第三章 雨季の告白(中編)
気だるい雨季。スッドーダナ王がシッダールタ達を訪問する。
第三章 雨季の告白(中編)
阿修羅は蓮池を見下ろせるテラスで、一人水面を打つ雨を見ていた。
――不思議だ。この世の果てまでこの雨は降っているのだろうか。視界が許す限りの遠く遙かまで、この雨の線は続いている。天から音もなく舞い降りてくる。何千万、何億本の蜘蛛の糸のように……――
「阿修羅、何を見ている?」
ふいに、現実に戻す声が耳元に触れた。
「シッダールタか。いや、ただ、雨を見ていた」
そんな風情も美しい。シッダールタは一つ咳ばらいをして言った。
「うん……。阿修羅、三日後に父上がここに参られる」
「スッド-ダナ王が、ここへ……?」
「そうだ。こうなった以上、ここでお前を会わせる。わがカピラ国の軍神として」
「軍神……。それはいいが、私はもしかするとスッド-ダナ王に命を狙われていたのかもしれんぞ」
阿修羅は表情を変えずに言った。
「まさか。それに、もしそうだとしてもその子はとっくに死んだと思っているさ。よもや生きてわが軍の軍神となってるなんて思いはしないだろう」
阿修羅が幼い頃、どういう理由か兵士に殺されかけた事は確かにシッダールタにとってショックな話だった。その国は阿修羅の記憶、辿った道からカピラ国だろう事もわかっていた。
しかし、兵士が身分の低い者を些細な事で殺す事など幾らでもあった時代、それ程大きな意味があるとも思えなかった。またその後阿修羅も追われなくなった事から、砂漠でのたれ死んだと思われているのは間違いない。
さらにこれだけカピラに軍神 “阿修羅” ありとうたわれているのに、何の反応もないのは心配ない証拠だとシッダールタは考えていた。
「そうだな。それならいいが……」
シッダールタは頷くと、阿修羅の細い手首を掴んだ。
「何だ!」
驚いて身構える阿修羅。
「いや、こんな細い腕にどうして大男がバッサバッサと切り捨てられるのかと思って」
「ふん。細くて悪かったな。ガキの頃の栄養が悪かったのさ」
「ははっ、そう言うな。ああ、そうだ。雨続きで体も随分鈍ってきた。稽古をつけてくれ」
「いいだろう」
阿修羅が立ち上がると、二人磨き上げられた白い石の通路を歩いて行った。
スッドーダナ王がルンピニーの宮殿に到着したのは、三日後の午後の事だった。宮殿にいた全ての兵士、使用人達は王を出迎えるべく、雨の中、宮殿の外へ立ち並んだ。阿修羅もシッダールタの傍らに控え、スッド-ダナ王の足音を待った。
「父王。お待ちしておりました」
「シッダールタ、この度は本当によくやった。あのコーサラの息の根を止めるとは。皆も喜んでおるぞ。城へ戻らぬか? 王妃も会うのを楽しみにしておったのに」
「申し訳ありません。しかし、私も少々今回の戦には疲れました。それに、雨季が終わればすぐにもマガダ国を攻めます。短い間ですが、この静かな宮殿で休みたく思います」
「そうか……。それも仕方がない。そこに控えておるのは阿修羅か?」
「はっ」
スットーダナは足を止め、シッダールタの影に添う阿修羅に気が付いた。
「そちにはゆっくりと話を聞きたいものだ。ずいぶんと手柄をたてたそうだな」
「いえ。私の力など……」
「父王、後は宮殿で。宴の用意もできております」
「おお、そうだな」
スッドーダナ王は上機嫌で宮殿内へと入っていった。その後を、シッダールタの予想通り美しく着飾ったどこかの姫君たちが従って行った。
「阿修羅よ。もっと近くに、さあ、顔を上げよ」
「はっ」
スッドーダナ王を歓迎する宴の中で、正装した阿修羅は王に促され顔を上げた。
「ほお」
スッドーダナ王は思わず声をあげた。
――これが噂に聞く阿修羅か? とてもそのようには見えん。この美しさ、幼さ。人を殺めるより慰めるほうが相応しい――
「阿修羅、おまえの活躍を、ある者が三面六肢の異形の者と例えていた。六つの目、六本の腕、どこからでも繰り出される剣技と。私もそれを是非見てみたい。どうだ、見せてはくれないか?」
王は噂を自分の目で確かめたくなった。
「阿修羅、いいではないか。見せてやれ」
父王に阿修羅のその超人的な腕前を見せたかったシッダールタにとって、それは好都合な申し出だった。
「誰か、阿修羅の相手をしろ」
と言っても、阿修羅の相手をしたい者など誰もいなかった。
「しょうがないな。別に殺されるわけじゃない。誰か」
「私がお相手いたしましょう」
そう言って、立ち上がった大男は、スッド-ダナ王とともにやってきた王の家臣、バサラだった。
――天の山の印……?――
阿修羅は自分を見下ろすように立つバサラをぼんやりと視界に入れた。鎧の中央に付けられた小さな印に束の間気を取られた。
「おお、バサラか。いいだろう」
腕自慢の兵士は、この小さな兵士が軍神とうたわれるのが信じられなかった。
――女みたいな面しやがって。スッド-ダナ王の前で、ズタズタにのしてやる――
「獲物は?」
「双方好きな物で」
バサラは槍を、阿修羅は剣を取った。
「殺すな。殺したら負けだ」
シッダールタが阿修羅に耳打ちした。何も言わず頷く阿修羅。
――なに!――
その様子にバサラは腹を立て、奥歯をぎりぎり言わせた。合図とともに槍をぐるぐると頭上に振りかざし、阿修羅目掛けて閃光のごとく突きたてる!
「もらった! たわいもない!」
客人達は大きな歓声を上げた。が、次の瞬間、彼らは信じられない光景に息を飲み、絶句した。槍を突きつけられたと思った阿修羅の姿は、槍の先にはなかった。
影すら見せない僅かな間にバサラの懐に在り、その喉笛に剣の刃をたてていた。
「動くな。動くとその首吹っ飛ぶぞ」
「な……んだと……」
「勝負あった!」
シッダールタの声で、ようやく人々は息を吹き返したように感嘆の声を上げ、手を打ち鳴らした。
「失礼いたしました」
未だ硬直したように動けないバサラを尻目に、阿修羅は剣を鞘に収め王に一礼した。
「す……凄いものだな。さすが軍神と言われるだけはある。頼もしいぞ、阿修羅。今後もシッダールタを頼んだぞ!」
「はっ」
シッダールタは満足気に阿修羅に笑みを投げ掛けた。
しかし、スッドーダナ王はその二人の交わされた瞳に、先刻までの高揚した気分がすっと冷め、何故か胸さわぎを覚えた。それは言い知れない不安となって王の心に暗い影を落とした。
つづく