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キズナ  作者: 鮎川りょう
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 三、四分歩いて人通りの少ない裏通りで話を聞くと、その人は院長の息子で十七歳の高校生だという。彼女と出会ったのは去年の冬だとも告げた。

「その日は、朝からしとしと冷たい雨が降っていました。夕方になると雨足は急に激しくなり、傘をさしていても腰から下はずぶ濡れでした。僕は駅舎から出れず、恨めしそうに空を見上げていました。その人も同じ気持ちだったのでしょう。数メートル先で、寒さに震えながらじっと外を見ていました。よく見ると右手に白杖を突いています。ても左手にはあるべきはずの傘を持っていませんでした。僕と同じで下半身は濡れて、上半身はまったく濡れていないのにです。何気なくロータリーを見ると、さっきまでそこにいた高校生の男女が、きゃっきゃと笑いながら傘をさして、足早に駆け抜けていくのが見えました。僕はぴーんときました。彼らが隙を見て盗んだのだと」

  

 ナオミは思う。仮にその高校生たちが盗んだとしても、彼女を困らせようとして盗んだわけではないはず。相手は誰でもよかったのだ。彼らは単に自分らが濡れたくないだけなのだから。

 彼の話す情景に入り込んいると、ブオーンブオーンと耳を塞ぎたくなるような車の排気音がしばらく鳴り響いた。その音が収まると同時に、彼は、またとつとつと話しだした。

  

「僕は居たたまれなくなって、彼女に、この傘を使ってくださいと言ったんです。そして無理やり渡すと『ありがとう』と言葉を残して、雨の中へ飛びだしていきました。それから二ヶ月後、見覚えのある人が父親の病院へ出入りするのを見かけたのです。誰だろうと思って見ていたら、あの雨の日に出会った彼女でした。しかも白衣を着ていました。急に胸がどきどきして立っていることもできず、僕はその場にしゃがみ込んでしまいました。そうです、彼女は父のもとで働いていたのです。だからといって話しかける勇気もなく、遠くから彼女を見ていました。そんなある日、彼女が言いました。『傘をありがとう』と。『どうしてわかるの』僕が聞くと、彼女は『匂いよ。あなたの匂いを覚えていたの』と言いました」

「それで交際がはじまったのね」

 彼は言った。彼女と二度ほどデートしたと。けれど、突然姿を消したとも。それで焦燥をつのらせ、仕方なく父親である院長に行方を聞いたようだ。でも院長は「何のために聞くんだ」と、怒りだしたらしい。

 彼はそれ以上聞くこともできず、今に至っているという。

「捜してほしいの? その人を」

「ぜひ」

 ナオミの問いかけに彼は間髪入れずに返答した。なら少し動いてみようか。ナオミ自身もずっと気になっていたことでもあり、前向きに言った。

「たぶん一つ上の先輩だと思うので、近いうちに盲学校へ行ってみるね」

  

 約束したものの、盲学校へ行けない日々が続いている。ナオミが活動的な性分でないことも一因だと思う。どちらかといえばインドア派。点字図書や音訳された本を読んで、家に閉じこもっていても何とも思わないタイプ。

 だから休日は、一日中ジプリやチャップリンの映画音楽を聴いて、エアーギターならぬエアーバイオリンを弾いていた。たとえ目が見えてもその生活に大差はないと思う。

  

 電車から吐きだされるとホームの端に寄り、通勤客の波がとぎれるのを待って改札を通り抜けた。狭い空間から一気に広々としたロータリーに出た。場所によって空気の通りが違うのは、たぶん銀行やら商業ビルが風よけになっているからだろう。

 道路の点字ブロックがなくなり、フラットなアスファルトに変わった。車道と歩道の区別のない狭い商業地区に入ったのだ。ここら一帯は絶えず人の流れが激しいため、少しでも息を抜くと大怪我につながる危険な場所ともいえる。

  

 案の定、前方に道路をふさぐ形で車が停まっている。ナオミはそれを数メートル手前で感知し、回り込むようにして通過した。人も車も近くまでくれば、微妙に変化する空気の振動でわかる。走る車も歩く人も、排気音や足音で感じとることができる。

 ただ、こういった道路でいちばん怖いのは、車よりも猛スピードで駆け抜ける自転車だ。気づいたと思ったらもう間近にいる。向こうが避けてくれない限り追突は免れない。特に最近は、自転車で走行しているにも拘らずスマホをチェックする人がいるので、油断するとすぐ事故に巻き込まれてしまう。ナオミも軽い接触は日常茶飯事だった。

  

 人通りが少なくなった。杖の感覚が変わり、つま先も上がって足首が若干斜めになった。この坂道を少し進めば、ようやく魔の通勤時間の終焉を迎えることができる。

 安堵の息を吐きながら職場の近くまでやってくると、突然、それまでの通い慣れた風景が一変した。頭の隅の一点に、何の前触れもなく黒いものがかすめたのだ。邪な、それまで感じたことのない醜悪な空気。臭いもハイエナのように俗悪な気がする。

  

 意識を集中させて気配をさぐると、自動ドアが開いて男が出てきた。服装はわからないが、身につけている装身具は否が応でも浮かび上がってくる。両耳に刺さるピアス、首にかけられたネックレスと、どれも毒々しい光が放たれている。何より極めつけは銃刀法違反ぎりぎりの鋭利な刃物だ。

 ぞっとした。背すじに冷たいものが走る。

 たぶん二十代後半。しかも粗暴で冷淡、まるで夜叉のような人間だ。そんな男がなぜ急に現れたのだろう。ナオミは足をとめて道端に寄った。

  

 男が近づき、睥睨する感じでナオミに視線を走らせる。さらに、ねちねちと粘りつくような視線を当ててくる。

「上玉だね、もしかしてそこの病院に勤めているのかな。いけないことをしたら逮捕しちゃうよ」

 からかうように声をかけてきた。けれど軽い言葉と裏腹に、恐ろしいまでの激情が秘められている。ナオミは怯えつつも、無言で睨み返した。

「へえ、むっとすると、艶っぽくなるんだな。せいぜい気張りな、獲ものちゃん」

 男は嘲りの色を残して立ち去った。

  


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