第三章 雨季の告白(後編)
雨季を迎え、シッダールタと阿修羅はルンピニーの美しい宮殿で束の間の休息をとっていた。そこに業を煮やした父王、スッドーダナが一隊を連れてやってくる。
歓迎の宴は華やかに催されるが…。
第三章 雨季の告白(後編)
「シッダールタよ。何故、父の望みをかなえてはくれぬ。次の戦に出る前に妃を決めよ。式はおまえの言うとおり、マガダ国を攻め落としてからでもよい。しかし、次の敵はビンビサーラだ。軍の士気も高く、なかなかの強敵だぞ。妃とする相手さえ決めれば、その姫をこの宮殿に残しておこう。ゴーパー姫はどうだ。あの姫は……」
「おやめください!」
父王の言葉を遮り、シッダールタは大声を出した。西国の風情がする椅子に腰掛けた王は、王子のあまりの剣幕に、しばし言葉も無く彼の息子を見上げた。
「父上、今の私には戦の事しか頭にないのです。姫達の顔も私にはみな同じに見える。ただの無意味に飾りたてられた燭台みたいな物だ。興味はない。私に今必要なのは……」
言いかけて、シッダールタは次に用意された言葉にはっとし、呑み込んだ。
――まいったな。自分で何を言い出すやらわからなくなってきた。とにかく、今のところあまり過ぎた事は言えない――
「必要なのは、戦いに勝つための策です。それは断じて妃を娶る事ではない」
心落ちつけるようにトーンダウンして言った。
「しかし……」
「姫達はみな連れ帰り下さい。目障りです。もしこれ以上言われるのなら、さっさと出家してしまいますよ」
最後の切り札に、王はそれ以上何も言う事はできなかった。
「大丈夫ですよ、父上。マガダ国を落とし印度国の全てを支配できたら、父上の仰るとおり妃をもらいましょう」
「シッダールタ。まあ、おまえがそこまで言うのなら。だが、ダイバダも嫁を娶る歳となっておるからな。おまえが先に決めないと……」
王は諦めたように息をついたが、その瞳は笑っていた。
ダイバダというのは、シッダールタの同年代の従弟だ。幼いころから事あるごとに争ってきた相手だが、シッダールタが負けることはなかった。少々癖のある男だったため、シッダールタの軍には帯同させず、カピラ城の警護を任としている。
「ダイバダですか。まあ別に構いませんよ、あいつが先でも。ただし、私は自分の妃は自分で決めます」
――自分で決める――
そう口にした時、シッダールタの頭にある一人の姿が浮かんだ。
それは見事なまでの剣さばきで舞う黒髪の戦士だった。
――何を馬鹿な。阿修羅は男だ――
「どうした? シッダールタ」
「え、ああ、いえ。父上、それよりコ-サラを攻め落とした時の話をしましょう。私は是非この話をしたかった。」
「おお、そうだ、そうだ」
シッダールタの身振り手振りを加えた熱い物語りは、途絶える事なく夜を徹して続けられた。
その同じ夜、阿修羅もまた眠れぬ夜を過ごしていた。
スッドーダナ王の来訪はそれだけで自身を緊張させたが、眠れぬ理由はそれだけではなかった。
――あの王とともに来た兵士達……。あの者達は王の親衛隊なのだろうか。武具、防具の全てに天の山々の印が付けられてあった――
その印を阿修羅はどこかで見たような覚えがあった。
――しかし……、どこで……――
阿修羅はその不確かな不安に胸がざわめいていた。そして、それはスッドーダナ王に対する疑念として形を変え、深く心に刻まれた
三日間の滞在の後、王はカピラヴァストゥに帰っていった。この日は雨季には珍しく晴れ間の覗く朝だった。
「王子よ。吉報を待っておるぞ」
王はシッダールタの手を握りしめた。
「ええ。父上もお元気で」
父の手を握り返すシッダールタ。その後ろに控える阿修羅に、スッドーダナは声をかけた。
「阿修羅よ。王子を頼んだぞ」
「はっ」
低い声でかしずいたまま、顔も上げずに阿修羅は答えた。
――阿修羅……。何故か不吉な予感がする。あの夜、シッダールタの口を占めたのは阿修羅の事ばかりだった。もちろん、彼の功績無しでは勝利は有り得なかっただろうし、その技量は目のあたりにした私も疑うべくもないだが……。シッダールタが阿修羅を語る時のあの憑かれたような目、いや、それ以上に何か得体のしれない不安が胸に満ちてくる――
振り向けば、雨に洗われたルンピニーの白い宮殿が朝日に輝いている。
――シッダールタ――
王は不安な気持ちを残したまま、ルンピニーの園を後にした。
雨季は終わろうとしていた。
今年は心配された大きな洪水は無く、予定通りにマガダを攻める事が出来そうである。カピラヴァストゥに戻っていた兵士達も、続々とルンピニー園に集い、宮殿近くにテントが張られた。
シッダールタの周りも将兵達が集まり、軍議、戦闘準備と俄に慌ただしくなってきた。
「相手はビンビサーラ王だ。若いが手強い奴だからな」
マガダ国のビンビサーラ王は、シッダールタと同世代の若い王だった。
印度国一の強国の君主であり、その統治力も優れていたが、アシタ仙人より “王の中の王、聖王となる” と予言されたシッダールタに対抗心を持ち、今までも事あるごとに対立してきた。
「まず、北の砦から潰そう。ここを落とすのが最も効果的だ」
阿修羅が指さす砦は、此の戦いを控えマガダ国が再築したばかりの物だった。
「うむ」
シッダールタは頷くと最も信頼を置くナダの隊に先鋒を命じた。
「ナダ隊長」
阿修羅がナダに声をかけた。
「私も先鋒に加わろう。この砦の攻略はかなり困難だ。リュージュ一人では荷が重い。王子、許可を」
「そう……だな。仕方あるまい。だが、砦を奪った後は、必ず本陣に戻って来いよ」
「御意のままに」
阿修羅はにこりともせず、努めてぶっきらぼうに答えた。
阿修羅の実力は分かっているものの、王子が彼を大事にしすぎる事におもしろく思っていない武将も少なくなかった。それにいち早く感づいていた阿修羅は、一度王子のもとを離れる事を考えていた。
「ナダ隊長、またよろしく頼む」
「はっ」
以前とは立場が全く逆になっていた。が、ナダは元々細かいところにこだわらない性格である。元部下である阿修羅が、今やカピラ軍になくてはならない存在となった事が誇らしく、満足していた。もちろん彼自身、阿修羅のおかげで地位が向上したのは言うまでもない。
「もう行くのか、阿修羅」
「ああ。明朝、夜明け前に発つ。雨季は終わりだ」
阿修羅が忙しく旅支度する部屋で、シッダールタはつまらなそうな顔をして、寝床に腰を掛けている。
「用がないなら、出ていってくれ。邪魔だ」
「おいおい、それが王子に言う言葉か?全く、兵達がここに集ってから随分と冷たい」
「シッダールタ」
あきれた顔をして、阿修羅はその手を止めた。
「王子。では、兵達が私達の事をどう噂しているか、御存知でしょうか?」
急によそよそしい言葉使いをして、シッダールタを慌てさせた。
「え? いや、さあ」
「ったく。脳天気な野郎だ」
阿修羅は短く舌打ちした。
「いったい何て言ってるんだ?」
阿修羅は王子のお尻に敷かれていた彼の帯を引っ張った。たまらず寝床にひっくり返るシッダールタ。
「口では恥ずかしくて、とても言えん事だ!」
「なんだ? それ……」
「雨季の間中、ここで使用人以外は殆ど二人だけだったからな。だが、私はおもしろくない」
ひっくり返ったまま寝そべってしまったシッダールタは、カリカリ怒っている阿修羅をじっと見つめていた。
「阿修羅」
「なんだ」
「怒った顔も魅力的だ」
「あほか、おまえは!」
手にあった帯を投げつける。それを右手で受け止めると、シッダールタは素早く起きて左手で阿修羅の腕を掴んだ。
「やめろ! ふざけるな!」
阿修羅は王子の手を振り払い、背を向けようとした。
「そう怒るなよ。相変わらずだな」
振り解かれた手をもう一度阿修羅の肩に手をかけるシッダールタ。勢いあまって強く掴まれた阿修羅はバランスを崩す。
「わっ」
「阿修羅!」
慌てて助けようとしたシッダールタも、阿修羅とともに床に転げ、そのまま重なるようにうつ伏してしまった。
――えっ?――
右手から丸められた帯が転がり、美しいモザイク模様が目を覆った。そして左手には。
――何だ……、この柔らかいもの……――
思わずぎゅっと掴んだ。
「わあ! や……やめろ!」
「いて!」
体を翻した阿修羅の蹴りがシッダールタの腹に入り、王子は壁まで弾き飛ばされた。そしてそのまま、自分の左手と阿修羅の顔を交互に見た。
「阿修羅……、おまえ……まさか……」
阿修羅は胸を押さえ、真っ赤になって床にへたりこんでいる。
――上着の上からだったから、よくわからなかったけれど、あの感触は……――
「出てけ……」
「あの……」
「出てけ! それがいやなら、今すぐ私を殺せ!」
阿修羅は胸を押さえたまま、声を出さずに泣いていた。体を震わせ、涙がぼたぼたと床に落ちる。その怒りの激しさにシッダールタはなす術もなく、茫然としていた。
左手の淡い夢の感触が、熱を帯びたように熱かった。
出発の朝が来た。阿修羅は何事もなかったように、一際目立つ白い豪気な鎧を付け、愛馬白龍に跨がっていた。東の空に目覚めたばかりの陽の光が覆うと、その姿は神々しいほどだった。
「王子、それでは行ってまいります。必ず北の砦を奪ってみせます」
阿修羅はシッダールタの目を見ず、何の抑揚もなくそう言った。
「ああ、阿修羅。無事を祈っている」
その言葉に一瞬ぴくりと反応したが、何も言わず背を向け、阿修羅は出発した。
――阿修羅……――
シッダールタの心に、明らかに今までとは違う明確な思いが生まれていた。それは、ずっと悩み続け、否定し続けていた感情だった。
――だが、今はもう迷う事は何もない――
目覚めたばかりの想いを胸に、阿修羅の光あふれる後ろ姿をいつまでも見つめていた。
つづく