異世界転生を考察した結果、テンプレに逆らうことにした
10/27:一部修正
『テンプレ:雛形、定型文。あらかじめ決められた形式』
髪はピンクブロンドのふわふわロング。澄んだ空の色をした瞳はくりくりパッチリ。スッと伸びた鼻筋の下に置かれた唇は艶々プルプル。華奢な手足のくせに出るところは出て、引っこむべきところは引っ込んで。庇護欲をそそりながらも溌剌とした雰囲気を持つヒロイン。
下町で2人で暮らしていた母が儚くなって、10歳で身寄りも無く孤児院に移った1年後に現れる実父。
結婚前にイチャコラしたが、突然姿を消した彼女に娘が居たなんて、と泣かれ謝られ。引き取られた男爵家では、正妻である義母と異母妹に『平民の娘が』と睨まれ蔑まれ。
それでも持ち前の明るさと機転で使用人などの周りを味方に付けて、冷遇されながらもタフネスに生き抜くヒロイン。
義母のせいでろくに教育も受けていないのに、14歳になると貴族の義務だからと貴族学院に入学を強制されて。マナーも礼儀もなってないと、同級生からも上級生からも冷笑されて。『私が何をしたと言うの……』と涙を堪え、悔しさをバネに授業に食らいつくヒロイン。
そこに現れるヒーローたち。
キラキラ王子様から側近候補のお偉いさんの息子たちはお約束。情報ギルドの幹部は孤児院時代の先輩だったり、一匹狼の魔術師は陰キャの天才肌だったり、笑顔が素敵な先生は実は腹黒王弟殿下だったり。
健気に頑張るヒロインを、陰に日向に励まし、支え、やがて生まれる特別な想い。
それが気に食わないライバルたちは、あの手この手で『平民上がり』を蹴落とそうと画策するも。中にはヒロインの気丈さに感心したライバルと、認め合った末に芽生える友情。
果たしてヒロインは卒業までに、貴族としてのマナーと礼儀を身に付けることが出来るのか?
そしてヒーローたちとのめくるめく恋の行方は――?
「知るか」
乙女育成ゲーム『いつか見たあの花の名は』のあらすじを思い出したわたしは、鏡の中のピンクブロンドを見つめて吐き捨てた。
なんだそのテンプレオンパレード。
いっそ、天ぷらの盛り合わせをマスコットキャラクターにでもしてくれれば可愛げがあるものを。
まぁ、とりあえず何回かはやったけど。イラストが好きな絵師さんだったけど。キャラクターたちもわりと魅力的で面白かったけど。時々睡眠時間削っちゃって次の日やばかったけど。推しのグッズも相当買ったけど。
……はい、ハマってましたよ。面白かったよ、確かに。『ゲーム』としてはね。
でもそれが、『異世界転生』で自分の人生となると話は別だ。
そもそも。10歳で唯一の庇護者であった母が死んでしまって、悲しみに暮れる暇もなく孤児院に来て、やっと生活に慣れたかな、と思う1年後。いきなり現れた男に『父親だよ』なんて言われても喜べない。喜べるはずもない。戸惑いしかない。
男爵とはいえ、貴族の嫡子に手を付けられた平民女性が突然姿を隠す理由なんて、ちょっと考えたら分かるだろう。それを疑問にも思わず探しもせず。孕った当時、手切れ金を渡しに来た男爵家の執事に、死期を悟った母親が娘の行く末を憂いて送ったダメ元の手紙。それを偶然読んだ現男爵当主の父親が、娘の存在を知って慌てて迎えに来る、とか。
怠慢。不誠実。脳みそミジンコにも程がある。
あ、これはミジンコに失礼だった。彼らは単体で子孫を増やす。
イチャコラの結果、放置していたどこぞの父親とは雲泥の差だ。
だいたい偶然執事の手紙を読んでとか、ご都合主義がヘソで茶を沸かすわ。
そんで迎えられた男爵家で待っていたのは、義母からの陰気な虐め。
暴力こそないが、まともなご飯すら与えられない上での精神的苦痛を伴う言葉は、パワハラモラハラレイハラのオンパレード。
レイハラは、母の母、祖母が隣国の血を引いていたせいなのだが、そもそも祖母が隣国の人だったなんて、義母から言われなかったら知りもしなかった。そんなの、言われてもどうしようもなくね?というのが、前世で読んだ攻略本の裏設定を思い出した感想。
というか義母はその情報はどこのソースから手に入れたの?ウスター?オイスター?
『それでも持ち前の明るさと機転で使用人などの周りを味方に付け』って。いや、それってどれだけ労力がいるの?
飯は食わすな、泥水でも与えとけって義母からの命令に、粛々と従うしかないのがしがない使用人の立場だよ。絆されて残飯でもあげようものなら、うっかりバレた日には即刻クビの現実が待っている。
常識的な正義感やモラルを持つ人は、年端もいかない幼子への仕打ちに加担することに罪悪感を抱くだろう。
けれど、彼らだって仕事がある。背負っている家がある。養うべき家族がある。
男爵家に仕える使用人なんて、ちょっと裕福な平民や、上昇志向のある平民や、止むに止まれず貴族に仕えた平民ばかり。半分は男爵の血を引いているからって、元は自分らと同じ『平民』であった者と、自分が抱えるものや立場を天秤にかけるのは当たり前。
温情をかけるべきか否か。どちらに軍配が上がるのかは火を見るより明らかだ。
そんな彼らの心情を覆すって、どれだけ頑張らないといけないの?無理でしょ。
万一彼らを味方に付けられたとして、それがバレないように、みんなが常に気を張り詰めなきゃならない。もしかしたら、我が身可愛さに告げ口する者が出て来るかもしれない。
実際、バレてクビになった侍女に、涙ながらに謝罪するヒロインとの別れのシーンがオープニングにあった。
画面越しに見ている分には、『良い人だった……』で終わったけど、結局彼女のその後の人生はどうなったの?紹介状もなく、男爵とはいえ貴族家をクビになった平民の末路なんて、よっぽど運が良かったり周りに恵まれてないと悲惨だよ?
彼女はそこでフェードアウトし、攻略本にも書いてなかった。所詮はモブ。それがゲーム。
そんで。次はなんだっけ?あぁ、そうだ貴族学院だ。
いやいや、そんな家庭……ではないな。そんな生活状況で、まともな貴族教育が受けられるはずがない。
なのに『貴族の義務』だからと、14歳で突然貴族が集まる学校に通えと言われる。無理でしょ。
ちなみに父親はこの時点まで全く出てこない。娘を引き取っておきながら、家に居ないのである。
まぁ末端の男爵家とはいえ、貴族である。持っている領地もあるだろうし、担うべき仕事もあるだろう。
だがしかし、夫としても父親としてもアウトだ。
考えてもみろ。正妻として嫁いで来て、娘ではあるが後継をきちんと産んだにも拘らず、突然結婚前のイチャコラで出来てた娘を引き取る、なんて言われたらそりゃぁ義母だって怒髪天を衝くわ。
そこは前以て、『実は……』と誠心誠意と反省を込めた謝罪と謝罪と謝罪と謝罪を重ねた上で、土下座で妻にその娘を認知して引き取っていいかのお伺いを立て、許可を得るべきだろう。
これが高位貴族ともなると話は変わって来るが、今は男爵程度の事情だ。割愛する。
なのに、『男爵程度』の父親はその辺を全部すっ飛ばして、突然若気の至りの娘を連れてきたのだ。
しかも引き取ったらそのまま義母に丸投げし、様子を見に来もしない。義母の心中、推して知るべしである。
それを察することが出来ない父親の脳みそはミジンコ以下だ、ゾウリムシだ。
あ、これはゾウリムシに失礼だった。彼らは環境に適応した状況に合わせて、無性、有性生殖で子孫を増やす。
イチャコラの結果、放置していたどこぞの父親とは(以下略)。
とまぁ、受ける冷遇もなかなかしんどいものではあるが、そうしたくもなった義母の気持ちも分からんでもなくはない。
あ、異母妹はまだ幼いながらも母親の機微を敏感に悟って、義母の味方。そりゃそうだ、大好きなお母さまが悲しんで怒ってたら、その矛先にいる人間に好意なんか持てっこない。
でもなぁ。『ひもじい』というのは、人間の三大欲求の一つがヒールでグリグリと腹を抉られるようなもので、相当ダメージが大きいのよ。正直言って耐え難い。
なんで実感めいた表現かというと、前世でそんな経験があるからだ。
大学生だった頃に某ウイルスが全世界を席巻して、勤めていたアルバイトは軒並みクビになり。太くない実家の仕送りだけでは学業と私生活の諸々を補うにはなかなかに困難で……あ、思い出すとちょっと涙出て来た。
おほん。とにかく、ひもじいは危険。ひもじいはアウト。ひもじいはおにぎりが欲しくなる……あ、また涙出てきた。
ていうかさ。
全く貴族教育も受ける機会を与えられなかった『庶子』が貴族学院に入って大丈夫なの?
改めて考えてみると、貴族学院に入るには『当主』のサイン入り認可証が必要となる。当然、認可証のサインは当主しか出来ない。もし教育が不十分な子息息女を学院に送り込んだ場合、彼らの失態は全て各家の責任に処されるからだ。
なのに、男爵家当主であるはずの父親は認可証にサインをした。ということは、引き取った娘の現状を全く認識していなかったということになる。
ざけんな、もげろ。ハゲろ。肥えろ。あ、体型は既に……。
閑話休題。
とにかくそんな感じで、放り込まれることになった『貴族学院』。
『マナーも礼儀もなってないと、同級生からも上級生からも冷笑されて。『私が何をしたと言うの……』と涙を堪え、悔しさをバネに授業に食らいつくヒロイン』だったっけ。
……言いたくもなるよな。
何しに来たん、お前って。
そもそも貴族学院に入学する時点で、最低限の貴族教育は終了してるはずなんだよ。なのに全くその辺を知らない『平民もどき』の『貴族』が居たら、言うよね。言うだろ。言わざるを得ない。
上位貴族ならオブラートに包んで。下位貴族なら直接的に。そりゃ言うわ。だって、彼らはそれらをパスしてこの学院に来たんだもの。
こちらの家庭……じゃなかった、生活環境なんて知らない彼らが、『貴族』のための学校に紛れ込んだ、『貴族』のなんたるかもを知らない『平民』に白い目を向けるなんて、当たり前がヘソで茶を沸かすわ。
それらに耐えながら授業に食らいつくって、どんだけのエネルギーを必要とされるわけ?
こちとらここに来るまでリアルに泥水啜って生きてきたんやぞ。エネルギーなんて生命維持に全部回してきて、他所にやる余裕なんてないわ。
まぁ、一応学食はある。貴族の学校だから上位貴族用の『コース』は支払いが発生するが、下位貴族向けの定食は無料。それでエネルギー補給は出来る。けれど。
成績の上下位によって、頼める無料定食はランクが変わる。
ランク1番のローズ定食は、スープ、サラダ、メイン、サイド、デザート、ドリンク。
ランク6番のドクダミ定食は、メイン、サイド。だけ。
あ、水は飲み放題。
ローズ定食は、これで上位貴族の『コース』より格段に劣るワンプレート。らしい。
『コース』ってどんなものなのよ。詳細は攻略本にも書いてなかった。
てか、ランク最下位が『ドクダミ』って。
謝れ、ドクダミに。ドクダミすごいんだぞ。その辺に生えてる雑草に見えるのに、血圧を下げて殺菌効果も持ってて、利尿作用も便秘改善も施し細胞組織も保護してくれて、血液循環、神経痛、動脈硬化、高血圧、アトピーにも効果があるとされてるんやぞ。
前世でわたしもどれだけお世話になったか。ありがたや、ドクダミ様。
あぁ、また話が逸れた。涙も出て来た。
とどのつまり、勉強を頑張るためにはエネルギーが要る。けど最初からエネルギー不足のわたしが上のランクの定食を食べようと思ったら、まずなけなしのエネルギーを勉強に費やさないといけないわけで。
ねぇ、これどんなニワトリタマゴ。
エネルギー補給が学業の優劣次第だなんて世知辛いが過ぎる、とは前世でゲームをやった時に抱いた感想。
そろそろ考えるのも疲れて来た。
とまぁこんな次第で、頑張れば、ヒーローたちやライバルたちとのキャッキャうふふな学院生活を楽しめるようになるかもしれない。
が、そこに至るまでの消費エネルギーが半端ないのだ、この『ゲーム』を人生として歩もうと思ったら。
ハード過ぎる。わたしには荷が重い。
「さぁて……どうしようかしらね」
改めて見た鏡の中のピンクブロンドはまだ幼い。だって10歳だ。
ゲームで知ってるヒロインは、オープニングが終わった後の14歳。そこから貴族学院入学に突入する。
整理しよう。
母のお葬式が終わり、家で悲しみに暮れていたわたしが泣き過ぎて疲れて眠ったのち、起きたら前世を思い出していた。
同時に、自分の姿形と周りの環境、それから住んでいる街や国の名前から、ここが『いつか見たあの花の名は』の舞台だとすぐに分かった。推しグッズ買い漁ってたくらいだからね。 色んな事が記憶にあるゲームのあれこれと符合して、びっくりもしたけど、どこか冷静に『あぁそうなんだ』ってストンと納得していた。
ところでわたしはなんで死んだんだろう?
20代半ばくらいまでの記憶はある。でも『日本で生きていた』とか『この時はこう感じた、考えた、思った』とかの記憶が知識としてあるだけで、生い立ちとか死因とか、そういった直接『前世』に絡むようなことは何も覚えていない。
……まぁいいか。これからのわたしには必要ないものだと思うことにする。
母と暮らした記憶はある。亡くして悲しい気持ちも本物だ。だからこれは『異世界転生』で間違いないと断言して良いだろう。
孤児院に移るのは3日後。日にちに余裕がないのはしょうがない。ここは借家で、家賃が払えなければ住めなくなるのは道理だ。
3日後には近所の人が、この街の孤児院にわたしを連れて行くそうだ。
10歳児に過酷だと言うなかれ。ここは色んな人権や法が整備され、平等が憲法に記載されていた現代日本とは全く別の世界、価値観、国である。この国では子供だからといって保護されるような法はない。
まだ孤児院まで連れて行ってくれるだけ、近所の人には善意がある。大家さんだって3日も待ってくれるのだ。有難い。
今から1年後、孤児院に『父親』がわたしを引き取りに来る。
ゲームのスタートまではあと4年。
『自分が何者か』に気付いてしまった『今』。
母から、周囲から、教えられたこの『世界』の価値観を、『前世』の自分の価値観と擦り合わせつつ、これからの人生プランを練る必要がある。
わたしは『今』と『前世』の知識をフル動員し、これからの対応を考えた。
◇ ◇ ◇ ◇
「え……いない?」
「はい。そのような名前の女の子は、うちではお預かりしておりません」
「そ、そんな。その子が住んでた近所の人が、1年前、確かにここに連れて来たと」
「と、申されましても……ええと、ピンクブロンドの髪ですか?」
「そう、そうだ。その子の母親と同じ髪の色で、近所の人の話だととても可愛らしい子だったと」
「そんな珍しい髪の色でしたら、見たら忘れないと思うのですが……生憎、こちらではそのような髪の色の女の子はおりませんので……」
「そんな……」
孤児院の入り口に構えてある門の前で、シスターの返答を聞いた小太りのおっさ……中年の男性は、途方に暮れた顔で立ち尽くしている。確かにあれはヒロインの『父親』である男爵だ。オープニングに出ていたのを覚えている。
建物の物陰からこっそりと覗き見て、わたしはこれが『父親が娘を迎えに来るシーン』だと確信した。
それからも何度かシスターと問答を繰り返していたが、本当に娘はここにいないのだと理解したのか、しばらくして男爵は肩を落として帰って行った。
アディオス、パパン。あんたはしっかり正妻ともう1人の娘に愛情を注ぎなさいよ。
そうして、男爵家の馬車が去って行くのを見送って。
その姿も見えなくなってから。
よし。よし。
よっっっし!!
やったぞわたし!やれたぞわたし!これであのリアルに泥水を啜る生活から逃げられた!
わたしは思わず握った両手の拳を突き上げた。
1年前、人生プランを考えに考えたわたしは、まずは大人しく近所の人にこの孤児院に連れて来てもらった。だが中には入らず門の前で丁寧にお礼を言って、近所の人には帰ってもらった。
それからわたしは、そのままその孤児院ではなく、隣町の孤児院に向かった。
このままこの孤児院に入ったら『ピンクブロンドの女の子』の足跡が残ってしまうからだ。
そうして隣町の孤児院に身を寄せたわたしは、まず少しずつお金を貯めた。
孤児院は、ただ子供たちを預かって育てるわけではない。16歳になると孤児院を出て、自らで食い扶持を稼がなければならなくなる。なので、孤児院にいるうちに得手の職を探しておくのが常だ。
その際、ある程度大きくなった子たちは町に働きに出ることもある。給与はどうしても相場よりは安いけど、ゼロよりはいい。そのお金は孤児院に入れてもらって、みんなの生活費や建物の修繕に使われる。
だが、給与全部ではない。自分で稼いだお金である、多少はお小遣いとして残してもらえるのだ。
わたしはこの制度を利用した。
わたしはまだ10歳だったが、手先が器用だった母はわたしに裁縫や刺繍を教えてくれていた。すごく上手いわけではないが、小さいシンボルやイニシャルくらいなら、飾り縫いを駆使してわりと見栄え良く仕上げる程度には技術もあった。
ハンカチや靴下、手袋といった小物にシンボルや縁飾りを縫って、小間物を扱う店に持って行く。商品になると認められた品は店に置いてもらえて、売上げの一部を支払ってもらう。その中の更に一部がお小遣いになり、わたしはそれをせっせと貯めた。
一月もするとわたしの刺繍を気に入ってくれたお客さんが、個人的に頼みたいと言ってくれようになった。引き受ければ、お小遣いの額も増えるだろう。けどこれは後々にちょっと困るかもしれないと思って、今はまだ手が遅くて孤児院の仕事に支障が出るからと、丁重にお断りを入れた。
お金を貯め出して3ヶ月。ようやく目的の額に至ったわたしは、『親戚が見つかったから』と言って孤児院を出て行った。
ピンクブロンドは目立つから、スカーフを被って頭髪を隠し。向かったのは、元住んでいた街にある、ある雑貨店。
実はこの街、キラキラ王子様ルートの時に、王子が『君の育った街を見てみたい』と言ってお忍びデートで訪れることがある。その時一緒に入った雑貨屋に、お金を貯めた目的の品があるのだ。
ゲーム中で買い物の選択肢には出て来ないが、猶予の三日間でラインナップにそれが並んでいたのを思い出した時、思わず『天啓を得た!』とガッツポーズをしたくらいだ。
それは髪の染粉。それも、一回染めたら2ヶ月は抜けないという優れもの。しかもわりと値段も安くて、孤児がお小遣いを3ヶ月貯めて買える程度だ。
いや、なんでそんな良いものがそんなにリーズナブルなの?と思わなくもないが、ここは異世界、ゲームの舞台。且つ、日本とは価値観とかも違うのだ、深く考えないことにする。
ちなみに、本当は前の孤児院で半年くらいは染粉代を貯めるつもりだった。でも、わたしの刺繍が思ったよりも良い値段で買ってもらえるようになって来たことと、3ヶ月の間にわたし自身の腕も上がって、仕上がり期間が短縮出来るようになっていた。
この分なら、元の孤児院に行っても半分のペースで染粉代が貯まるだろう。
そう考えたわたしは、思い切って3ヶ月で次の行動を起こすことを決めた。
そうして髪を黒く染めたわたしはついでに長さもバッサリ肩まで切って、元々行くはずだった孤児院の門を叩いた。
この孤児院に戻ってきた理由は2つ。
1つは、9ヶ月後の『お迎え』を本当に回避出来るのかを自分の目で確かめたかったから。
これは、ちょっと危険が伴うことも解っている。髪の色と長さを変えたからって、元のわたしを知っている人と会えばバレる可能性がある。だけど孤児院は住んでいた場所からは結構離れているし、10年間住んだとはいえ、子供の行動範囲は極端に狭い。
あの辺りに寄らなければ、そうバレることもないだろうと楽観しているのもある。万一ばれたら全力でシラを切る。切り通す。10歳児がそんな演技をする意味はないのだ、きっと他人の空似で済ませてくれる。はずだ。多分。
もう1つは、わたしの推しだった攻略対象、のちの情報ギルドの幹部になる先輩孤児がここにいるからだ。
ゲームみたいに学園で、色んな攻略対象やライバル令嬢たちとキャッキャうふふするつもりはない。だがせっかくこの世界に転生したのだ。推しを近くで愛でたい、あわよくばお近づきになりたいというのは自然な願望だ。欲望だ。本能だ。異論は受け付けない。
こうして9ヶ月間、やはり刺繍でお小遣いを貯めつつ髪を染めながら、わたしはこの孤児院で生活の基盤を作った。
ちなみにこっちでもお客さんに個人的な刺繍を頼まれるようになったが、今度は快く引き受けた。
前の町で断ったのは、あっちで顔と名前が売れすぎると、こっちで作ったわたしの刺繍を見た人の中に、ピンクブロンドと黒髪の女の子が同一人物だと気付かれる可能性が高くなると思ったからだ。
その判断が功を奏したのか、9ヶ月経った今、わたしの正体はバレていない。
ちなみに名前も変えている。平民の孤児に戸籍なんてないからね、問題はない。
「おい。何してんだこんなとこで」
「うひょあ?!」
突然背後から声をかけられて、頑張った1年間の思い出に思いを馳せていたわたしは盛大に驚いた。
変な声出ちゃったじゃないか!
「びびびびっくりしたぁ」
「なんでだよ。なんか悪いことでも考えてたのか?」
「そんなわけないでしょ!突然後ろから呼ばれたら誰でもびっくりするわよ!」
噛み付くわたしに、赤い髪の先輩孤児はカラカラと笑う。
その屈託のない笑顔は、記憶にあるスチルよりいくらか若いけど、わたしが大好きでグッズも推しぬいもたくさん買った推しのそれで。思わず目が離せなくなったわたしの顔は、少し熱をはらんでいた。
「院長が呼んでたぞ。またお前に刺繍を頼みたい人が来てんだってさ」
「え、そうなの?」
「お前の刺繍、前より腕上がってるしな」
「そ、そう? えへへ、嬉しいな」
推しに褒められて嬉しくない人なんているはずがない。照れつつ笑ったわたしを見た推しは、ちょっと顔を逸らして赤い頭をぽりぽりと掻いた。
「そのうち……俺にも、お前の刺繍のハンカチくれよ」
「え」
「い、急がねぇから!じゃ、伝言伝えたからな!」
そう言った推しは、髪に負けないくらい赤くした耳のまま、ダッシュで逃げて行った。
え、なに今の。わたしの刺繍?ハンカチ?え、そう言った?わたしの願望が、都合のいい空耳を起こしたんじゃなくて?
そりゃ、あわよくばなんて考えて、攻略する時のポイントとか押さえて来たけど。
でもここは、ゲームの舞台ではあるけど現実なわけで。彼もゲームのキャラクターではなく、ちゃんと1人の人間なわけで。だから、ポイントを押さえたからってゲームみたいに好感度が上がるとは思ってなかったわけで。
でも。だけど。
何が利いたのか、わからないけど。
彼からの言葉が、わたしが選んだ道は間違っていなかったと、教えてくれた気がした。
これからも、わたしは絶対、テンプレには負けない!
なろうの基礎課題に挑戦