第1章 ビッチとの遭遇 part1/4
「気がついた?」
女性の優しげな声をきっかけに、ぼんやりしていた頭がやっとはっきりし出す。
名前は? 土御門御幸。ブリタニア風に言えば、ミユキ・ツチミカド。
年は? 14……いや、もうすぐ15才。
今日の日付は? 精霊歴1889年9月1日。
よし、大丈夫そうだ。
そう考えて、ミユキは体を起こそうとしたが――
「無理しない方がいいわ。さっきまで気を失ってたんだから」
件の女性に止められてしまった。
確かに彼女の言う通りかもしれない。名前や日付は覚えていても、自分が気絶した理由は思い出せなかった。もっと意識が鮮明になるまでは、休んでいた方が賢明だろう。
しかし、今の状況ではそうも言っていられなかった。
なにしろ、自分の頭の後ろには、彼女のものとおぼしき太ももの感触があったからである。このまま寝転んでいたのでは、彼女に迷惑だろうし、自分としても恥ずかしい。
「で、でも、膝枕してもらうのは……」
「大丈夫よ」
異性が相手だというのに、彼女はまるで気にするそぶりを見せない。それどころか、むしろ愛おしげな声色になっていたくらいだった。
「膝枕じゃなくて乳枕だから」
「なにも大丈夫じゃねえじゃねーか!」
◇◇◇
ミユキが意識を取り戻す、その一時間ほど前――
「これから諸君らには、守護精霊との契約、すなわち聖婚儀礼をしてもらう」
講堂に集められた少年少女たちに対して、舞台上の老爺はそう宣言した。
学園でも、いや人生でも一、二を争う重大なイベントである聖婚儀礼。それを目前に控えたミユキら新二年生に向けて、学園長が直々に訓話をするところだったのだ。
「聖婚儀礼で守護精霊と契約して、彼らの力を借りることで、諸君らは今まで以上の能力を発揮できるようになる。火を司る精霊と契約できれば火属性魔法が、癒しを司る精霊と契約できれば回復魔法が、これまでよりも上手く使えるようになるわけじゃ。
しかし、どんな能力を発揮できるようになるか――つまりどんな能力を司る精霊と契約できるかは、自分の意思で選べるものではない。契約できる精霊は、各々の生まれ持った素質や気質によって先天的に決まっておる。たとえそれが、今は眠っている素質や心の底に秘められている気質であってもじゃ」
学園長に「ミレーヌ先生」と声をかけられて、舞台の後ろに控えていた女性教諭が演台の脇まで進み出る。
そして、そんな彼女の横に、目隠しをした女性が――彼女の守護精霊が並んで立つのだった。
「たとえば、ミレーヌ・ローズ先生じゃ。生徒である諸君らの方がよく知っておるかもしれんが、ミレーヌ先生は差別を嫌い、公平と平等を重んじる人格者じゃ。それが聖婚儀礼にも影響して、正義を司る女神ユースティティアと契約を結んでおる。
また、ユースティティアは正義だけでなく、それを実現する力も司っておる。だから、彼女と契約したことをきっかけに、ミレーヌ先生は戦闘の才能に目覚めて、この学園で武器術や戦闘術の科目を担当するほどの達人になれたわけじゃな」
学園長の説明した通り、舞台上のユースティティアは、まさに正義の女神といういでたちをしていた。左手には相手の罪を量るための天秤を、右手には裁きを下すための剣を携えていたのである。
加えて、偏見や先入観に囚われないように、彼女は顔に目隠しまで巻いていた。もっとも、これについては、『盲目的』という意地の悪い解釈もあるようだが……
ミレーヌとユースティティアに下がってもらうと、学園長は聖婚儀礼の説明を再開する。
「今のミレーヌ先生の例の通り、守護精霊との契約によって、自分にどんな才能があるのかが分かってしまう。ひいては、守護精霊との契約によって、自分にどんな進路が選べるのかもおおよそ分かってしまう。
そのため、今日の聖婚儀礼でどの精霊と契約できるかで、諸君らの今後の人生が決まると言っても過言ではない」
常識中の常識レベルの話だが、それでもミユキら生徒たちは顔をこわばらせていた。
今、自分が劣等生なのは、実力なのか、それとも遅咲きなだけなのか。
今、自分が優等生なのは、実力なのか、それとも早熟なだけなのか。
そういった才能の有無や潜在能力の優劣が、今日守護精霊という目に見える形ではっきりと突きつけられてしまうのだ。これほど残酷なことはないだろう。
ただ、学園長の話の本題は、そこにはないようだった。
「しかし、どんな才能も磨いて光らせることはできる。スタンリー・スミスが一般的には下級精霊扱いのキングスライムと契約しながら、竜殺しを成し遂げたという伝説は有名じゃろう。
だから、たとえどんな精霊と契約することになったとしても、決して自分の将来を悲観することなく、これからもこの学園での修練に励んでほしい」
聖婚儀礼の説明を、彼はそう言って締めくくった。
次に、学年主任が具体的な手順の解説を始めたが、大半の生徒はもはやろくに話を聞いていなかった。一年生の講義ですでに教わっていたから……ということもあるが、それ以上に自分がどの精霊と契約することになるか気になって仕方なかったのだ。
学園長の言うように、下級精霊で名を成した例もあるにはあるが、やはり高名な人物のほとんどは上級精霊と契約している。そのため、聖婚儀礼に対して、劣等生は一発逆転のチャンスを夢見、優等生は転落のピンチに恐怖していたのである。
契約前からこんな調子だったから、契約が済んだあとは当然守護精霊の話題で持ち切りになっていた。
「オグンなら、まあまあってところか?」
「水属性だし、やっぱり軍船や商船勤めを目指すかなー」
「うちの家系って、ホント補助系の精霊ばっかり」
「なんでこの僕がシルキーなんかと契約しなきゃいけないんだ」
「バッカスって、ワイン作れって言われてるようなもんじゃん」
笑う生徒や自慢げな生徒がいれば、渋い表情をする生徒もいる。中には泣き出してしまう生徒もいた。
また、それを目にして、まだ契約を済ませていない生徒たちはますます緊張を募らせる。
しかし、それほどの大騒ぎでさえ、静まりかえる瞬間ができた。
「ねえ、あれって……」
「まさか……」
契約を終えて、女子生徒の一人が神殿から戻ってくる。そんな彼女のあとに続くそれを見て、生徒たちは言葉を失っていた。
まったく血が通っていないかのような、冷たい色をした大蛇。
その正体は、教師への報告ではっきりした。
「メリル・ウォーリック。守護精霊はエケネイス」
これには、生徒はもちろん、教師陣からも「おおっ!」と歓声が上がっていた。
エケネイスといえば、氷属性を司る精霊の中で最上級の存在である。その力は全精霊の頂点である四大精霊に匹敵するとも言われ、特に火属性を司るサラマンダーの天敵だとされている。
「ウォーリック家の名前は伊達じゃないな」
「さすがメリル様ですわ」
そう言って、彼女をもてはやす者。
「ちっ」
「守護精霊が全てってわけじゃないでしょ」
そう言って、対抗心を燃やす者。
反応は真っ二つに分かれたが、ミユキの気持ちは後者に近かった。
同級生にエケネイスの契約者がいるのである。四大精霊――火のサラマンダー、水のウンディーネ、風のシルフ、土のノームの内のどれかと契約しなければ、とても太刀打ちできないだろう。
そう思った瞬間にも、自分の番が回ってきた。
「次、ミユキ・ツチミカド」
「はい」
声が震えそうになるのを抑え込みながら、学年主任に返事をする。
そんなミユキへの反応は一色だった。
「あいつ、まだ学校辞めてなかったのかよ」
「直系なんだっけ?」
「ああ、父親が悪魔憑きらしい」
悪魔憑きとは、聖婚儀礼で悪魔と契約した者に対しての通称、また蔑称である。
ミユキの出身国であるヤマトでは、力の強い精霊を特に神と呼ぶくらいの大雑把な区分しかない。善として語られるタケミカヅチも、悪として語られるヤマタノオロチも、どちらも共に霊(=神)なのである。
一方、ここブリタニアを始めとする現代の西洋諸国では、精霊を上級下級だけでなく、善悪でも区別している。たとえば同じ火属性の精霊でも、サラマンダーは善で、ウィルオウィスプは悪なのである。このように悪側に分類される精霊を、西洋では悪魔や悪神と呼ぶ。
ヤマトでは、たとえ災いをもたらすような悪神でも、神は神である。むしろ、そういう悪神こそ祀り上げて、自分たちの味方をしていただけるように頼み込むという、御霊信仰の考え方はさほど珍しいものではない。
対して、西洋における悪魔や悪神は、打ち勝つべきもの、打ち滅ぼすべきものだった。西洋人にとって、悪神は完全な敵対者なのである。当然、悪神の存在を肯定するような悪魔崇拝は、異端の考え方だとされている。
そのため、反悪魔主義と呼ばれる、悪魔憑きに対する差別思想は根が深い。過去には悪魔狩りと称して、悪魔憑きやその家系の者が大量虐殺されたことがあったほどで、現代でもしばし差別を動機とした傷害事件・殺人事件が起きていた。
その点において、西洋における聖婚儀礼とは、被差別階級に落とされるかどうかを決定づけるものでもあるのだ。
「どうせあいつの守護精霊も悪魔だろ」
「わざわざやる意味ないよな」
「バカ。悪口言ってるの聞かれたら呪い殺されるぞ」
守護精霊は素質や才能によって左右されるため、子は親と似た性質の精霊と契約する傾向があるとされている。だから、彼らの言うように、父親が悪魔憑きのミユキは、悪魔憑きになる可能性が――差別の対象になる可能性が高いのだ。
同級生たちの下卑た笑い声を振り払うように、ミユキは真っ直ぐに神殿へと向かう。
しかし、講堂を出る直前で、呼び止められてしまった。
「緊張しなくていいのよ。きっと大丈夫だから」
「……はい」
正義の女神と契約しているだけのことはある。ミレーヌの励ましに後押しされて、ミユキは虚勢ではなく本心から神殿を目指すのだった。
聖婚儀礼は、契約者と守護精霊だけの神聖なものである。だから、神殿の中に入ると、ミユキ以外にはもう誰の姿もなかった。それどころか、外の喧騒すら耳に入ってこなかったくらいだった。
祭壇の中央に鎮座する白き聖杯。その前に立ったミユキは、いよいよ儀式に取りかかる。
ナイフを親指に当てて、水の張られた聖杯に血を一滴垂らす。そして、守護精霊を召喚するための呪文を唱えた。
「分かたれたる我が肉体の半身よ。引き裂かれたる我が魂の片割れよ――」
先進国ブリタニアでも有数のマカリイ学園に入学できた時点で、それなりの能力は保証されている。その中でも、一年時にはまずまずの成績を残すことができた。天才を自称するのはおこがましいが、秀才のはしくれくらいには引っかかっているのではないだろうか。
また、今は没落してしまったとはいえ、土御門家は元々貴族階級である。過去には、大物主神や世界蛇(西洋で言うヨルムンガンド)といった上級の精霊と契約した者もいるという。血筋は十分だろう。
だから、自分が四大精霊と契約することも、決してありえない話ではないはずだ。そうミユキは自身に言い聞かせる。
「病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、喜びの時も悲しみの時も、我は汝と共に在ることを此処に誓う」
呪文を唱え終えると、まばゆいほどの光が放たれ、その中から守護精霊が姿を現した。
一度見てしまったら、目が離せなくなるほどの美しい顔立ち。
この世のどんな糸も及ばないような、なめらかな長い髪。
薄布で作られ、露出も多い、ナイトドレスのような衣服。
そして、その服によって強調された、人間ではまずありえないだろう、豊満かつ均整のとれた体つき……
人型だ!
彼女の姿を見て、ミユキはそう驚喜していた。
サラマンダーはトカゲで、エケネイスも蛇だから、動物型がみな下級の精霊ということはない。しかし、ユースティティアのように、人型は神と称されるレベルの上級の精霊である場合がほとんどなのだ。
「……僕はミユキ・ツチミカドと言います。あなたは?」
「私はリリス」
緊張するミユキを、愛おしがるように彼女はそう答えた。
「リリス?」
「そう、リリスよ」
聞き取れなかったわけでも、知らなかったわけでもない。むしろ、よく知っていたからこそ、ミユキは聞き返していたのである。
リリスといえば――
「……悪魔の?」
「悪魔の」
そう、リリスといえば、知らない者がいないくらい有名な悪魔である。
いや、リリスは悪魔どころか――
「い、淫魔の?」
「大淫魔の」
お、終わった……
薄れゆく意識の中で、ミユキはそう思った。