第三章 雨季の告白(前編)
カピラ軍の快進撃は、雨季に入ったことで一旦休息の時となる。
第三章 雨季の告白 (前編)
雨季が近づいていた。
日に日に太陽の光が厚い雲に覆われていく。じとじとした不快な汗が、兵も馬も疲労させた。
「シッダールタ、こうしてつっ立っているのはもう飽きた。雨季のはしりの雨がうざったい。私に百人程の兵をくれ。一気に攻め落とす」
「やれるか?」
「自信がなければ言わん」
コーサラの都シュラバーティ、その主城を取り囲み、じりじりと追い詰めていた。コーラ軍は夜も昼もない緊張で疲れ果て、今日も一人、二人と歯が抜け落ちるようにカピラ軍の下に降った。
「降伏は時間の問題だ。だが、こちらももう限界だからな。念のためリュージュを連れていく」
「わかった。気をつけろ、阿修羅」
「任せておけ」
阿修羅がコーサラ国王の首を取って戻って来るまで、長くはかからなかった。
白馬に乗る軍神の姿を見ただけで、コーサラの兵達は我先に逃げ出し、立ち向かう将兵達も阿修羅やリュージュの剣の前に露と消えていった。
そして、コーサラの国王ヴィルーダカは、事もあろうに命を惜しむ側近達の手で首を取られ、阿修羅の前に差し出されたのであった。
「ふん。何と不義理な臣を持った事だ。だが、それも王としての器がなかったと、そういう事だな」
側近達は何も言わず、ただ頭を地にすりつけ脅えている。阿修羅の横では、リュージュがあきれ顔で彼らを見下ろしていた。
「この者達を武器、防具全て取り払い城外へ放り出せ!」
「はっ!」
「もう、武将でも何でもない。その身を恥じ、生き永らえるがよい!」
ここに、印度国にマガダ国と並び称された強国、コーサラ国は失われた。王の血縁者は全て捕らわれ、処刑されるか幽閉され、その血は根絶やしにされた。
シッダールタはこれに満足し、雨季に入る事もあり一時兵を休ませる事とした。自らもカピラヴァストゥに戻るべく、戦いに血で染めてきた道を再びたどった。
「阿修羅、おまえもカピラ城に入るがいい。部屋を用意しよう」
カピラヴァストゥに近づいた夜、張られたテントの中でシッダールタが言った。
「いや、それは断る。私は城に入るつもりはない」
「なに!? 何故だ、父王スット-ダナもお前に会いたがっている。この度の戦、お前の力がなければ勝てなかった」
「城もそうだが、カピラヴァストゥに入るのも今はやめておく」
「どういう事だ?」
シッダールタが言葉を尽くして問いても阿修羅は貝のようにじっと黙ったままだ。
「それでは、私もカピラヴァストゥには入らん」
「シッダールタ!?」
開き直ったようなシッダールタにさすがの阿修羅も声をあげた。
「お前と共にいる。そうだな。ルンピニー私の宮殿がある。小さいが美しい城だ。そこに行こう」
「しかし、それでは王が……」
「いや、気にするな。実は父君は私に妃を娶れとうるさくてな」
――妃?!――
阿修羅の胸に何か刺のようなものが突き刺さった。
――何だ……。この胸の痛みは……――
「そうか、妃を持つ歳だものな」
突然襲った動揺を悟られないよう、努めて平静に阿修羅は言った。
「冗談じゃない。父君の薦める相手など、みな貴族の世間知らずな娘ばかりだ」
「いいではないか。女など世間知らずの方が」
「本気で言ってるのか?」
シッダールタは阿修羅をじっと見た。胸の奥にある刺が見透かされそうで、阿修羅は席を立ち、後ろを向いた。
阿修羅は自分で自分が不可解だった。妃を娶るという言葉を聞いた時、なぜ胸が痛んだのか。それは今まで経験した事のない感情だった。
阿修羅は背中でシッダールタの言葉を待った。
「阿修羅、私は妃など娶らん。私は私の思うまま生きる。子もいらない。カピラ国も私の手にする天下も、私の死後はまた力のある者が奪えばいい。私は……」
シッダールタも立ち上がり、背を向けた阿修羅の肩に手を伸ばした。
「お前さえいればいい」
「止めろ!」
不意に振り向き、阿修羅はシッダールタの手を振り払った。
「お前のその言葉、どういう意味かは知らんが。言ったはずだ、私が興味あるのは天下を取るお前だ。この世を手中に収め、真の王となるお前だ。それ以外は何もない! これ以上ふざけた事を言うなら私は砂漠へ帰るぞ、変態!」
真っ赤になった阿修羅が捲くし立てた。変態と言われてさすがに堪えたのか、シッダールタは大きなため息をついた。
「わかっているさ。だが……」
どうにもならないというように、首を横に振った。
阿修羅はそのシッダールタの様子になんだか無性に腹が立ち、さらに追い打ちをかけたくなった。
「教えてやろうか、シッダールタ。私が何故カピラヴァスティに入らないか。何故、城にいかないか」
「阿修羅?」
「私はここ、カピラ国にいたんだ」
阿修羅はシッダールタを険しい目をして見た。そして、過ぎ去った時のかけらを繋ぎ合わせていった。
事はとある夜、突然起こった。
およそ母親らしい事をしてこなかった女は、その黒髪の痩せ細った子供を揺り動かした。
「起きなさい!」
「何……母さん?」
「ここを開けろ!」
異様な気配だった。戸をどんどんと叩く音、何か金属的な物を擦り合わせる音が耳に響いた。
「今、城の兵士達がお前を殺しに来た」
「な、なぜ?!」
「わけを言っているひまはない。でも、いつか来ると私にはわかっていた」
「かあさん!」
小さな馬小屋のような仮宿の戸は、今にも壊れそうだった。
「とにかくここから逃げなさい。もうすぐ日が昇る。それまでにこの街を出るんだ」
「街を出る?」
幼い子は何が起こっているのかわからず母の鬼気迫る形相にうろたえている。
「しっかり! お前にはそれができるよう術を授けてきた。私が奴らを引き付けている間に隙をみて走れ。お前が助かる道はそれしかない」
「母さんは?」
「心配は要らない。私を殺す事は出来ない」
確信に満ちた声で母親は言った。
「いずれお前が何故命を狙われるか、必ずわかる時が来る。それがわかるまで、決してここへ戻ってきては駄目だ。母さんを探してもだめだ。約束できるね」
「は……い、母さん」
「お前は賢い子だ。必ず生き延びる。それから……。この名を覚えておきなさい」
「名前?」
母親は子の耳元である名をささやいた。
――シッダールタ……――
「さあ、走れ!」
母親の声と兵士達の雷のような足音に押されるよう、幼い子は逃げ出した。夜明け前に街を出て、兵士の足音におびえながら走り続けた。
「ここは……どこだ。暑い……水……」
名もない子供はそこを何処とわからないままひたすら走った。立ちはだかる天の山に拒まれ、どう逃げたのだろう。焼けつくような日差しが体中の水分を奪い取る、砂漠にいつしか辿り着いていた。そしてその渇ききった砂の上で、とうとう動けなくなった。
賑やかな街を出てすでに何十日もの日々が経過していた。追ってくる兵士の姿はようやく無くなったが、もう一歩も進む事は出来なかった。
――もう駄目だ。かあさん、術ってなんだよ……――
親子は国を旅して廻る見世物小屋の一座に帯同して暮らしていた。母親はその芸を小屋の客に披露し、子は下働きとして昼夜を問わず働いていた。芸人たちは時に陽気だが残酷でもあった。子は母親にすがる事もできず、ただ毎日を生きていた。
自分の食い扶持は自分で稼ぐ。食べるものがない時も珍しくはない。そんなときは夜の野山に獲物を追った事もある。
唯一の楽しみは幕間から見る母の芸だった。それは凛とした美しい舞で、子供心にも魅かれるものがあった。
二人は一つ所に長くいる事はなく、その国を旅してまわった。天の山が見える美しい国を。
「なんだ。こんな所にガキが死んでるぜ。たいした服も着てないな。どこから来たんだろう」
消えかかる意識の中で、人の声がした。精一杯の力を出して顔を上げた。
「おい、こいつまだ生きているぜ、我楽」
「なに?」
「助け……て」
懇願する必死な瞳が向けられた。我楽と呼ばれた男は、その瀕死の子供の瞳に、何か途轍もない力を感じ、強く魅かれた。
――こいつは……不思議だ。こんな死にかけたガキに言い知れない力を感じる――
阿修羅、七才の時の事だった。
シッダールタはその言葉通り、カピラヴァストゥには戻らず父王を悲しませた。
ルンピニー、彼が生を受けたその園の宮殿で、阿修羅とともに雨の降り続く日々を過ごしていた。
「王子、父王スッド-ダナ様より使いの者が来ております」
「また帰城の催促か。貴族の娘と会えと言わなければ、いつでも帰ってやるというのに」
「それが……」
モッガラ-ヤは言いにくそうに口篭もった
「何だ」
「三日後、ここにおいでになると」
「父上が、か?」
「はい」
「そうか……、では来るなとは言えんな」
――どうせお一人ではあるまい。さて、どうするかな――
「阿修羅はどこだ?」
「西の蓮池の辺りにおられましたが」
「そうか。父王を迎える準備をしろ。盛大にな」
「はっ」
シッダールタは、彼の豊かな黒髪を右手でかきあげ、足音を響かせ歩いて行った。
つづく