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page8. 一兎を追う者は

 

 ――耳障りなバイブレーションが、枕元で鳴り響いている。

 時刻は朝の六時半、着信元は……芦名ニゲラ。


 鳴り止まないそれから逃げるように、もそりと布団に潜り込む。

 すると、外からごそごそと衣擦れの音が聞こえてきて――布団越しに、そっと頭を撫でられた。


「……おはよう。こんな時間に起こされちゃって、大変だね」


 寝起きで少し掠れた、男性の優しい声。


「……電話、今日も出ないの?」

「…………ん……」

「そっか」


 頭に置かれた手が、離れていくのを感じる。

 続いて、ざーっという音と共に、布団の隙間から光が差し込んできた。

 どうやら、カーテンを開けたらしい。


「ほら、今日もいい天気」

「…………寒い」

「そりゃあ、もう冬だからね」


 暖房入れようか、と優しく笑って、布団の向こうにいる彼は活動を開始する。

 鼓膜にすうっと馴染む声と生活音を聞きながら――ローザの意識は、再び微睡みの中に落ちていく。


「…………芦名ニゲラ、か」


 意識が途切れる寸前、何かが小さく聞こえた気がした。




 午後十九時、尾崎芸能本社ビル。

 ローザが居なくなった――柴田にそう連絡したニゲラは、緊急事態ということで社長室に呼び出されていた。


「……駄目だ、繋がらない」


 昨晩から、もう二十回以上ローザに電話を掛けている。

 そのどれもが留守番電話に転送されて……今朝以降は、ついに電源を切られてしまった。


「…………うーん……やっぱり、一昨日の夜に敷地を出て以降、一度も戻ってないっぽいな。ローザの社員証のログがどこにも出てこない」


 社用のノートパソコンから極秘の入退館ログを確認しつつ、柴田が髪をわしゃわしゃと掻き乱す。

 一昨日の夜……ニゲラがローザを社員寮まで送り届けた、あの日である。


「…………どこ行ったんだよ、ローザ」


 ぎり、と、スマートフォンを握る手に力が籠る。

 それは、何も言わずに逃げ出してしまったローザへの苛立ちではなく……ローザが行きそうな場所のひとつも知らない、自分自身への怒りだった。


「んー……どうしたもんかな……」


 ぱたりとノートパソコンを閉じ、柴田が難しい顔をして小さく唸る。

 柴田経由でローザの同期や前部門の知り合いにも話を聞き、名前が挙がった場所に片っ端から向かったものの――結果はご覧の通りだ。


「…………ローザ……」


 まるで通り雨に降られた時のように、自身の体温が下がっていくのを感じる。

 あの足ではまだ走ることもできないのに、もし何かに巻き込まれていたら――


 その時。

 ガタン、と音を立てて、社長室の扉が開く。

 勢いよく開いたそこから滑り込んできたのは……スリーピーススーツのジャケットを脱いで脇に抱え、片手でネクタイを緩めている最中の尾崎社長だった。


「遅くなった」

「蓮……! どこ行ってたんだよ、この非常時に……!」

「本社総務部だ」


 柴田の問いに短く答えると、尾崎は足早にニゲラへと歩み寄る。

 そして、その手に持っていた1枚の青い付箋を、ニゲラの手に押し付けた。


「……これって、」

「そこに行け。ホテルにでも泊まられていたらお手上げだが……そうでなければ、あいつはそこ以外に行き場がない」


 付箋に手書きで記されているのは、どこかの住所。

 ……地名を見るに、ここの最寄り駅から数駅先の沿線だ。


「……蓮、まさか」

「ああ……情報を持ち出すのに難儀したが、緊急事態ということで上には目を瞑ってもらった。まったく、親父殿が在京していなければどうなっていたか……」


 どさ、と社長椅子に腰を下ろす尾崎の顔には、珍しく疲労と安堵の色が浮かんでいる。

 親父殿……尾崎会長の名前が出るということは、社長は会社全てを相手取り、なんとかこれを持ち出してきたのだろう。


「あの……どうして、俺に……?」


 この非常事態なのだから、社長本人かマネージャーにあたる柴田が出向くのが普通だ。

 なぜ、こんな機密をニゲラに託し、大役を任せるのか――それが、ニゲラにとっては純粋に疑問だった。


「……あれの逃げ癖は、今に始まったことではないが」


 椅子に背を預けて天井を見上げながら、尾崎が口を開いた。


「姿を消したのは初めてだ」

「…………」

「前提として、あれは基本的に器用な部類の人間だ。本気で逃げようとするのであれば、他人の心理を誘導して相手側から手を引かせることなど造作もない」

「確かに……基本は何でもそつなくこなしてるけど、興味なくした辺りで上手いこと誤魔化して相手に諦めさせてるよな」

「それがあれの処世術なんだろうよ。良いか悪いかは別として、な」


 だが、と尾崎の言葉は続く。


「お前のことは躱せなかったらしいな」

「…………」

「理由は言うまでもないだろう。俺も……僅かながら、そういった感情には心当たりがある」


 その瞳は、どことなく寂しげで。

 今この言葉を紡いでいるのは、既に過去となったアイドルとしての彼なのではないか――ニゲラは、そう思った。


「そもそも、だ。我々が出向いたところで、今のあいつは聞く耳を持たんだろう。今回は君が行くのが適任だ」

「……分かりました」

「帰りは迎えの車を用意させるが、今は一分一秒が惜しい。この時間帯なら、駅まで走って電車に乗ったほうが早い」

「ニゲラ、ローザのことは頼んだぞ。帰りのことは心配すんな!」

「はい、ありがとうございます……!」


 尾崎と柴田に深く礼をして、ニゲラは社長室を飛び出す。


 行き先は、この近くにある名門大学の最寄り駅。

 握り締めた付箋には、住所とマンション名、そして――『北郷きたざと梨琥りこ』という名前が記されていた。

 

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