私の後悔
少しだけ遠慮がちな目とともに、アイナルはモゴモゴと口を動かした。
「その、どうして猟銃なんか……悪いけど、君は公爵令嬢だろう? 婚約していた時はそんなことをする人には見えなかった。それなのに……」
随分今更な質問だなぁ……私はそう言おうとして、やめた。
衣食足りて礼節を知る、ということなのかも知れない。
王子の座から転げ落ち、なにもなくなったところに、寒さと飢え。
火で暖を取り、空腹も癒えたところで、ようやくアイナルは私たちが互いに知らない時間に思いを馳せる気になったのだろう。
私は「ああ……」と曖昧に頷き、目の前の焚き火に視線を落とした。
「私がロナガン公爵の妾腹だっていうのは聞いてるわよね?」
「う、うん。一応……」
「私の母はこの北の辺境の生まれ。村から一度も出たことのない、世間知らずの村娘よ。そこに私の父――ロナガン公爵がやってきて、私が生まれた」
はぁ、と私はため息をついた。
「思えばバカバカしい話よ。私みたいなどこぞの山猿が公爵令嬢だなんて。十二歳の時に会ったこともない兄が死んで、妾腹だった私はロナガン公爵の跡取りとして王都に召し出された。後はアンタも知っての通りよ」
「北の辺境――そうか、君はここの出身だったのか。それは知らなかった……」
追放した本人が、知らなかった、で済まされない話だったはずだが、この元王子なら十分あり得る話だった。
おそらくこの元王子は、私がそうであったように、私という人間に全く興味を持つことがなかったのだろう。
私たちは所詮住む世界が違い、お互いにお互いを鬱陶しいやつ、理解できないやつとして毛嫌いしあっていたはずなのだ。
そうでなければいくらあの伯爵令嬢が狡知に長けていたとしても、堂々と婚約破棄などしなかったはずだ。
「ま、その後はどっかの馬鹿王子に追放されて家に帰れたってわけ。実際、そっちの方が私には幸せだったわ。もともと公爵家には縁もゆかりもないものね」
「ぐ……ま、まぁそれは悪かったよ。……それで、狩猟の知識は誰から?」
「祖父よ、母の父。私のことを可愛がってくれてね。ありとあらゆる知識を私に教え込んだ。今思えば義理の息子にでも教えるつもりだったんでしょうけどね、母は未婚だったから……」
「お母さんは猟はしないのかい?」
「しないわね。祖父は現役時代ほとんど家にいなかったらしいし」
なんだか、この男とこんな身の上話をしたのは初めでである気がした。
焚き火を囲み、お互いまんじりともしない中での身の上話。
こいつに婚約破棄された後の方がよほど婚約者らしい会話ができる現状。
思えば、皮肉であるとも、噴飯ものであるとも言える状況だった。
洞窟の中に、まだ吹き止まない雪の音と、私たちの声だけが聞こえ続ける。
どうせ他にやることもないし、今の時間からは里に下りることはできない。
随分、長い間、私たちは話し込んだ気がした。
もし――と私は考えた。
もしこいつと、婚約者時代にこんな話ができていれば。
コイツというダメ人間の中の私という人間の存在が、もう少し大きければ。
私という人間が少しでもあの伯爵令嬢に嫉妬し、その行動を諌めようとしていたら。
あるいはこの国は伯爵家に乗っ取られずに済んだのかもしれない。
いいや――そんなことじゃない。
私が今少し後悔しているのは、もっともっと個人的なことだろう。
思えば私が公爵令嬢だった五年間、周囲に味方と呼べる人はコイツの妹であるエヴァリーナだけだった。
誰からも理解されず、理解しようともせず、己の内に立ち入らせず、全く無為に、空虚に終わった王都での五年間。
あの五年間、もしもうひとりでも私に理解者と呼べる人間がいたら。
もう少しあの五年間は意義あるものになったのかもしれない。
公爵令嬢でもいいかなと、そんな風に感じれる一瞬があったら。
猟銃を持って山を駆け回る以外の人生が私にあるのだと思えていたら。
その時は――私だって、追放されたときに涙の一粒でも流したかもしれないのに。
そして私たちだってそうだ。
もう少し、王子や公爵令嬢としてではなく、二人の男女同士の会話が出来ていたら。
コイツの伴侶として人生終わってもいいかなと、一度でもいい、そう思えていたら。
曲がりなりにも婚約者同士らしく、もっといろんな話ができていたら――。
そこまで考えたときだった。
ゴトッ、と、火にくべていた薪が音を立て、私はハッと我に帰った。
我に返った途端、全身にぞわわーっと怖気が走り、鳥肌が立った。
いや、いやいやいやないないない……!
私は慌ててその妄想を頭から振り払った。
危ない危ない、何を考えているんだ、私は。
ついつい雰囲気的に妙な気を起こしてしまった。
このダメ男と結婚? そんなことは有り得ない。
婚約者時代は何度も何度も婚約を破棄してくれと願ったではないか。
何しろコイツは顔以外は全くパーフェクトにダメな人間なのだ。
コイツに親身に話をするぐらいなら、そこらのモミの木に話しかけたほうがまだ建設的に意見がまとまるぐらいだ。
コイツに私が恋していたら?
そんなことは絶対に有り得ないし、有り得てほしくない。
だいたいコイツはよしんば春まで生きて、その後殺される人間だ。
要するに死が確定している人間であり、今は死体が口を利いている状況だ。
死人に恋する? そんなことは有り得ない。
いや、たとえ生きていたとしても、コイツは生きてるだけで周囲に害悪を撒き散らす有害な人間なのだ。
そんな人間相手に、有り得たかもしれない未来なんて絶対にない。
天地がひっくり返ろうと、空の星が全部直列しようと有り得ない――!
「う……」
不意に――アイナルが呻き声を上げ、私の肩にしなだれかかってくるのがわかった。
うひゃあ! と生理的な悲鳴を上げて立ち上がった私は飛び退り、腰に刺した山刀を抜き放って構えた。
「ふっ、ふざけんじゃないわよ! なっ、何考えてんのよアンタ――!」
アイナルは胡座をかいたまま、俯いている。
悪びれようとも、言い訳しようともしないのが却って不気味で、私は山刀の切っ先をひらひらさせながら怒鳴った。
「この脳みそ海綿体男、早速妙な気を起こしたのか! ホンット反省も後悔も出来ない奴ね! いいか、私に指一本でも触れてみろ! 熊の毛皮も一息に切り裂くこの山刀で――!」
そこまで叫んでから、私は異変を察知した。
アイナルからは一体、何の覇気も気配も感じられない。
「ちょ、アイナル? ねぇ――」
不審に思った私がおそるおそる近づくと――。
どさっ、と音がして、横に傾いだアイナルの身体が地面に崩れ落ちた。
ちょっと驚いてその顔を伺うと、アイナルは静かに寝息を立てていた。
「は――」
私は思わず、脱力してしまった。
身体が温まり、空腹が癒えれば、次にやってくるのは睡魔に違いない。
しかもこいつは追放されてからおそらく歩きづめで、疲労の塊であるはずなのだ。
腹の皮が突っ張れば目の皮が弛んでくる、それは普通のことだった。
「全く、自分の立場も忘れてよくこんなにスヤスヤ眠れるわね……」
憎まれ口を叩いてみても、アイナルはまぶたすら動かさない。
死んだように眠る、とはまさにこのことか、と関心しつつ、私はその寝顔を見下ろした。
寝ていれば天使か何かにしか見えない、この美貌の元王子。
せめてコイツの頭に詰まっているのがヘドロや海綿体でなかったら、普通の人間なのになぁ――。
私は何故だかその時、ほんの少しだけ、コイツという存在をこの地上に創り出した何者かの采配を呪いたくなった。
コイツは寝てしまったけど、まだ時刻は夕方だ。
どうせ朝まで起きないのだろうし、私が寝るのにはまだ早い。
ならさっき撃ち取ったクマを雪に埋めてくるかと、私は洞窟から出る一歩を踏み出した。
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