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職場内が妙によそよそしい。挨拶を返す院長の言葉もどことなく沈んでいる。玄関、通路、あちこちに漂うぞっとする残り香が男のものだと知らせている。反射的に辺りを見回した。いるはずもないのにどこかに潜んでいるようで、全身に鳥肌が立った。
「今、大変だったのよ」
受付の事務員が声をひそめて呼びとめた。ナオミは少しの間も置かずに答えた。
「変な男が来たんでしょ」
「そうなのよ。院長の息子で一平っていうんだけどさ、金庫のお金を、勝手に持っていったの」
「院長の息子? 高校生じゃないの」
「もう一人いるのよ。でき損ないがね」
事務員が、首を回して周囲を見た。「ヤクザなの」
言葉がつまった。聞いてはならないことを聞いてしまったというだけではなく、院長の息子なら、ここで仕事をしている限り、ひょんなことで顔を合わす可能性も有りえるからだ。
反面、どうしてナオミはそこまで怯えるのだろうかと自問した。彼とは道ですれ違っただけの間柄。たとえ院長の息子であろうとナオミとは何の関わりもないのだ。
そう打ち消そうとしても、これまで目にしたことのなかった毒々しい赤い色が、ナオミの前に立ちはだかり、覆いつくすかに圧しかかってくる。
嫌だった、生理的に。
その思いが影響したのか覇気のなさを責任者に叱責され、勤務終了間際に院長から呼びだしを受けた。初ペナルティーだ。自分で自分が情けなかった。白衣を脱いで私服に着替えても、その落ち込んだ気持ちを拭い去ることができなかった。
同僚はみな帰宅し、通路もリハビリ室も静まり返っている。ナオミは院長室の扉をノックした。と、そのノックの音を掻き消してしまうほどの声が室内から響いた。
「獲物? 何を言いだすんだ。勝手に金を持ち出して、今度は言いがかりか。大概にしろ」
電話の相手が誰なのか、声のトーンで、すぐにぴーんときた。さらに獲物という危険な用語。聞きたくもない会話だった。どうしよう、すでにノックをしたのでナオミが来ていることを院長は知っている。今さら後戻りなどできそうにない。
「どうぞ、お入りください」
意に反して、院長の言葉は寛容だった。ナオミは恐る恐る室内へ入りこんだ。
「驚かせて申し訳ありません。ときどき変な輩が嫌がらせの電話をしてくるんです」
そう言って、院長は椅子に座るようナオミを促した。そして自ら煎れた珈琲をナオミの前に差しだし、「飲みなさい」と柔和にすすめてきた。
「いえ、こちらこそ覇気のない施術をしてしまい反省しています」
院長のあからさまな言い訳に戸惑いを感じたものの、ナオミは腰を下ろしながら言葉を選び、冷静に答えた。院長も平静さを装うが、興奮がまだ尾を引いているらしく、しきりにハンカチで額の汗を拭っているように思えた。
「そのことでしたら、今後気をつけてくだされば問題ないのですが――」
院長が、そこまで話して続く言葉を言いよどんだ。何だろう、ナオミは気になった。
「じつは、あなたが私の息子と親しく話し込んでいるのを聞きまして……それを、今後慎んでもらおうとお呼びしたのです」
(息子?)
一瞬、俗悪な男が浮かんだが、たぶんもう一人のほうだろう。
「高校生の息子さんのことですか」
「ええ、多感な時期なので盲目になっています。それであなたに相談を持ちかけたと思うのですが、交際など私はさせるつもりはありません。今後、いっさい関知しないでほしいのです」
(それは盲人に対する偏見?)
エリートに相応しくない相手だからと暗に口を滑らせているようなものだ。ナオミは人格者である院長の、隠された一面を覗いたような気がした。
あのとき、すぐに動けば約束を果たせたのに、今さらながら自堕落に過ごした日々を恨んだ。とはいえ障害者とエリートの息子という図式は動かしようもない。息子の真摯さを願うが、権威のある親に偏見がある以上、それも限度があるだろう。現実は残酷で、純な気持ちを呑み込んで跡形もなく消してしまう。残されるのは障害者の心の傷だけ。
「もう一つ」
院長が何かを探るように言った。
「もう一つ?」
「ええ、一つお願いがあるのです。じつは近々障害者支援の懇親会があるので、ぜひ、あなたにゲストとして参加してもらいたいと思いまして」
ああ、この人は偽善者だ。今の今、障害者を揶揄したかと思えば、その舌の根が乾かぬうちに障害者を支援するという。自分が何を言っているのかわかっているのだろうか。
「遠慮させてもらえますか。そんな畏れ多い催しに、私は相応しい人間ではありません」
支援にかこつけた偽善者の集まりになど参加したくなかった。どうせ社会に貢献しているという、見えすいた自己満足の場でしかすぎないのだ。そもそもナオミには、懇親会自体、存在するかどうか疑わしいと感じていた。
第一印象で感じていた院長の色、それが「獲物ちゃん」と呼んだ、あの息子と似通っているのだ。親子だから当然だとしても気味が悪すぎる。
「遠慮する? あなたは何を言ってるのかわかっているのですか。学校側の頼みを快く聞き入れ、窮地に立たされているあなたを、私は雇ったのですよ。言ってみれば救済者にほかならないでしょう。それなのに拒絶ですか」
「そういえば、あなたはお金に困っているんでしたね。月々、手当てを差し上げます。住居も、もう少しいい所を確保しますよ。それなら不満はないでしょう」
院長がナオミに近づく。肩に手を置いた。その手を下へ滑らせ乳房に触れた。
「声を出しますよ」
「どうぞ。どうせ誰もいませんから」
ナオミは手を振りほどいた。この行為で疑念が確信に変わった。前任の彼女もこの鬼畜の餌食にされ、それで嫌になって辞めてしまったのだ。
「あなたは人の仮面を被ったハイエナだわ。彼女も、こうして追いやったのね」
「何の根拠があって、そんなことを……」
院長の声がかすかに上ずる。間違いない。ナオミは扉へ後ずさりした。
「いいのですか。すべて失っても」
院長がにじり寄ってきた。左手でナオミを抱き寄せ、右手で尻を撫でまわしてきた。その手を膝まで下ろしてスカートをたくし上げた。そのまま下着の中へ手を滑らせてくる。
「こんなの、私のすべてじゃない」
ナオミは思いきり膝を蹴り上げた。股間の固い突起物の感触。院長は、ハイエナが致命傷を負ったときのような呻き声を上げて、その場に蹲った。
ナオミは夢中で病院を飛びだした。人格者も一皮むけばただの俗物。いや、それ以上の人でなし。無性に心がさむかった。