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page5. 兎波を走る

 

「今日はこの後の会議が終わったら直帰する。車の準備をしておけ」

「はいよ」


 本社ビル十一階、社長室。

 シルクのネクタイを締め直しながら、テイルプロダクション社長、尾崎蓮はそう告げる。

 その端正な顔はいつも通りに涼やかな表情を浮かべており、目の前のタスクだけを鋭く見据え――


「あいつらのこと、気になってるだろ」

「………………」


 ――られていないことは、他でもない彼の右腕にだけはお見通しだった。


「……適当なことを言うな。だいたい何を根拠に――」

「胸ポケット。チーフずれてるぞ」

「…………」

「わっははは!」


 眉間にぎゅっと皺を寄せ、ポケットチーフを取り出していそいそと折り直す尾崎。

 生ける伝説とまで呼ばれる男が子供のようにぶすくれるその姿に、柴田が腹の底からの笑い声を上げる。


「そんな心配すんなって! この一週間でローザの移籍と部署間の引き継ぎも問題なく終わったし、さっきも元気満々でボーカルレッスンに向かってたぞ」


 それに、と柴田は続けた。


「ニゲラはローザが自分で選んだお気に入りだぜ? 仲良さそうだし、大丈夫だろ」

「……それでは選ばせた意味がないんだがな」

「ん?」

「なんでもない。そろそろ行ってくる」

「おっ、あいよ~」


 行ってらっしゃい、とひらひら手を振る柴田を背に、尾崎は社長室を出る。


 十一月、第一週。

 本日、ローザ・ノーストピアがテイルプロダクション所属となり――彼とその相方にステージ経験を積ませることを目的としたデュオユニット『NearNight』が、半年間の期間限定活動に向けて動き始めた。




 スタジオ内に、澄んだ声が響く。


「――、――♪」


 高い音域とは裏腹に、柔らかく落ち着いた響き。

 空気に融けて聞き手の内側に侵食し、内側から甘くとろけさせるようなフェアリーボイス。

 その歌声は、これまでは無音の世界で人々を魅了してきたローザが隠し持つ、大きな武器のひとつだ。


「……はい、ありがとうございました。もう少しブレスの位置を意識すると、さらによくなりますね」

「はい」

「あとは声量。これは基礎トレーニングで肺活量と一緒に鍛えていきましょう」


 ローザがワンフレーズを歌い切ったところで、コーチがいくつかの指摘を入れる。

 その内容は細かいテクニックや表現というよりも、ボーカル初心者にありがちな注意点の確認のようなものだ。

 ……まあ、実際初心者だから当然なんだけど!


「……芦名くん、何かコメントはありますか?」

「えっ」


 コーチは大まかに全体の指摘を終えると、後ろの椅子に座ってローザの歌を聞いていたニゲラへと視線を移した。


「気になることでも、感想でも。二人はチームですから、気付いたことは共有していきましょう」

「じ、じゃあ……」


 そう促され、ニゲラはもじもじしながら言葉を紡ぎ始めた。


「……すごく、綺麗な歌だったと思う。ふわふわしてて、優しくて……ずっと聞いていたくなる声だった」

「あ、ありがと……」


 素直に褒められて、ローザの頬が思わず緩む。

 ニゲラの言葉はいつも通り真っ直ぐで、だからこそとてもくすぐったい。


「……つ、次は、俺の番ですか?」


 そんな面映ゆい空気に耐えかねたのだろうか、ニゲラがいそいそと立ち上がる。

 二人の様子をにこやかに見守っていたコーチは、その問いを受けて優しく頷いた。


「ええ。芦名くん、こちらへ」


 コーチに招かれ、ニゲラがピアノの隣へと足を進めた。

 一旦休憩となったローザは、ニゲラが立ったことで空いた席に腰を下ろし、その様子を遠巻きに眺める。


「……合わせたほうがいいですか?」

「いえ。最初ですから、まずは普段通りでいきましょう」

「分かりました」

「……?」


 ニゲラとコーチの間で手早く交わされたやりとりに、ローザは首を傾げた。

 合わせる、というのはどういう意味だろう……?


「発声練習は必要ですか?」

「さっき済ませてあるので、大丈夫です」

「分かりました。では曲の頭から」


 ニゲラが首と肩甲骨を何度か回し、足を軽く肩幅に開く。

 その様子を確認したコーチは、鍵盤の上に指を滑らせた。




 力強く、それでいて素直に耳に馴染む歌声が部屋を満たす。


「――♪――、――♪」


 欲しいところで挟まるブレス、ふわりと空気で包み込んだような聞き心地のいい鼻濁音。

 その全てのどこかに聞き馴染みのある声の気配を感じるのに、耳に届く音は記憶よりずっと甘やかで、骨の一番深いところからどろりと融け落ちそうになるような色気を孕む。


「――、――♪」


 ともすれば繊細とも呼べる歌い方にも関わらず、声量はスタジオの内部でしっかりと反響するほど。

 そして何より――普段の無表情からは想像できないほどに、その息の抜き方や声の操り方には『感情』が乗っていた。


「…………、」


 これは、歌を知っている人間の発する音だ。

 ローザは、本能的にそう感じた。


 それと同時に、思い知る。

 『合わせる』というのは、ローザの技量に合わせるかどうか、という意味だったのだろう。

 だって、この声と重なったら、自分の歌は――。


「……はい、ありがとうございました。基本はしっかり押さえていますね」


 そっと発されたコーチの声で、ローザは意識を引き戻される。

 気付けばピアノの音は止んでいて、ニゲラはコーチの指導を真剣な顔で聞いていた。

 ……会話の中には専門用語らしきものが数多く使われていて、ローザに与えられたものとは次元が違う。


「――ローザさんは、何かコメントはありますか?」

「……っあ、」


 先ほどニゲラにそうしたのと同じように、コーチがローザに問い掛ける。

 そういった流れになるのは予想していたにも関わらず、実際にその瞬間を迎えたローザはびくっと跳ねて目を泳がせた。


「え、えっと……す、すごいね! ニィ、こんなに歌うまかったんだ」

「ん……こっちに上京するまで、バンドやってたから……」


 ベースとリードボーカル、と小さく呟くニゲラは、いつものように頬を赤く染めている。

 先ほどまで身近に感じていたその表情が、今は少し違ったものに見えて……ローザは、膝の上の拳を僅かに握り締めた。


「それでは、次は二人で一緒に。ローザさん、こちらへどうぞ」

「あっ、は、はい! よろしくお願いしまーす!」


 二人の視線を受けて、慌てて椅子から立ち上がる。

 ……先ほどまで抱いていた温かな高揚感は、いつの間にか消えてしまっていた。

 

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