第13話 一度目の人生・黒い羽根と祈り
とりあえず、血の付いた部分を内側に折りたたんで、ゴミ箱に入れようとした。
が、手ぬぐいの薄い生地では、血がにじんで見えてしまっている。
ウィスティリアは少し考えて、使っていない別の手ぬぐいをもう一枚、引き出しから取り出して、血まみれのそれを包んだ。
「血は、見えないよね、これで……」
本当は、喀血したことを知られないようにウィスティリア自身で燃やして処分したかった。だが、熱のあるウィスティリアが、子爵家の屋敷の裏手に設置されている焼却場にまで向かうのは不自然だ。
使用人の誰かに燃やしてもらうしかない。
「ごめんね、メアリー、モーリン。夜中に、ちょっと吐いて……。手ぬぐいを汚してしまったの……。ゴミ箱に入れてあるから、それ、そのまま捨ててくれる?」
様子を見に来てくれたメアリーたちに、ウィスティリアはベッドの下に置いたゴミ箱を指で指示した。
「洗えばきれいになりますよ。ガシガシ洗ってもだいじょうぶです! お嬢様からいただいたハンドオイルのおかげで、今年はあたしたちの手、あかぎれとか全然ないんです!」
「ホントお嬢様には感謝ですっ! オイル、すごいですっ!」
メアリーたちは笑顔で自分たちの手の甲をウィスティリアに見せる。
あかぎれになどなっていない、きれいな手が、そこにあった。
「なくなったらまたお嬢様と一緒に作りたいなあ……なんて。すみません、ずうずうしいですよね」
だから元気になってほしいという気持ちが伝わってきて、ウィスティリアは泣きたくなった。
(ごめんね。もう、作ってあげられなくて)
一緒に厨房で、皆で過ごした時間。
あのしあわせをもう一度……とは思う。
思うけれど、もう、ウィスティリアは疲れてしまった。
あの時のしあわせな時間に戻りたいというよりも、もう楽になりたいという気持ちのほうが強い。
「ううん。わたしの病気がメアリーたちにも感染するかもしれないから。触らないで、燃やしたほうがいいと思うの……」
胸の中で謝罪を繰り返す。
もうがんばれなくてごめんね。
嘘をついてごめんなさい。
「そう……ですね。わかりました。これはこのまま捨てさせていただきます」
「ごめんね、ありがとう。これからもこういうことがあるかもしれないから、アンソニーに新しいものを何枚か買っておいてもらうよう、伝えてくれる?」
使用人たちには喀血していることを隠したかった。
医者からもらった薬も、もう飲むつもりはない。
消極的な自殺。
このまま、病魔に蝕まれて、そして死ぬ。
ウィスティリアは自身の命が終わる時を静かに待った。
熱は上がる一方だった。
咳は止まらず、血を吐くこともしばしばだった。
さすがにそろそろメアリーたちをごまかせないか……と思ったころ、リリーシアの誕生パーティの日が、間近に迫ってきた。
「ねえ、風邪はまだ治らないの? パーティではリリーシアにも招待客の皆様にご挨拶をしてもらわないといけないの。リリーシアが何か粗相をしないように、ウィスティリアについていてもらわないと。わかっているわね?」
母親にそう言われて、ウィスティリアはベッドに横たわったまま「当日までには……」と言った。
「そう。わかっているのなら、いいわ」
母親は、ウィスティリアの体調を気遣うことなく、言いたいことだけを言って、去っていく。その母親の後ろを侍女のジャネットが申し訳なさそうな顔でついて行った。
意識がもうろうとしてくる時だってあるくらいなのだ。参加など、できようもない。ましてやあのリリーシアの面倒を見るなど論外だ。
母親の態度に、ますます心が冷えてくる。
父親も、リリーシアも、見舞いなどには来ない。
誕生パーティの準備に忙しいのだろう。
誕生日前で浮かれているリリーシアの甲高い笑い声が聞こえてくるたびに、ますます死への憧憬が深まってくる。
早く、早く。さっさと解放されますように。
神様がお迎えに来てくださいますように。
願う。
けれど。
「お嬢様、エドがですね、リンゴとプルーンを水とはちみつで煮たものを作ったんです。その煮汁というか、シロップをですね、冷やしたそうですよ。あたしもちょっと味見させてもらったんですけど、冷たくて甘くておいしいんです」
気持ちに感謝して、二口だけ、シロップをすするようにして飲んだ。リンゴの酸味とプルーンの甘さ。口の中に広がる優しい味が嬉しくて、涙が出そうになった。
「お水も飲めますか?」
「うん……」
起き上がれないウィスティリアのために、スプーンでシロップや水をすくって、ウィスティリアの口元まで運んでくれるメアリー。
「ありがと……」
小さく呟く。
メアリーは「早く元気になってくださいね。みんなまた、お嬢様と一緒に果物とか食べる機会を楽しみにしているんですよ」と小さく微笑んで、退出した。
優しさに、涙があふれてくる。だけど、ごめんなさい……と、心の中でつぶやくことしかできない。
エドやミゲルが剥いた果物を一緒に食べて、薄いお茶を使用人のみんなと一緒に飲んだ。
楽しかった。
幸せだった。
「使用人と、雇い主の娘……、本来は、それだけの関係でしかない……のにね。本来の仕事以外に、余計な世話をかけているのに、みんな優しい……。でも、わたし、もう、疲れたの……。解放されたいの……」
奪うだけのリリーシア。
理不尽な命令を当然と思う両親。
こんな人生をずっと続けたくない……という気持ちのほうが、どうしたって強い。
「当てつけみたいに、パーティの最中に、倒れてそのまま死んだら最高かしら。熱があって、具合が悪いのに、妹のパーティに無理矢理参加させられて……、そこでって……」
なんて意地の悪いことを考えているのだろう……と恥じて、ウィスティリアぎゅっと目を瞑った。こんなことを考えていたのでは、神の国になど行けるはずもない。
両手を組んで、神に祈る。
ごめんなさい。悪いことを考えました。だけど、わたし、もう……疲れてしまったんです。許してください。
すると……、ウィスティリアの耳元に「承知した」という甘やかな声が響いてきた。
「え?」
今の声はなんだ?
驚いて、目を開ける。
当然、ウィスティリアの部屋の中には誰もいない。
「空耳……だったのかしら……。それとも熱による幻聴……。まさか……本当に、天使様か神様のお声……?」
呟いたウィスティリアの頭の上から、ふわりと、羽根が一枚降ってきた。
「え……?」
カラスのように黒い。
手に取って、透かしてみると青みがかっていて、それはとても美しい光沢まで帯びていた。
「どこから降ってきたの……?」
もしかしたら本当に、この羽根は神様からの承諾の現れなのかもしれない……。
羽根を持ったまま、胸の前で両手を握りしめて。
ウィスティリアはずっとずっと、神への祈りを捧げ続けた。




