5-30 クロムの信念 ★視点変更あり
クロム様が差し出した手紙はしっかりと封緘されていて、表面には『シュウ所長へ』とだけ記されていた。
クリーム色の封筒は、分厚く膨らんでいる。
「これをシュウ様にお渡しすれば良いのですね」
「ああ。頼むよ」
「承知致しましたわ」
私はクロム様の手紙を、両手で大切に受け取った。
「お渡しするときに、何かお伝えしておくことはございますか?」
「いや。必要なことは全部書いてある」
「……そうですか」
どこかさっぱりとしたクロム様の表情を見て、私は、手紙の中身がわかってしまったような気がした。
それとなく、クロム様に尋ねてみる。
「もう……王都には戻られないのですか?」
「……ああ。世話になったな」
「やはり……」
――この封筒の中には、退職届が入っているのだろう。
きっと、ずっと前から、決めていたことなのだ。
封筒はそこそこの厚さがあるから、シュウ様や、もしかしたらステラ様に宛てた手紙も同封されているかもしれない。
けれど、彼のことだ……娘であるリリー様に宛てた手紙は、入っていないのだろう。
「……本当に、お伝えすることはございませんか? シュウ様を通して、どなたかへ伝えていただく内容でも、構いませんよ」
私は、暗に、リリー様への伝言を預かることを告げた。
しかし、クロム様は眉を下げ、首を横に振る。
「俺は、いいよ。結局、親らしいことは何一つできなかったからな」
クロム様は、どこか諦めたように、ふっと笑った。
「所長は、いい男だ。父親もどきの、俺なんかよりずっと。リリーは、幸せになるさ――これからの長い人生、今までの何倍もな」
「……もしかして、リリー様は、魔女様に寿命を支払ってはいないのですか?」
私は、クロム様の言葉で初めてそのことに気がつき、ハッとした。
リリー様は、隣国の内紛を止めるために魔女に願い事をし、対価を払ったはずだ。
そのとき、彼女は魔力と記憶を失ったが……三番目の対価、寿命に関しては、支払わなかったということだろうか。
「ああ。リリーの生命は、魔女の糧になっていない。願い事こそしたが、リリーは本来、水竜に勝手に連れて来られただけだからな」
「そうだったのですね……良かった……」
「それに、魔女の対価も、今後はもう必要なくなるんだろ? 聖女たちが到着して、魔王の呪いを全部浄化したら、これからは魔女も普通の女の子として生きていけるわけなんだし」
「ええ、そうですね。皆の力を合わせれば、きっと、解呪できますわ」
「ああ」
クロム様は、窓の外に視線を向けて、頷いた。
ひと気のない灰の森は真っ暗だ。霞んだ月だけが、ぼんやりと空に浮かんでいる。
「さて……俺の用事は、これだけだ。重いもん押しつけちまって、済まないな」
「いいえ。クロム様……どうかお元気で」
「ああ。……って言っても、あと数日はここに滞在することになるだろうけどな」
クロム様は、明るく笑った。
地竜のウロボロスが開き、聖女たちが到着するまでは、出ていくつもりはないようだ。
「ミア嬢ちゃんも、朝までもう一眠りしとけよ。少しでも聖力を回復させないとな」
「そうですわね。では、お言葉に甘えて……失礼しますわ」
私はクロム様に礼をすると、受け取った封筒を大切に抱えて、魔女の部屋から出て行った。
◇◆◇
「……ふぅ。こほっ」
魔女の部屋に残されたクロムは、出て行ったミアをまぶしそうに見送ると、小さく咳をした。
「……覚悟はしてたが、なかなかキツいもんだ。さっさとどうにかしてくれないもんかね、魔女さんよ」
自身の身体から、魔女へと細く繋がっている、禁術の糸。
彼女が魔族を体内に取り込んで少し経ってから、それは始まった。
「あんたは、いつもこんなに苦しい思いをしてたのか? 数百年もの間……たった一人で」
クロムは、瞼を閉じたままの魔女の頭をそっと撫でる。
魔女が一人で苦しんでいるのに、こうして細い糸を通して生命力を提供することぐらいしか、してやれることのない自分がもどかしい。
「誰かのために生きるって……難しいことだよな」
クロムは、魔女の頭を撫でながら、離れざるを得なくなってしまった家族のことを想う。
いくら想っていても、届かない。
手を伸ばせば届くのかもしれないが、それで何かが変わってしまうのが怖かった。
それならいっそ、届かないところにいた方が楽だ。
「ごほっ、ごほっ。……ふう」
魔族との戦いは、確実に魔女の生命力を削っているようだ。
クロムは、一年半前にこの館を初めて訪れたとき、「足りなくなったら、俺の生命を使ってくれ」と魔女に申し出ていた。
――本来なら、あと数年はもつはずだった、生命の力。
魔女が魔族を取り込めば、こうなることはわかっていた。それは、魔女も、クロムもだ。
戦いが始まる前に、魔女はクロムに泣きながら謝罪し、やめてもいいのだと何度も言っていたのだが、クロムはとうに覚悟の上。生命が尽きるのを、穏やかに受け入れていた。
そのために何ヶ月も前から遺書を用意しておいたし、ミアにも怪しまれずに渡せたはずだ。
「ごほごほっ……、思ったより、吸収スピードが早いな。それとも、最初から……、ぐっ。ごほごほ、ごふっ!」
咳き込んだクロムの手のひらには、赤い血が付着していた。
家族を置いて隣国から逃れ、神殿騎士となり、ステラとジュードを教会から逃したものの、結局ジュードを死なせてしまい。
数年がかりで見つけた自身の娘は、自らの意思で自分と妻との記憶を捨てたという。
息子の方も、魔族の策略に利用され、不幸な道を歩んでいた。
「はぁーあ。逃げっぱなしの人生だったな。だが――」
リリーやウィリアムのように、未来ある若者の生命を犠牲にする必要など、ない。
こんな役回りは、俺みたいにくたびれた人間に任せておけばいいのだと、クロムは本気でそう思っている。
「――最後に一花咲かせてみせますか」
血のついた口まわりを、袖口でぐいっと拭う。
そうして、彼は、にやりと笑った。
――クロムは王国に来てから初めて、自身の選択を誇りに思っているのだった。




