2章 小さな同郷人 1
どこをどう歩いているのか、通い慣れた道なのにまったくイメージできない。駅に向かわずに左へ折れて、線路を見渡せる坂道を上った気もするし、そうじゃない気もする。ただ、行き着くところまで向かえと、浄化されずに繁殖した澱の塊が囁いていた。
たぶんそれは人間不信。この先少しでも刺激されれば、待ったなしに爆発してしまう危険きわまりないもの。降下、轢死、消滅、そんな飛躍した言葉も浮かんでは消える。
けれどナオミが消えたところで胸を撫で下ろす人はいても、哀しむ人は誰もいないはずだ。ナオミの生きざまは偽善者の讒言によって抹消されてしまうから。
(むごすぎる)
ナオミは両手で顔を覆って道端にしゃがみ込んだ。
刻々と時間がすぎる。夜のひんやりとした空気が肌を突き刺し、心を抉る。ナオミはふたたび歩きだした。
公園に着いた。人の気配はなさそうだ。気が緩むと、泣くまいと誓った目から不意に涙がこぼれ落ちてきた。次から次にとこぼれてくる。ナオミは空を仰いだ。感じるはずの月もわからなかった。
杖もつかずに、ふらふら夢遊病者のように歩く。鉄柵に触れる。杖をその場に置き、身を乗りだした。
「どうするつもりだ、飛び降りるのか」
絶望に身をまかせたとき、足もとから声がした。でも悪意は感じられない。
ふっと我に返る。
かがみ込んで声の在りかを探ると、小さな気配。大きさは鼠ほど、いや、その半分ぐらいかもしれない。
「あなたは……人間なの?」
「答えにくい質問だな。俺の住む世界ではそうであっても、ここでは違うような気がするからな」
「えっ……、なら小人さん?」
ナオミは言葉の反射、音の反響によって、おおよその形状を認識した。まぎれもない人の形、小さいだけの人。
「仮にそうだとしても、そんなことはどうでもいい。あんたは身を乗りだして、死のうとしてたんじゃないのか。飛び降りるつもりだったんだろ」
「かもしれない。でも、その勇気がなかったの」
「生きる勇気はあるのか」
つらい切り返しだ。ナオミは返答に窮した。あるかといわれれば、あると答えたい。けれど生きる勇気はあっても生きる自信はなかった。一人暮らしの盲人が生き抜くには、やはりこの世界は過酷すぎるのだ。
「答えにくいなら、別に答えなくてもいいが、あんたに頼みがある」
「頼み?」
嫌な予感がしなくもない。けれど失うものもない。
「それは。私にできることなの」
「できるさ」
小人が、かがむナオミの服をよじ登ってくる。膝の上にちょこんと飛び乗った。「頼むから飯を喰わせてくれないか。じつは腹が減って死にそうなんだ」
小人をバッグの中に入れ、家へ連れ帰った。夜食用のカップヌードルにお湯を注ぎ、小皿に移して食べさせた。よほど美味しかったのか、最初は毒見をする感じで食べはじめたが結局スープも全部飲み干した。
落ち着くとナオミは尋ねた。
「どうして、あのとき声をかけたの。私が飛び降りると思ったから?」
小人は面倒くさそうに答えた。
「それもある。だが、いちばんの理由は俺も困っていたからさ」
「困るって、何に」
「あんた、目が見えないんだろ。それにしちゃ人の心を読めないな」
ナオミは、はっとした。この世界で困窮しているのは何もナオミだけじゃない。この世には盲人もいれば身体に障害を抱える人もいる。突発的に怪我をした人も病気になった人もいるのだ。目の前の小人もそう。ナオミの手のひらにも満たない大きさで、この世界を生き抜くのは相当に困難だ。猫も鼠も犬も、人間と思わないで攻撃してくるだろうし、鴉にもついばめられる。そもそも生活する場所すらないだろう。
「あなたの、名前を教えてくれる」
「吾作だ」
小人がぶっきらぼうに答えた。
「行くあてはあるの」
吾作の返答はない。どうして人間界にきたのか理由はわからないけど、空気の感じから判断すると、よんどころない事情で迷い込んでしまった気がする。腹も空かせていたし、食べるものも住むところもないに違いない。
「よかったら、ここにいてもいいのよ」
この人も孤独で不安なのだ。それでいて弱みを見せずにあっけらかんとしている。その言動は、挫けやすいナオミにとって大きな励みになる。
「同情なのか、それとも憐れみか」
「両方よ。そして私の励み」
「励み?」
思ってもいなかったのだろう、吾作の声が弾んだ。
「よし契約成立だ。その代わり腹いっぱい飯を喰わせてくれよ。栄養を考えてな。もちろん酒もだぞ。それから、あんた縫もんはできるかい。縫えたら服を作ってくれないか。俺はこう見えても清潔好きなんだ。あと風呂は一緒に入れないぜ。高潔だからさ」
吾作が矢継ぎ早にまくしたててきた。ナオミは、ぷっと噴きだした。笑うなんて、いつ以来だろう。
「はいはい、仰せの通りに」