2
登り終え、地上に足を踏みだした瞬間、異変が起きた。とつぜん視界がぐらぐら揺れだしたのだ。
「おぉぉ、何だ……」
吾作は地面に這いつくばった。初めは小さな横揺れだったが、しだいに激しくなり、立っていることも儘ならぬほどの強い縦揺れが襲ってきた。
それでも何とか片膝を立てて周囲を警戒した。同族が言うように蟻であっても恐ろしい捕食者だ。油断したら最後、引きちぎられて胃袋に吸い込まれてしまう。
数秒後、揺れはしだいに収まっていく。
完全に収まると、眼下にこれまで見たことのない世界が広がっていた。
吾作は目を奪われる。これが人間界なのかと手の平で何度も瞼を擦った。
夕闇の空一面に広がる、黒ずんだ靄。その靄の下からいくつもの多彩な光が突き抜け、さらに鳥ですら飛べない高さの場所に、おびただしい数の明かりが点灯していた。凝視すると、それらのすべてが硬い石で築造された建物で、月に迫らんばかりに林立している。
事前に長老たちから人間界の情報を得ていたが、予想以上。手つかずの自然に満ちる里とは大違いだった。
しかし待てよと、吾作は言葉を漏らす。
「もしや、これこそが長老たちのいう幻覚ではないのか」
「錯乱は、そこまでにしておきな。見てるこっちが恥ずかしくなる」
不意に声がした。目を向けると、いつからいたのか吾作の数倍もあろう怪鳥がすぐ横で羽を休めていた。
「化けものめ、どういうつもりだ!」
吾作は後ずさりし、岩陰に隠れながら叫んだ。
「喰う、と言ったら?」
怪鳥がにじり寄ってくる。吾作は逃げ道を確保しつつ、なおも声を軋らせた。
「ふざけるな。喰われるのはきさまのほうだ」
「ほう。なるほど粗暴なだけあって強気だな。よし、茶番はここまででいいだろう」
怪鳥が羽を広げた。「さあ、乗りな」
「乗る? お前の背中にか」
きょとんとし、岩場から顔を出して覗いた。怪鳥は身を伏せるような姿勢をとっていた。
「あたりまえさ。こう見えてもおいらは美食家なんだよ。口の達者な小人など喰う気にもなれない」
(何だ、いったい……この怪鳥は?)
どうなっているのかわからなくなった。怪鳥は何者で、吾作をどこへ連れていこうとするつもりなのだろうか。そもそも鳥が言葉を話す事体、信じ難いことだ。地震といい、怪鳥といい、人間界とはこんなにも里と違うのか。
吾作の思考は宙に飛ばされた。
どう見ても怪鳥は鴉。ただ里の鴉は小人同様小さいが、この地の鴉は基準を人間に合わせているため大きく、吾作にとってはたとえ鴉であっても怪鳥に違いなかった。
「どこへ俺を連れていくつもりだ。それと、お前は何者だ」
鴉の首の羽毛にしがみつきながら訊いた。
「質問の多い男だな」
閉口した鴉が睨みつけてくる。「余計なことを詮索する前に、しっかり掴まってたほうがいいと思うけどな」
言うなり羽をはばたかせた。途端に浮き、勢いよく景色が動いた。
質素な里の暮らしの中にも多少の発見や驚きはある。けれど人間界の特異ぶりは驚嘆することばかりで、吾作の思考回路はぐちゃぐちゃになっている。この先この世界で生き抜いていけるのだろうか。危惧していた不安が芽生えはじめていた。
「ずいぶん静かになったもんだな」
そんな吾作の心を読むかに鴉が言った。若干高度を下げて、ビル、ネオン群を縫うように通過していく。それらの毒々しい光が目に入るたび、圧倒され、反発する気すら削がれてしまう。
「しょうがないな。じゃ、一つだけ教えてやるよ」
鴉がまた少し高度を下げる。道路が見えた。そこを、たぶん車というものだろう。人工的な眩しい光を放って何台も疾走していた。
「おいらの母親は、あんたと同じ里の出だよ。だから大きく見えても、ここの鴉と比べたら半分にも満たない。そればかりか彼らと意思疎通ができないんだ。いわゆるはぐれ鴉。でも根底に里の血が流れてる。つまり、おいらは夜目が利くんだ。それが人間界で生き延びた理由さ」
そういえば鴉は夜飛ばない。今の時間、巣の中で眠りについている。でもそれは里の鴉にも同じことが言えた。だから意思疎通はこいつの勝手だし体格の違いもそれぞれ個人差がある。夜目に関しても昼間より少し視力が落ちるだけで、決して飛べないわけではない。ということは、もっともらしいことを言ってもこの鴉は頭がそれほどよくないことになる。
そもそも吾作の追放を知っているのは長老だけのはずだ。吾作が十歳になるまで牢獄で長い間暮らしていたとも噂されていたし、おそらく何かしでかして人間界へ追放されたに違いない。どうやって生き延びたのかは知らないが、とんだ喰わせ者だ。
ともかく、こいつを洞窟の外で待たせていたのは手の平を返した長老しかいない。
「するとお前は、今も里とつながっているな。喰わせ者の長老と」
「おいらが教えるのは、一つだけだといったはずだぜ」
鴉が速度を上げた。いくつも川を通り越して光の洪水が弱まる場所へやってくると、そこでやっと速度を弱めた。顔を半分羽毛に埋め、必死にしがみついていた吾作も頭をもたげる。
「ここらでいいだろう。女々しいあんたにぴったりの場所だ」
と、巨木が何本も聳え立つ高台の公園に舞い降りた。真下に、さっき見た車を何台も連結させた列車が轟音を響かせ疾駆していた。