page7. 脱兎
「…………」
清潔感のある空間に、時計の音だけが響いている。
社内併設の診療所――その待合室の片隅で、ニゲラはひとり待っていた。
あの後、ニゲラはローザを抱いたまま診療所へと駆け込んだ。
その道中で柴田マネージャーとすれ違ったことを考えると、非常事態が発生したことは恐らく社長まで筒抜けになっているのだろう。
診察と検査結果の確認までは隣に付き添ったが……幸いなことに、症状は軽い捻挫で済んでいたらしい。
怪我の発生が今朝であることと、その後ダンスやトレーニングといった運動を挟まなかったことも幸いし、テーピングと痛み止めを使って回復を待つだけでよいとのことだ。
ただ、負傷の理由を問われたローザが「階段を踏み外した」と口にした時、ニゲラはそれを嘘だと思った。
根拠なんてない、ただの直感だが……僅かに言い淀んで目を伏せたローザが、何かを恐れているように見えたから。
……なんで。
なんで、何も言ってくれないんだよ。
握り締めた両の手が、ぎゅっと音を立てる。
相方が怪我を負った――起こってしまったその事実よりも遥かに重く、頭の中を回る問いはニゲラ自身の心に圧し掛かった。
かちり。
時計の長針と短針が同時に動き、一際大きな音を立てた時。
それよりずっと小さな音を立てて、処置室に繋がる自動ドアが横に開いた。
「……ローザ」
「ぁ……」
処置室から出てきたローザを目にした瞬間、ニゲラは居ても立っても居られずに小走りで駆け寄る。
先ほどの診断で「適切なアイシングを続けて安静にすれば、数日後には普通に歩ける」と言われた通り、左足に施されたテーピングはさほど大仰なものではなく、松葉杖などの補助具も使っていなかった。
「よかった……折れたりしてなくて……」
ひとまずは胸を撫で下ろすニゲラだったが、根本の原因を誤魔化されている以上、モヤモヤとした気持ちは未だ晴れない。
それでも、目の前で暗い顔をしてしょげているローザをこれ以上叱るような真似は、する気になれなかった。
「…………ごめんなさい……」
「……ん。コーチには連絡しておいたから、今日は――」
ニゲラの言葉を遮るように、ポケットの中のスマートフォンが低い唸り声をあげる。
取り出した画面に表示されていたのは、『柴田咲楽』の文字だった。
「――公開収録で実施するパフォーマンスについて、変更を行うようコーチ陣に指示を出した」
診療所が入っている建物の小さな会議室に、どこまでも冷静な声が放たれる。
ローザの状況を把握した柴田が設定した緊急ミーティング――たった十五分間だけのその場所には、尾崎社長の姿があった。
「どのくらいの変更になりますか?」
社長の言葉を受けて、ニゲラは柴田に問う。
柴田は腕組みをして小さく唸った後、「あくまで予想だけど」と前置きして言葉を紡いだ。
「ゴリッゴリのダンスナンバーって訳じゃないからな……選曲はそのままにダンスを変更して、歌唱パートを少し弄るくらいじゃないか? 一応、明後日の夜には変更版の内容があがってくる予定だぜ」
「……分かりました、ありがとうございます」
本番が一週間後で、その前日がリハーサル。
最速で明々後日からレッスンを再開するとなると……残された時間は、三日。
「明後日以降、変更したパフォーマンスでのレッスンに入る。まずは今日と明日、しっかりと療養に充てるように」
「……ちょっと、待って」
尾崎の口から淡々と告げられるスケジュールを、ローザの言葉が遮る。
その声は、誰が聞いても気付くくらいに震えていた。
「今から変更とか、ないでしょ……」
「残念だが事実だ。君のその状況を鑑みるに、従来のパフォーマンスの実施は許容できない」
「でもっ……!」
「北郷」
「――っ!」
北郷――その言葉を耳にした途端、ローザが目を見開いて硬直する。
何かを口にしようと唇をはくはくと動かしているが、血の気の引いたそこからは何の音も出てこない。
「……誠に勝手だが、ここ二週間程度における君の社屋入退館ログを検めさせてもらった」
「…………」
「毎日七時のゲート入場から二十四時前後の退場まで、君は撮影時の外出時間を除き、オフィスエリアおよびスタジオエリアから外に出ていなかったようだな」
「……それは、」
「何をしていた、と問うべきところだが……それについても調べはついている」
「……スタジオの利用履歴。毎日の早朝と夜遅く、どっかしらのスタジオがお前の名義で予約されてたよ」
「………………」
ローザは唇を噛み締め、静かに俯く。
その様子を見た尾崎は、眼鏡を外して眉間を揉みながら、深い溜息を吐いた。
「こちらの管理不足も一因である手前、これ以上の言及は控えるが……自己管理も仕事の内だという意識は、常に持つように」
「…………はい……」
生気の抜けた弱々しい声は、張り詰めた空気の中で辛うじて溶け残り、部屋を漂った。
社員寮に向かう夜の渡り廊下を、ニゲラとローザはゆっくりと歩く。
いつもはあっという間に通り過ぎてしまうそこが、今日は嫌に長く感じた。
「……ここまでで、平気か?」
「……うん……」
やっと辿り着いたロビーで、二人は短く言葉を交わす。
暖色の照明で照らされているにも関わらず、双方の纏う空気は共に重くて冷たい。
「……なあ、ローザ」
「…………」
「明日、一度ちゃんと話そう」
「………………」
「パフォーマンスのこともだし……他にも、ちゃんと……」
ニゲラの言葉を受けて、ローザは顔を伏せてしまう。
ストロベリーブロンドの髪に隠された表情は見えないが――その肩は、僅かに震えているようだった。
「……明日、学校終わったら迎えに来るから」
「…………」
「……じゃあ、おやすみ」
そっとローザの肩を撫でてから、ニゲラは踵を返す。
これ以上その姿を見ていたら、胸の奥から湧き上がる何かに溺れて、窒息しそうだった。
翌日の夕方、部屋にローザは居なくて。
それどころか、夜も、そのまた翌日の朝も、夕方も。
ローザは、ニゲラの前から姿を消してしまった。