5-28 なくなっちゃった
噴火の収まった魔女の館周辺の様子と、白銀の地竜に怪我がないか調べるため、私たちは館の玄関扉を開け、外に一歩踏み出した。
そこに広がっていると予想された最悪の光景に、私は少し身構えていたのだが――予想に反して、館の周囲の地形自体は、前とさほど変わらない様子だった。
ただ、以前とは異なっていることが、二つある。
一つは、空の色。
水と風の、ドーム状の渦巻く結界に覆われた外には、黒灰色の雲のような、煙のような、質量を伴う濁った空気が満ちている。
もう一つは、館の周囲に、魔獣との戦いで傷ついた聖獣たちが集まり、寄り添い合っていることだ。
中には大きな傷を負って横たわっている子や、身体の一部が石化してしまっている子もいる。
聖力が足りなくて、すぐに癒やしてあげられないのが、非常に心苦しい。
「みんな……ごめんね……」
私は思わず顔を手で覆い、涙をこらえる。目の前で苦しんでいる子たちがこんなにいるのに――不甲斐ない。
「……ミア、辛いかもしれないけど……」
「……ええ。わかっています」
聖力が尽きた今の私は、ただの人。賢い彼らも、それをわかっている。
私が何もできないとしても、彼らはそれを理解して待ってくれるのだということも、わかっているのだ。
「……あとで、包帯やお薬で応急処置をしましょう」
「ああ、そうしよう」
ウィル様は私の提案に頷き、きゅっと手を握ってくれた。
「さて、白銀の地竜は……中から見た感じだと、何てことなさそうに見えるが」
彼の言うとおり、永遠の輪も解除されていないようだし、目に見える傷もなく、美しい白銀の鱗を日光に晒している。
「もう少し近づいてみましょうか」
「ああ」
ウィル様に支えてもらいながら、ゆっくりと聖獣たちの間を抜け、白銀の地竜の頭部に近づいていく。
「地竜殿、ご無事ですか」
そばまで充分近寄ってから、ウィル様は地竜に声をかけた。
地竜の瞼は閉じられていたが、ウィル様の声を聞いてゆっくりと持ち上がり、金色の瞳を覗かせる。
「地竜様、お怪我は……? 大丈夫ですか?」
私が話しかけても、白銀の地竜はゆっくりと瞬きをするだけで、返答しない。
「もしかして、お怪我が酷いので……?」
「――いや、違う」
私が呟いた言葉に返答したのは、ウィル様ではなく、もっと低く威厳のある声だった。
大気を震わせるような轟きも、雨雲も見当たらないが、この声は――、
「天竜様?」
「そうだ」
肯定する声が近くから聞こえ、私とウィル様は上空を見回す。
しかし、夜の化身のような漆黒の巨体は、朝の光の中なのに、なぜかなかなか見つけることができない。
「――ここだよぉ。僕もいるよぉ」
「え? 水竜様? ……え? え?」
以前水竜の湖で聞いた、間延びした声が耳に届き、私は自分の足下を見る。
そこには、翼の生えた黒蜥蜴と、水晶の身体をもつ亀が、私たちを見上げていたのだった。
「何だ、鳩が豆鉄砲を喰ったような顔をして。お前の従魔とて、大きさを自在に変えられるだろう?」
「た、確かにそうですけれど」
「なーんも不思議なことはないよぉ。あ、でもさぁ、お空の色はとーっても不思議だねぇ」
天竜は二本の脚でしっかりと立ち、不満そうに腕を組んでいる。
水竜は、空を見上げようとしてひっくり返りそうになり、慌てて前を向き直した。
恐ろしい姿のドラゴンも、小型化すればこんなに可愛いものだったのかと、私は驚く。
「それで、地竜のことだが――」
天竜は、翼をぱたぱたと小さく動かしながら、地竜の方を一瞥し、話を元に戻す。
「――傷は多少負っている。だが、命に関わるものではないゆえ、心配は要らぬ」
「いたいいたいねぇ。でも、地竜ちゃんが話せないのは、まだ結界を解けないからだよぉ」
「今、賢者は、内なるものと戦っているのだろう? その戦いが一段落し、彼女が目を覚ますまでは、地竜がウロボロスを解くことはない」
「僕たちはねぇ、地竜ちゃんに魔力を分けてあげてるから、今は燃費のいいサイズになってるんだぁ」
「なるほど……」
水竜たちが縮んでいる理由も含めて、私は納得した。ウィル様も、相づちを打っている。
天竜は、地竜の怪我は命に関わるものではないと言っているが、聖力が回復次第、なるべく早く治療した方が良いだろう。痛みに耐えながら魔法を使い続けるのは、きっとかなり辛いはずだ。
「天竜殿、灰の森の外は今、どうなっているのですか?」
「……人の子らよ。ここから山の頂が見えるか」
天竜が視線を流したのは、死の山の頂上があるはずの方向だった。
「あら……?」
「……そういえば、見えないな」
天竜に指摘されて初めて気がついたが、存在感のあったはずの死の山が、全く見えなくなっていた。
以前来たときは、魔女の館の客室にある窓からも、赤く煮え立つ黒い山の頂上が見えていたというのに。
「長くここに棲んでいるが、山が形を変えるほどの規模の噴火は初めてだ。山に何か、仕掛けがされていたとしか思えぬ」
「もしかして、魔族が……?」
ウィル様の呟きに、天竜は腕組みをしたまま頷いた。
「この辺りの地形も大きく変わった。灰の森の外では、いまだ煮え立つ赤黒い大岩が、大地を覆っている」
「そうだよぉ。白い岩と青い水のお池も、なくなっちゃったんだぁ。悲しいねぇ」
「そんな……」
天竜と水竜の話す、死の山の状況は、思った以上に深刻だった。ウィル様も、顎に手を当て、眉を寄せている。
天竜は、さらに続ける。
「だが、魔獣たちの大部分はこの地から逃げ去ったか、噴火に呑まれたようだ。大地を覆う岩が冷えれば、人の子らも通れるだろう」
「なるほど……となると、少なくともあと数日……いや、場合によってはそれ以上、通行不能というわけですね」
「んーん、そうでもないよぉ」
ウィル様の言葉を否定したのは、のんびり声の水竜だった。天竜も、水竜の言葉を肯定するように頷いている。
「賢者が目を覚ませば、地竜への魔力供給も不要になるからな」
「天竜くんが雨雲を呼んで、僕が川とお池を造ればいいんだよぉ」
「……すごいスケールのお話ですわね」
二頭のドラゴンは気軽に言っているが、それは人の成し得ない天地創造のようなとてつもない話である。
ウィル様も顎から手を離し、目をみはっていた。
「この地を訪れる聖女の子らが増えるのは、我らにとっても喜ばしいことだ。そのための協力なら惜しまぬ」
「そうだよぉ。賢者ちゃんのためにもねぇ」
大聖女様たちの従魔、ファーブニルの子である彼らは、生まれた時から『魔』とは無縁の聖獣だ。
呪力におかされたことのない金色の瞳は、清く澄み輝いていて、数百年来の友である『賢者』、すなわち魔女のことを、心から案じている。
「では、聖女たちが応援に来るまでの間、俺たちは俺たちでできることをしようか」
「ええ、そうですわね」
「ひとまず、館に戻ろう。まずは父上に報告して魔法通信を入れる。それから――」
ウィル様はそこで言葉を切り、傷ついた聖獣たちの方に視線を向けた。
「騎士たちに手伝ってもらって、彼らの応急処置をしよう」
「ええ。そうしましょう」
私とウィル様は、三頭のドラゴンにお礼を言って、踵を返したのだった。




