うのかもしれない。
「あの、素人の戯言だと思って聞いてほしいんですけど」
俺は言葉を選びながら、ゆっくりと口を開いた。
「結衣さんは、どうしてこの絵の雰囲気が『暗い』と思うんですか?」
「えっ……? だって、全体的に青みが強くて、キャラクターも笑ってなくて……」
「俺には、そうは見えません」
俺がはっきりとそう断言すると、結衣さんは顔を上げ、驚いたように俺を見た。
「俺、結衣さんの描く『青』がすごく好きなんです。結衣さんの青は、絶望の暗い色じゃない。夜明け前の、これから太陽が昇って空が白んでいく時の、一番澄み切った希望の青色に見えます」
「夜明け前の……青……」
「キャラクターが笑っていないのも、悲しいからじゃない。これから始まる壮大な冒険に対する、静かなる決意の表れに見えます。無理に歯を見せて笑わせるんじゃなくて、目線の先に微かな光を描き足すだけで、この絵は一気に『前を向いている』絵になるんじゃないですか?」
俺は自分でも驚くほど、熱を込めて語っていた。
一介のサラリーマンが、プロの神絵師に向かって構図や色合いの解釈を語るなど、本来なら傲慢もいいところだ。
だが、俺は誰よりも『シロ』の絵を見続けてきたファンとしての自負があった。彼女の絵の本当の魅力を、彼女自身が見失っているのなら、俺が言葉にして伝えるしかない。
結衣さんは、しばらく画面と俺の顔を交互に見つめ、ポカンとしていた。
やがて、彼女の瞳に、スッと光が宿った。
「……目線の先に、光」
彼女は呟くようにそう言うと、弾かれたようにペンを握り直した。
「夜明け前の青……そう、そうだ。無理に明るい昼間の色を使おうとするから、私の絵の良さが消えちゃってたんだ。夜が明ける直前の、あの静寂と希望……」
シュッ、シュッ、と。
先ほどまでの迷いが嘘のように、結衣さんのペンが液タブの上を滑り始めた。
画面の全体的な色調が、少しずつ、しかし劇的に変化していく。
キャラクターの瞳のハイライトが調整され、見つめる先の空に、微かな、しかし確かな朝焼けの黄金色が描き込まれていく。
それだけで、絵の印象がまるで別物のように――それでいて、しっかりと『シロ』の絵としての魅力を残したまま、圧倒的な引力を持つ一枚の絵へと変貌を遂げていった。
「……すごい」
俺は息を呑み、その魔法のようなプロの仕事を見つめ続けた。
「健人さん……っ!」
数十分後。結衣さんはペンを置き、バッと振り返って俺を見た。
その顔は、長かったスランプのトンネルを抜け出した、晴れやかで、誇り高いクリエイターの笑顔だった。
「できました……! ラフの修正、これなら絶対にクライアントを納得させられます! 健人さんのおかげです……!」
「俺は何もしてませんよ。結衣さんが、自分で見つけたんです」
「ううん! 健人さんが、私の絵の本当の良さを言葉にしてくれたから! ……私、健人さんを呼んで、本当によかったです」
結衣さんは立ち上がり、感極まったように俺の手を両手でギュッと握りしめた。
その温かく、少しペンだこがある小さな手に触れられ、俺は顔が爆発しそうになるほど熱くなるのを感じた。
「さぁ、ここからは一気にペン入れと着彩です! 健人さん、コーヒーのおかわり、お願いしてもいいですか!」
「はい、喜んで! エナドリも開けますね!」
そこから先は、まさに怒涛の作業だった。
迷いを捨てた結衣さんの集中力は凄まじく、俺はひたすら彼女のサポートに徹した。
コーヒーを淹れ、食事の出前を頼み、時折彼女が背伸びをするタイミングで雑談を交わす。
深夜のコインランドリーでの静かな時間も好きだが、こうして彼女の隣で、彼女が魂を削って作品を生み出す瞬間を共有できることが、俺にとっては誇らしく、何よりも幸せな時間だった。
*****
深夜の静寂に、ペンがタブレットの表面を滑る摩擦音と、ショートカットキーを叩くカチカチという小さな打鍵音だけが、リズミカルに響き続けていた。
時刻は午前三時を回っている。
窓の外は深い闇に包まれ、世界中で俺たち二人だけが取り残されてしまったかのような、不思議な錯覚に陥る。
結衣さんの集中力は、まさに「神懸かっている」と表現するしかなかった。
先ほどまでの迷いや不安は完全に払拭され、彼女の頭の中にある確固たるビジョンが、迷いのないストロークで次々とキャンバスに具現化されていく。
ベースとなる下塗りが終わり、影が落とされ、ハイライトが入り、細部の装飾が描き込まれる。まるで魔法を見ているようだった。
俺はソファに座りながら、邪魔にならないようにひたすら息を潜め、その奇跡のプロセスを見守っていた。
時折、彼女が伸びをして息を吐くタイミングを見計らって、温かいコーヒーを淹れ直したり、目薬を差し出したりする。
「ありがとうございます、健人さん」
結衣さんはマグカップを受け取ると、疲労の色が濃くにじむ顔で、それでも充実感に満ちた笑みを向けてくれた。
「結衣さん、少し仮眠とらなくて大丈夫ですか? ぶっ通しでもう六時間以上……」
「大丈夫です。今、すごく筆が乗ってて……この感覚を逃したくないんです。でも、健人さんは無理しないでくださいね。ソファで寝ててください」
「俺は平気です。結衣さんが戦ってるのに、俺だけ寝るわけにはいきませんから」
俺がそう答えると、彼女は少しだけ困ったように微笑み、再び画面へと向き直った。
俺はコーヒーの香りが漂う部屋の中で、結衣さんの横顔をじっと見つめていた。
モニターの青白い光に照らされたその横顔は、深夜のコインランドリーで出会った時の、ボロボロで自信のなさそうな少女とは別人のように凛としていた。
一つの作品を生み出すために、文字通り身を削り、魂を込めているクリエイターの顔。
(俺は……)
胸の奥で、静かに、しかし確実に育っていく感情があった。
最初はただのファンだった。雲の上の存在である『神絵師シロ』に対する、純粋な憧れと敬意。
だが、こうして彼女の弱い部分に触れ、涙を見て、そして今、不器用で泥臭く戦う姿を目の当たりにして。
俺が抱いている感情は、もはや「ファンとしての推し活」などという生易しいものではないことに、気づかざるを得なかった。
俺は、白石結衣という一人の女性に、どうしようもなく惹かれている。
この先もずっと、彼女の隣で、彼女が描き出す世界を一番近くで見守っていたいと、そう願ってしまっている。
「……よし」
やがて、長い夜が明けようとしていた。
カーテンの隙間から、白み始めた空の光が差し込み、部屋の中を淡いブルーに染め上げていく。
奇しくもそれは、結衣さんが今まさに画面の中で描き上げようとしている『夜明け前の青』と同じ色だった。
午前六時半。
「……終わりました」
結衣さんがペンを置き、ふうっと、魂の底から絞り出すような長いため息をついた。
「お疲れ様でした……!」
俺が立ち上がってデスクの後ろに回ると、そこには、息を呑むほど美しい一枚のイラストが完成していた。
青みがかった薄明かりの空。その空を見上げるキャラクターたちの瞳には、これから始まる冒険への希望を象徴するような、鮮やかな朝焼けの黄金色が反射している。
静寂と、熱気。相反する二つの感情が奇跡的なバランスで同居する、間違いなく『シロ』の最高傑作だった。
「すごい……本当に、すごいです。鳥肌が立ちました」
俺が素直な感想をこぼすと、結衣さんは照れくさそうにはにかみ、そのままデスクに突っ伏した。
「健人さんのおかげです……。私一人だったら、あのまま暗い絵を描いて、ボツになって、心を折ってました」
「俺は、俺が見たいものを見たいって言っただけですよ」
「ううん。健人さんが、私に私の色を思い出させてくれたんです」
結衣さんは顔を上げ、マウスを操作して完成したデータを圧縮し、クライアントへの納品メールに添付した。
「送信、っと……。これで、本当に終わりです」
送信完了の画面が出た瞬間、結衣さんの体から、張り詰めていた糸がプツンと切れる音が聞こえた気がした。
「あはは……なんか、急に、眠気が……」
彼女の目がトロンと濁り、体がフラリと傾く。
「っと、危ない!」
俺は慌てて手を伸ばし、椅子から崩れ落ちそうになった結衣さんの肩を抱きとめた。
彼女の小さな頭が、俺の胸にコトンと預けられる。
「結衣さん?」
声をかけたが、返事はない。彼女はすうすうと、静かで規則正しい寝息を立てていた。
極限の集中状態から解放され、限界を超えていた体が一瞬で強制睡眠モードに入ってしまったのだ。
俺は腕の中の彼女の軽さに驚きながらも、そっと彼女を抱き上げ、寝室のベッドに寝かせた。
布団を掛け、その安らかな寝顔をしばらく見下ろす。
スランプを抜け出し、大きな仕事をやり遂げた彼女の顔は、とても穏やかだった。
「……お疲れ様。よく頑張りましたね」
誰に聞かれるわけでもなく小さく呟き、俺は静かに寝室のドアを閉めた。
リビングに戻り、机の上の空になったマグカップやエナジードリンクの缶を片付ける。
勝手に居座るわけにもいかないので、持参したノートの切れ端に『納品お疲れ様でした。ゆっくり休んでください。健人』とだけ書き残し、俺は結衣さんのマンションを後にした。
外に出ると、本物の朝日が街を照らし始めていた。
徹夜明けの身体は鉛のように重かったが、心はこれまでにないほど晴れやかだった。
*****
月曜日。
残酷な現実は、魔法のような週末の余韻を容赦なく打ち砕きにくる。
「おい遠野! 先週頼んどいたクライアントの修正案、まだ上がってこないのか!」
「すみません、今すぐ対応します!」
朝から上司の怒声が飛び交う、灰色のオフィス。
俺はキーボードを叩きながら、理不尽な要求とギリギリのスケジュールに神経をすり減らしていた。
俺の世界は、結衣さんの描き出すような美しい青空でも、希望に満ちた冒険の舞台でもない。ただひたすらに泥臭く、しんどいだけの現実だ。
だが、今日の俺には、どんなに理不尽な仕事にも耐えられるだけの絶対的な『支え』があった。
昼休み。俺はデスクの下でこっそりとスマホを取り出し、SNSを開いた。
タイムラインのトップに、あの大手ゲーム会社の公式アカウントからの重大発表が躍り出ている。
新規RPGタイトルの発表。
そして、その告知ツイートの画像には、俺が土日の二日間、ずっと隣で見守り続けて完成した、あの『夜明け前の青』のキービジュアルが燦然と輝いていた。
告知ツイートは、発表からわずか数時間で凄まじい勢いで拡散され、万単位の「いいね」とリポストを稼ぎ出していた。
リプライ欄には、歓喜の声が溢れている。
『シロ先生の新作だああああ!!』
『うわっ、なんか今回の絵、いつもよりさらに神がかってない!?』
『シロ先生特有の透明感はそのままなのに、すごく前向きで力強い……! 最高すぎる!』
ファンたちの絶賛のコメントを見ながら、俺は自分のことのように……いや、自分のこと以上に嬉しくて、胸の奥が熱くなった。
俺の愛した『シロ』の絵が、こうして何万人もの人々の心を動かしている。
その事実が、たまらなく誇らしかった。
さらにスクロールすると、シロ先生本人のアカウントからの引用リポストがあった。
一ヶ月ぶりの、彼女からの発信。
『新作ゲームのキービジュアルを担当させていただきました。長い間お休みしてしまってごめんなさい。スランプで何も描けなくなっていましたが、私にとって一番大切な人が、私の絵の本当の色を思い出させてくれました。この絵は、その人の言葉があったから完成した、私の宝物です。これからも、描き続けます』
その文面を読んだ瞬間、俺の心臓がドクンと大きく、痛いほどに跳ねた。
『私にとって一番大切な人』。
それは間違いなく、俺のことだった。
数十万人のフォロワーに向けて、結衣さんはそんな不器用で、でも真っ直ぐなメッセージを発信してくれたのだ。
スマホを握る手にじわりと汗が滲む。
ただのいちファンだったはずの俺が、彼女のクリエイターとしての人生に、これほどまでに深く刻み込まれてしまった。
その圧倒的な事実に、俺はデスクの下で一人、必死に涙を堪えなければならなかった。
(結衣さん……)
会いたい。
今すぐにでも飛んでいって、お疲れ様でしたと、最高の絵でしたと、顔を見て伝えたい。
だが、午後の業務がそんなことを許してくれるはずもなく、俺は再び殺伐とした仕事の海へと身を投じた。
*****
結局、その日も会社を出たのは終電間際だった。
「……はぁ。疲れた」
最寄り駅に着いた時には、日付はとうに火曜日に変わっている。
肉体的な疲労はピークに達していたが、俺の足取りは決して重くなかった。
アパートへ向かういつもの帰り道。
だが、俺は自室へ直行せず、少し遠回りをして、あの場所へと向かった。
深夜のコインランドリー。
洗濯物など、今日は何もない。土曜日に彼女の部屋へ行く前に済ませてしまったからだ。
それでも、足が勝手にその場所へと向かっていた。もしかしたら、彼女がいるかもしれない。そんな淡い期待を抱いて。
蛍光灯の眩しい光が漏れるガラス張りの店舗。
俺は逸る気持ちを抑えながら、自動ドアの前に立った。
ウィーン、とドアが開く。
柔軟剤の甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
稼働している乾燥機は一つもない。静まり返った店内。
だが、一番奥のベンチには――。
「あ……」
黒いパーカーではない。
淡い水色の、少し春らしい綺麗なワンピースに身を包んだ結衣さんが、ポツンと一人で座っていた。
彼女の膝の上に、今日はiPadはない。ただ両手を膝の上で揃え、じっと入り口の方を見つめていたのだ。
俺と目が合った瞬間、結衣さんの顔がパァッと明るく輝いた。
「健人さん……!」
彼女はベンチから立ち上がり、小走りで俺の元へと駆け寄ってきた。
「結衣さん……どうしてここに? 洗濯ですか?」
「違います。……健人さんを、待ってたんです」
結衣さんは、少しだけ上目遣いで俺を見つめ、照れくさそうに微笑んだ。
「今日、月曜日だから。健人さん、きっと遅くまでお仕事頑張ってるんだろうなって思って。……それに、あの土曜日のお礼を、どうしても顔を見て言いたかったから」
「……お礼だなんて。俺はただ、見てただけです」
「ううん。健人さんがいてくれなかったら、絶対に完成しなかった。私、SNSでも言いましたけど……あの絵は、健人さんが私と一緒に描いてくれた、二人だけの宝物です」
彼女の潤んだ瞳が、俺を真っ直ぐに射抜く。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
もう、誤魔化すことはできなかった。ファンとしての分際だとか、ただのお人好しだとか、そんな言い訳は通用しないところまで、俺たちの関係は来てしまっている。
「結衣さん」
俺は一歩だけ彼女に近づき、真剣な声で言った。
「俺、今日、結衣さんのツイートを見て……仕事中なのに、泣きそうになっちゃいました」
「えっ……」
「俺の愛した『シロ』の絵が、あんなにたくさんの人に絶賛されてて。でも、その絵を完成させる一番近くに俺がいたんだって思うと、なんだか独り占めしてるみたいで、たまらなく嬉しくて」
俺の言葉に、結衣さんの顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「俺、結衣さんの描く絵が大好きです。それは一生変わりません。でも……」
俺は、彼女の小さな手を、そっと自分の両手で包み込んだ。
「絵を描けなくてボロボロになって泣いてる結衣さんも、徹夜明けで無防備に寝落ちしちゃう結衣さんも……俺は、大好きです。ファンとしてじゃなく、一人の男として、白石結衣さんのことが好きです」
コインランドリーの中に、静寂が落ちた。
俺の言葉を受け止めた結衣さんは、大きく目を見開き、やがてその瞳からポロポロと涙を溢れさせた。
だが、それはスランプに苦しんでいた時の絶望の涙ではない。
「……ずるいです、健人さん」
結衣さんは俺の手をギュッと握り返し、涙声で笑った。
「私が、どうして今日こんなところで健人さんを待ってたか、分かってるくせに。……私だって、健人さんに救われて、健人さんの優しさに触れて……もう、健人さんがいないと、筆が持てないくらい好きになっちゃったんですから」
彼女の告白に、俺の胸の中にあった最後のストッパーが吹き飛んだ。
俺は彼女の手を引き寄せ、その華奢な体を、そっと自分の腕の中に包み込んだ。
「……じゃあ、これからはずっと俺が監視しないとダメですね」
「はい。ずっと……私の隣で、私の絵を見ていてください」
深夜のコインランドリー。
乾燥機の音も聞こえない静かな空間で、俺たちは初めて、お互いの温もりを確かめ合った。
理不尽なブラック企業での毎日。
終わりの見えない仕事の山。
俺の現実は、明日からも相変わらず厳しいものだろう。
だが、俺が帰る場所には、俺を待っていてくれる人がいる。俺の言葉で、希望の青空を描き出してくれる人がいる。
それだけで、俺の毎日は、どんなに美しいイラストよりも鮮やかに輝き続けるのだ。




