3-22 刺客
国王陛下のお言葉を聞こうと、皆が壇上に注目した時。
視界の端で、黒い靄がぶわりと膨れ上がったのを感じた。
圧を持って、羽虫の群れのように一点から広がってくる黒い靄に、私は恐怖を感じて目を閉じ、腕で顔を覆う。
ほんの少し……だったと思う。
形容しがたい、不快な何かが通り過ぎていったと思ったところで、すぐ近くから「うう」という呻き声が聞こえ、私は目を開けた。
「え……?」
――そこに広がっていた光景は、信じがたいものだった。
人が、ばたばたと倒れていく。
さっきまで談笑していたお父様も、お母様も、お兄様も、マーガレットも。
一人残らず、床に倒れ伏し、あるいはうずくまっていた。
中には、気を失っていたり、戻してしまっている人もいるようだ。
「な、なに……?」
私は慌てて、辺りを見回す。
国王陛下も、王太子殿下も。
王妃陛下、王女殿下も。
それに、そばに控えていた魔法騎士たちも……ウィル様も、苦しそうな表情を浮かべている。
この場で無事だったのは、私だけのようだ。
黒い靄の出所となったあたりを見ても、今はもう、誰も、何も存在しない。
それどころか、黒い靄はそのまま通り過ぎてそのまま霧散してしまったのか、ボールルーム内からは綺麗さっぱりなくなってしまっている。
「う、うう」
マーガレットが苦しそうに呻き、私は家族に視線を戻した。
皆、顔色は蒼白を通り越して土気色になっていて、苦しそうだ。
――治してあげたい。でも、原因は一体? どの聖魔法を使えば、治せるのだろう?
見たところ、黒い靄がまとわりついているわけではないから、『解呪』ではなさそうだ。
では、『解毒』? それとも、『浄化』? もしくは、もっと別の聖魔法が必要だろうか?
……考えてもわからない。試してみるしかないだろう。
あとで危険が及ぶかもしれないし、ウィル様にも怒られるだろうが、今は非常事態。そんなこと、気にしている場合ではないはずだ。
だって、みんなこんなに苦しんでいるのだから……。
とにかく、これ以上見ていられない。知っている聖魔法を唱えてみよう。
そう思い、その場にかがもうとしたところで、ボールルームの扉から人が入ってくる気配がした。
入ってきたのは、明らかに招待客ではない、不審な人物。
白いフードをかぶって顔を隠し、抜き身の剣を携えた何者か……顔に巻き付けた布と、フードのせいで、その表情はわからない。静かに、壇上の方へと進んでいく。
そして。
ボールルームには入ってこないが、扉の陰に、二人の人物が立っているのが見えた。
皆伏せっているから、その二人に気づいているのは私だけだろう。
一人は、痩せた灰色髪の令嬢――リリー・ガードナー嬢。
後ろに立つもう一人の人物に、髪を乱暴に掴まれて震えている。
リリー嬢の髪を引っ張っている人物は、切羽詰まった表情の、紅い髪の令嬢――デイジー・ガードナー嬢だった。
「……な、にもの……だ?」
ボールルームの扉の方へ釘付けになっていた私は、苦しそうな国王陛下の声で我に返る。
見ると、白いフードをかぶった不審者が、国王陛下に剣を突きつけているところだった。
――まずい。
ウィル様たちの言っていた脅威というのは、このことだったのだ。
魔法騎士団に大規模な招集がかけられたのは、国王陛下が狙われていたから……!
私はもう一度あたりを見回すが、やはり私以外に動けそうな人は見当たらない。
――怖いけれど、この状況を打破できるのは、私だけ。私が出て行く以外、なさそうだ。
私は胸に輝くペンダントを、ぎゅっと握りしめる。
大丈夫。ウィル様のくれたこのペンダントが、勇気をくれる。
ウィル様は、やはり皆と同じく、動けないようだ。膝をついたまま、祈るような表情で私の方を見ている。
きっと、彼は、私に危ないことなどしないでほしいと願い、祈っているのだろう。
――ウィル様、ごめんなさい。見ているだけなんて、私にはできません。
私は心の中で彼に謝罪し、不審者と国王陛下がいるところへと、足を向けたのだった。
「――おやめなさい」
声が震えないように。気丈に見えるように。
私は、不審人物に向けて、はっきりと声を上げた。
「……っ」
白いフードの人物は、肩を揺らして、振り返る。
剣先は、国王陛下の方に向いたままだ。
私は、その人物の注意を引こうと、フードに隠れた顔をじっと見つめながら、一歩一歩近づいていく。
「来るな……っ」
震えた声で、白いフードの人物は言う。
「……あなたは……」
私は、その声に驚いて、彼の数歩手前で足を止めた。
フードの中を、のぞき込む。
彼は私の視線から逃れるように、国王陛下の方へと向き直った。
だが、私には見えた。
フードに隠された、哀しげな緑色の瞳を。
頬にかかる、緑色の髪を。
「……どう、して……?」
彼は、首を横に振るだけ。震える剣先を、頑なに国王陛下に突きつけたまま。
「……哀しい目。本当は、こんなこと、望んでいないのでしょう?」
私は、ゆっくりと彼に歩み寄ると、彼に向かって手を差し伸べた。
そうすることが正しいような気がしたから。
「もう、やめましょう? さあ、剣を捨てて」
「うるさい……! これ以上、近づくなっ!」
彼がそう言った瞬間――白いローブをはためかせて、彼の周囲に強い風が巻き起こった。




