逆夢
ーまた同じ夢を見ていたー
白い砂浜。
波の音はなく、代わりに無数の本が寄せては返す。背表紙の剥がれた本、ページの破れた本、厚さも色もばらばらの本。
それらは海水の代わりに静かに砂を濡らすことなく積み重なり、開かれるたびに言葉を宙へ散らし、光の粒となって空へ昇っていく。
僕は夢の中で、その本を一冊手に取る。
表紙は無地。だが開けば必ず、同じ言葉だけがそこにある。
――忘れてはいけない。
その瞬間、胸の奥がきしむ。
何か大切なものを失っている。けれど、それが何なのかどうしても思い出せない。
夢は、ページが燃えるようにほどけると同時に破れた。
目覚めたのは、見慣れた天井の下だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、薄く白い影をつくっている。
だが机の上を見て、息が止まった。
開きっぱなしのノートの端に、黒いインクでこう記されていた。
――忘れてはいけない。
書いた覚えはなかった。震える指でなぞると、インクは紙の繊維に深く沁み込み、昨夜の残り香のように確かにそこにあった。
今日は休もうと思ったが、迷った末に行くことにした。
ーープツン
なにかが僕の中で切れた。なにかが切れたのは僕はわかった。だが、なにが切れたかはわからなかった。そんなもどかしさの中、僕は服を着替え、準備をして、靴を履き、扉を開けようとしたその瞬間。
ーープツン
またなにかが切れた。今度はなんだ。僕はそう自分に自問自答しながら扉を開けた。
今日の空はいつもと違い、奇妙なほどに爽やかで雲ひとつなかった。
通学路の街路樹が風に揺れていた。秋の空は高く、葉の一枚一枚が光を受けて透きとおる。
行き交う人々の笑い声も、靴音も、僕には遠い世界の出来事のように感じられた。
教室に入ると、いつも通りのざわめき。友人の拓海がふざけて机を叩き、笑い声が弾む。
だが、そのざわめきの奥に「異物」があった。
窓際最後列に、眼鏡の男子が座っていたのだ。
逆光に照らされた横顔は整っていて、どこか影を帯びている。
初めて見るはずなのに、どうしようもなく懐かしい。まるで昨日まで隣にいた友を突然忘れてしまったかのような、胸の奥をかき乱す既視感。
「なあ、あいつ転校生か?」
僕は拓海に声を潜めた。
だが彼は、きょとんと眉を寄せた。
「誰のことだよ」
窓際を振り返ったとき、そこには誰もいなかった。
カーテンが風に揺れるばかりで、席は空っぽだ。
授業が始まると、担任は淡々と出席を取り始めた。
窓際の席は、最初から空席として扱われていた。
僕はノートを開く。
白紙の中央に、黒いペンで刻まれていた。
――忘れてはいけない。
窓の外、街路樹の葉が一枚、ガラスに貼りついた。
その形はまるで、血走った「眼」が僕を覗き込んでいるように見えた。
僕は思わず視線を逸らした。
昼休みの図書室。
光はカーテン越しに淡く差し込み、棚が長い影を落としている。ここは教室の喧騒から切り離された、静謐な迷路だ。
気づけば、僕は迷い込むようにその奥へと歩いていた。理由はない。ただ「行かなければならない」と心のどこかで誰かに囁かれていた。
指が一冊の本に触れた。
背表紙には何も書かれていない。色あせた布の装丁。手に取ると、夢で掴んだときと同じ冷たい重みがあった。
ページを開いた瞬間、息が詰まった。
そこに記されていたのは――僕の昨日の出来事だった。
「朝、同じ夢を見て目覚める」
「教室で見知らぬ男子を見かける」
「拓海に尋ねるが誰も覚えていない」
文章は事実をなぞるだけなのに、あまりに正確すぎた。
さらに下段には、まだ訪れていないはずの記録があった。
「放課後、君は再び彼に出会う」
僕は慌てて本を閉じた。胸の鼓動が速すぎて、自分の身体が自分でないように感じた。
放課後。
西日の差す廊下は黄金色に燃え、窓に映る自分の影は不自然に伸びていた。影は僕の姿のはずなのに、肩の形も歩き方も、どこか別人のように歪んでいる。
「……やあ」
背後から声がした。
振り返ると、彼が立っていた。
眼鏡の奥の瞳は夕陽を映し、穏やかに揺れている。
確かに教室で見た顔。けれど、光の中に溶けかけているように淡い。
「君、だよね」
彼は微笑んだ。懐かしむように、確かめるように。
「……誰なんだ、君は」
必死に声を絞り出す。
彼は答えず、ただ静かに囁いた。
「忘れてはいけないよ。君は、すぐに忘れてしまうから」
その言葉は、夢の本に書かれていたものと同じだった。
夜。机に向かうと、ノートのページがひとりでに開いた。
そこに見慣れぬ筆跡が並んでいた。
「君はまた彼と会った」
「けれど、もうすぐ彼は消える」
僕はペンを握った。だが手は自分の意思を離れ、勝手に動き出した。
――忘れてはいけない。
黒い文字が、紙を突き破りそうなほど深く刻まれていた。
窓の外。
夜風に揺れる街路樹の影の間に、一瞬だけ彼の姿が見えた気がした。
僕の鼓動は、夢と現実の境界を完全に拒んでいた。
夜の学校。
廊下は闇に沈み、窓に映る蛍光灯の明かりは頼りなく震えていた。
僕は吸い寄せられるように図書室へ向かっていた。
扉を開けると、机の上に例の本が置かれていた。ページは勝手に開かれ、こう記されていた。
「君は今、この文字を読んでいる」
「そしてこれから、彼と最後に出会う」
背後から声がした。
「……やあ」
彼が立っていた。
だが、その輪郭は透け、向こうの棚が見える。影は落ちていない。
「思い出したかい?」
「……何を」
「僕たちのことを」
胸の奥で、凍っていた記憶が崩れ落ち、呼び覚まされていった。
――幼い頃、校庭の裏で交わした約束。
「絶対に忘れないで」
「たとえ夢になっても、僕を探して」
その直後に響いた、鋭いブレーキ音。
赤黒く染まる景色。
僕は、ようやく思い出した。
「君は……死んだんだ」
彼は微笑んで頷いた。
「だから、こうして夢にしか現れられない」
その瞬間、図書室の棚が崩れ、無数の本が渦を巻いて宙を舞った。ページは光の粒となり、やがて砂浜が広がった。
空には巨大な月。だがそれは月ではなく、
血走った「眼」
だった。
朝に僕を見つめた落ち葉の眼と同じ。だがはるかに巨大で逃れられない。
「忘れてはいけない」
声が頭の中を埋め尽くす。彼の声か、月の声か、もう分からなかった。ただその言葉だけが僕の頭の中に反響して渦巻いている。声がさざなみのように広がっていく。耳がビリビリ震える。
本の波から黒い手が無数に伸び、僕の足を掴む。砂は沼のように沈み、身体は深く沈んでいく。
「助けて……!」
彼は微笑んだ。
「大丈夫。君はすぐに僕のところへ来る」
視界は闇に飲み込まれた。
気づけば、朝の教室にいた。
ざわめく声。笑う友人たち。
夢だったのか……?
だが黒板に赤い文字が滲んでいた。
――忘れてはいけない。
ざわめきが止む。
クラスメイト全員が同時に僕を見た。
瞳は黒く溶け、口元だけがにやりと裂けていた。
窓の外は、すでに砂浜に変わっていた。
机も椅子も波に飲み込まれ、ただ本の群れだけが押し寄せてくる。
僕は悟った。
これは夢ではない。
最初から僕が“忘れられる側”に堕ちていたのだ。
そして――
ーまた同じ夢を見ていたー