再会の森
じんじんと、指先まで凍りつきそうな寒さがあった。
雪は鉛色の空から静かに降ってきて、「私」の頭にも、肩にも、睫毛の上にさえ降り積もる。
「ゴフッ、ゴフッ……」
「彼」は藪の中から頭だけを出し、高鼻を上げて周囲の匂いを取った。
右、左、そして足元――と鼻先を移動させ、おそるおそる藪から出てきた。
ぶるり、と手が震えた。
寒さは、我慢しようとすればできる。
だが、本能的な恐怖――自分よりも遥かに巨大な獣に対する恐怖――それだけは、いくら鍛錬してもなかなか我慢できない。
抑えきれないなら、変換する。
襲われるかも知れないという恐怖を、気づかれたくないと気配を殺す力に。
自分の体から無意識に立ち上っている殺気さえ噛み殺し、「無」に化ける。
そうすれば恐怖は技術に転じられ、人間だけが使える武器にもなる。
のしのしと雪原に出た「彼」の足取りは、次第に慎重さを欠き始めていた。
いままで自分にまとわりついていた鬱陶しい人間の匂いがしなくなったことに、明らかに気を良くしている。
だから雪原に点在する藪伝いに歩くことをやめ、無防備にも見通しが聞いて歩きやすい雪原を歩いていく。
その先に植わる数本のミズナラの巨木の影で、私が待ち構えていることも知らずに。
私は、ゆっくりと銃を構えた。
肩に積もった雪がぱらぱらと落ちるが、「彼」が気づいた様子はない。
私は肩と頬に銃床を押しつけ、照星を覗き込んだ。
――いいか、十歩の距離さ引きつけるまでは絶対に撃つなよ。
私に銃と猟の技術とを教えてくれた祖父の教えが耳にこだました。
凍えきった人差し指を引き金に掛け、私は細く長く息を吸った。
一方、「彼」は完全に油断していた。
私に右の横腹を向け、遥か上にある山頂の方をぼーっと眺めている。
山を越えて逃げようか考え込んでいる様子だった。
彼と私の距離は、すでに十メートルを切っていた。
瞬間、私は、抑え込んでいた殺気を放出した。
「彼」がぎょっとこちらを向いた。
その黒曜石のような目が私を捉えるか捉えないか、その瞬間。
「うわああああああああああッ!!」
突然聞こえた人間の声。
その声に身体が反応し、照準が狂った。
バン! という、鉄板を金槌で一撃したような、耳障りな轟音が弾けた。
銃声は、長く長く尾を引いて山峡に響き渡った。
だが――照準が狂った弾は「彼」の足元に弾けた。
驚いた「彼」は慌てて尾根を駆け上がっていってしまう。
――一体どこの馬鹿だ!
私の渾身の一発を狂わせた大馬鹿。
私は声のした方の斜面を見た。
全身をウサギのように跳ねさせて消えてゆく「彼」とすれ違うように。
一人の人間が斜面を転げ落ちてきていた。
「あぶ! おぶっ! ……おべべべべべべべ!!」
聞いたこともない悲鳴とともに、「それ」はまるでゴミのように斜面を転がり落ちてきていた。
「それ」は、斜面が緩くなったところで落ちる速度が遅くなった。
私は銃を構えながら「それ」に近づいた。
「あぶ……あぷっ、ハァハァ……ひどい目に遭った……」
疲れ果てたような声で言った「それ」。
この寒空だと言うのに、紙と見紛うような薄いコート一枚。
しかも下半身は普通のスラックス、革靴は雪でぐしょぐしょになり、手袋さえしていない上、そのいずれもが擦り切れてボロボロだった。
どう考えてもここらの人間ではないだろう。
こんな格好でこの山に登る人間がいるとすれば、それは自殺志願者か馬鹿だけだ。
「ちょっとアンタ! 何考えてんの?」
私は、いまだに大の字になってひっくり返っている男の頭を銃床でど突いた。
「こんな雪山にそんな軽装で登るやつがいる? 命捨てに来たの? ちょっと何を――」
男はハッと私を見上げ、それから信じられないものを見たように目を剥いた。
「お――お前は――!」
私は眉間に皺を寄せて、男を見た。
途端に、とても嫌な、真っ黒い感情が心臓から全身に広がった。
この顔には――全く嫌な話だが、見覚えがある。
頭も弱く根性もヘッポコなのに、何の神の気まぐれなのか、まるで彫像のように整った、愛らしく、凛々しい顔。
そして、「あのとき」よりも多少窶れて、そして疲れているように見える顔。
妙な気持ちになった。
コイツがここにいるということは――おそらくあの後、事は私の予想していた通りの結果になったのだろう。
私は雪原よりもなお冷たい目で男を睥睨した。
「ああ――アンタだったの。だったら声をかけるべきじゃなかったわね」
私のそっけない言葉に、男は大いに慌てたようだった。
私は手のひらをひらひらと振って言った。
「あーゴメンゴメン、覚悟の自決の最中に決意を揺らがせるようなことして悪かったわね。もう邪魔しないわ。遠慮しないで野たれ死んでちょうだい」
「そ、そんな……!」
男は腹の底から情けない声を上げた。
「な、なぁ! アレクサンドラ! きっ、君がなんでここにいる!? どうして……!?」
「あによ? 私が生きてるのがそんなにおかしい?」
「だっ、だって君は、僕が二年前に追放したはずで――!」
「ええ、追放されましたとも。どっかの色狂い脳みそ海綿体のヒョーロク玉くそったれウンコバカバカバカバカの『元』王子様にね」
「元」、を強調した私の言葉に、青年の顔は青くなったり赤くなったりした。
「し、知ってたのか――?」
「何を?」
「あ、あの後のこと、僕がどうなったか――」
「国が、どうなったかは知ってる。そっちの方が、どこぞのバカがどうなったかよりも百億倍重要だわ」
私の訂正に、青年は目を見開いた。
「あんなアホみたいな笑い話、ここにいるウサギや鹿だって噂するわよ。――色恋に狂った挙げ句、一方的に婚約者を断罪して追放。その結果、公爵家という後ろ盾を失い、野心を抱いた伯爵家に国を乗っ取られた、アホでおバカなアイナル王子の話――なんてね」
ここまでお読み頂きありがとうございました。
一作、書籍化作品の作業がひとまず落ち着きましたので、
息抜きにいっぺん趣味が丸出しの作品を書こうと思います。
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【VS】
本日中に数話投稿予定です。