page4. 兎と子犬のワルツ
お気に入りのレースカーテン越しに、気が早くなった西日が差し込む頃。
「じゃあ次ね。今はどこに暮らしてるの?」
「と、隣の駅の……寮に住んでいます」
「ああ、研修生はここの社員寮には住めないんだよね。そっちは下宿みたいな感じなんだっけ?」
「ん……でも、食事と門限以外は、ここと変わらないと思う……」
――ローザがニゲラに声を掛けた日から、一週間が経過した。
「そっかあ……寮のご飯、おいしい?」
「……社内の食堂のほうが好き、です」
「っふふふ! あのカフェテリア、おいしいもんね~」
あの日から、二人は仕事の合間を縫って、時間を共にしている。
平日は、各々の休憩時間や、レッスンが終わってから門限までの間。
休日は、ローザの用事が終わってから、夜までの間。
夕暮れ時の中庭の東屋で、明かりの灯るローザの部屋で、時間が合わない時は電話越しで。
最初は教本を片手に、そして次第に互いの顔を見ながら、いろんな話をした。
そんな毎日を繰り返した結果――ニゲラはたったの一週間ぽっちで、訛りのない標準語を体得したのだった。
「……よし、今日も全然訛らなかったね! すごい!」
「それは……ローザさんの教え方が上手いから……」
「えー? ニゲラくんが頑張り屋さんだからだと思うけどなあ」
ニゲラくんはすごいよ、と続ければ、隣に座る彼は頬を赤くして俯いてしまう。
相変わらず表情は変わらないが……どうやら表情筋が働いていないだけで、実際はとてもはっきりと感情を表に出す子であることを、ローザはこの数日で見抜いていた。
「……あの、ローザさん」
「ローザでいいよ」
「え……」
「それに、敬語も使わなくて大丈夫」
ローザの突然の提案に、ニゲラは目を白黒させる。
「ど、どうして急に……」
「だってほら、仕事の時はほとんど敬語でしょう? 少しくらいは、敬語なしで話せる相手も必要かなって」
「それは……そうかも、だけど……」
もっともらしい理由を口にされ、ニゲラは口元をもにゅもにゅと動かしながら言い淀んだ。
……あと一押しかな。
そう悟ったローザは、すぐさま自身の才能を悪用する。
自分の口元に人差し指を当て、こてんと首を傾げる仕草――これを受けて、自分の言葉に従わない者は男女問わず存在しなかった――を披露し、ニゲラを見つめてみせた。
「……イヤ?」
「嫌じゃない」
「っふふふ!」
即答する素直さに、思わず笑いが零れる。
最初こそ、緊張のせいで雑談すら難しい状態のニゲラとローザだったが、今となってはこんなやり取りをする程度に気安い関係まで至っていた。
「代わりに、俺もあだ名で呼んじゃおっかな~。何がいい?」
「あ、あだ名……」
「お兄ちゃん居るんでしょ? 何て呼ばれてた?」
「ぅ……」
ニゲラの顔が、今までにないくらいに真っ赤に染まる。
今回は首まで赤くなっていて、さすがにいじめすぎたかな……とローザが罪悪感を感じ始めた頃。
「……ィ」
「ん……?」
「……ニィ」
小さな小さな声で、ニゲラがそう漏らした。
「ニィ……なるほど、ニゲラだからニィか~」
「…………」
「ね、ニィ」
「………………」
「ニィ~、ニィニィ~?」
「……それはさすがにやめでぐれ……」
「っふふふ、はーい」
可愛らしい反応にひとしきり笑って、はぁ、と息を吐く。
ふわふわと浮ついた心を落ち着けるため、ローザはすっかり冷めたカモミールティーを口に運んだ。
「……ろ、ローザ」
「んー?」
そわそわしながらも言われた通り自分の名を呼ぶニゲラに、いつも通り微笑んで返事をする。
すると、隣の少年は少し視線を泳がせた後――意を決したようにローザを見つめ直し、形のいい唇を開いた。
「い、一緒に活動する、って話……」
「……ああ!」
その言葉に、ローザは目を見開いてぽん、と手を合わせる。
「……忘れてた?」
「わ、忘れてないよ~!」
忘れてはいなかったが、意識的に考えないようにしていたのは事実だ。
……だって、下心があって彼の特訓に付き合っているという形になってしまうのが嫌だったから。
「……それで、その」
「うん」
「…………まだ、俺のこと……」
「っふふふ」
もじもじと膝の上で手を動かす様子がいじらしくて、思わず笑みをこぼす。
そして、クッションに腰掛けている体の向きを変え、ほんの少し不安そうに眉を寄せているニゲラに向き直った。
「うん、一緒にやってほしいなって思ってる」
「……っ、」
「それどころか……前よりももっと、いいなって思うようになっちゃった」
この一週間、限られた時間を共に過ごす中で、ローザはニゲラのいろいろな顔を知った。
クールなように見えて、実際はとても素直でシャイなところとか。
人一倍努力家で、やると決めたことへの努力を惜しまないところとか。
寝る前に電話すると、気が緩んでいるのかいつもより饒舌になるところとか。
「だからね、一緒にやるなら……ニィ以外は考えられないなって」
それは一週間前と変わらず、心の底からの言葉だった。
「もし、ニィも同じように思ってくれるなら……一緒にアイドル、しよ?」
ほんの少し早鐘を打つ心臓の上に手のひらを置きながら、深い色の瞳を覗き込む。
なんかプロポーズみたいだ、と頭のどこかでぼんやり考えながら、ニゲラの返事を待っていれば――
「……俺も……」
膝の上に乗せていた片手を、そっと掬い上げられた。
「俺も……ローザがいい」
「……ほんと?」
「ああ。一緒にやるのは……ローザ以外ない、と思う」
そう言ってローザの手をぎゅっと握り締めてくる両手のひらは、真っ赤な顔に違わず高い熱を孕んでいて。
「っふふ……じゃあ、よろしくね。ニィ」
「ん……」
……本当にいじらしい子だな、と。
何とも言えないむず痒さを感じながら、ローザは微笑むのだった。